竜の国の魔法使い

風結

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六章 世界と魔法使い

王様と炎竜の選択

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 コウさんの対処が早かったのが功を奏して、感染したのは三人だけだった。

 いや、だけ、という言い方は良くない。感染者が出たことが問題だし、感染した人からすれば、数の少なさなど関係ないのだ。

 コウさんが「転移」で伴って広場に来たのは、二人だった。竜の背骨の居住地に居た初老の男性と、竜の肩で店番をしていた老婆。それと、大路周辺の住宅街から、娘を抱えた女性が駆け込んできた。

 そして、最後の一人が、感染源である呪術師だった。彼は意識を取り戻したが、朦朧もうろうとしていたので「軟結界」は解いてある。

 初老の男性と老婆に見覚えはなかったが、見知った少女がいた。

 竜饅事件で、みーを助けようとした子供たちの、魔法使い役の女の子。子供たちを守ろうとして僕の前に立ちはだかった、不思議な色合いの、赤茶色の瞳が印象に残っている。

 今は目を閉じて、急遽きゅうきょ用意した枕と布の上に横臥おうがさせられて、苦しげな浅く速い呼吸を繰り返している。

 症状は、四人とも同様に疲弊具合が激しく、「結界」の中に居ても回復の兆しは見られない。

 疫病がこれ以上拡散することはないと告げてあるので、大広場から立ち去る人は少なかった。現況は、「窓」を通して観られるのだが、それでは足りず、大広場に足を運ぶ人が引きも切らない。

 仕方がないので、竜騎士と近衛隊に封鎖と警備を任せてある。

「フィア様っ、……どうか、どうかこの子を、シャレンを助けてください! 私ならどうなっても構いません、どうか、どうかっ、お願い致します!」

 かんばせにまだ幼さが残る女の子ーーシャレンの母親が、コウさんに泣いて取りすがる。

 四十路に見えるが、実際には三十路くらいだろうか、母親の手足は、木の枝に譬えてしまいそうになるくらい、細く不健康な土気色だった。

 城街地の貧困層に、似たような痩せ細った者たちが多くいたが、竜の国で栄養状態が改善されて、血色は良くなってきている。

 恐らく、母親は何らかの病を患っているのだろう。

「シャレンが……、シャレンだけが私の……、この子がいなくなってしまったら、私にはもう、なにも……」

 手から力が抜けて、倒れそうになる母親をコウさんが抱き留めて、シャレンの横に座らせる。

 母親は、娘に抱き付こうとして、抱き付けばシャレンが余計に苦しむことになると思ったのか、娘の手をそっと両手で包んで、涙をはらはらと落とす。

御母堂ごぼどう。治癒魔法は、病には効果が薄い。初期症状ならいざ知らず、こうも病状が進行してしまっていては、手の施し様がない。薬はなく、あったとしても、今から調合したのでは間に合わない」

 母親への宣告を自らの責とした老師が、見立てを淡々と感情を交えずに語る。

 治癒魔法を得手とし、薬師としての技能を併せ持つ老師の見立てなら間違いないのだろう。病を治す魔法は存在しない。理由はわからないが、コウさんが研究するのを老師は許可していない。

 恐らく、生命の根幹に係わるような何かがある為、禁術扱いなのだろうが、本当のところはわからない。

 この分野に於いては薬師のほうが数歩、先を進んでいる。

「……そんな」

 母親は、這い寄る絶望に、最後の糸を切られたように、意識が朦朧としている娘の体の上に覆い被さる。

 初老の男性と老婆に付き添ってきた身内の人々も、老師の言葉を聞いて、悪意ある重たい空気に圧し掛かられたように項垂うなだれてしまう。

「……あの、フィア様。本当に手立てはないのでしょうか?」

 竜の民を代表してだろうか、バーナスさんが最後の希望に縋るように、人々の底意を言葉にする。

 そう、彼らは思っている、考えている。翠緑王なら、どうにかなるのではないかと、助けてくれるのではないかと。

 ーー信じている。信じたかった、のかもしれない。

 城街地という、まつろわぬ者たちが集められた場所で、人の悪意が渦巻き、欲が交錯し、明日を想うことも出来ず、見えぬ壁が絶えず人々に圧し掛かっている。

 成功と失敗も、生と死も、虚飾と怯懦きょうだも、希望と諦観も、夢と現実も。混在して磨耗して、神々に祈ることさえ忘れてしまった人々が、竜の国という場所を得て、何を思ったのか。

 家畜の餌を白魔病で失って、竜の国に遣って来た遊牧民。失われる民の終着地として竜の国を選んだダニステイル。様々な理由から、竜の国を望んだ少数民など。

 皆が何かを求めて、自らの意思で選んで、竜の国へと、竜の民へと、絆を結わえた。

 コウさんに一切の責任はなかったとしても、竜の民は、裏切られた、と思うかもしれない。

 勝手に信じて、勝手に裏切られたと思って。

 ーーでも、それは僕たちが現出させてきたものでもあるのだ。竜と人の関係のような危ういものを抱えながら、未だ気付いてさえいない危難に震えながら、歩き出してしまった。

 女の子と一緒に歩いてくれる、そんな優しい人がたくさん集まってくれればいい、という安易な正義感を拠り所にして。

 僕が魔法使いに差し出したのは何だったのだろうか。

 もう一度、顔を上げて欲しいと願った、想いの源泉は何だったのだろうか。

 ああ、おかしいな。そんな前のことではないのに、今とあのときの間にある、短い時間がとてもながくて大き過ぎる想いがことばにできなくて、答えに辿り着くのを邪魔している。

 ーーそうなんだろうな。邪魔しているものの正体に、然したる苦労もなく心付く。余りにわかり易くて、単純だったから、振り返る必要だってなかった。

 空に手を伸ばしそうになってしまった。

 竜の国は、幻想の上に成り立っていた場所なのかもしれない。幻想なら、砂の城のように、些細なことで崩れ去ってしまう。そこにあったことさえ忘れてしまう。

 ひとりぼっちのおうさま。

 暖かな眼差しの、翠緑の瞳の魔法使いから、言葉が零れたーーような気がした。

 それは、微かな風にも攫われてしまう儚いもので、竜の咆哮ですら揺るがない確固たる覚悟を伴うものだった。

 ああ、僕の内はぐちゃぐちゃだ。

 喜んでいるのか、悲しんでいるのかわからない。未だに、魔法使いは望んでいる。他人ひとを受け容れることを怖がって、楽なほうへ逃げたがっている。

 少女にその意思はなくとも、彼女の存在そのものに根を張っている魔力の軛が、過去の痛苦を、今に至る魔力の弊害を、膿んだ傷口のようにじくじくと、深い場所を蝕んでゆく。

「治します。四人は、竜の民は、竜の国に係わった人は、私が治します。治してみせます」

 翠緑の瞳が、穏やかな眼差しのまま、輝きだけが増してゆく。

 余裕がない所為か、コウさんの口調が硬くなった。

 老師が人知れず嘆息する。近くにいた僕に、懸念を伝えようとしたのかもしれない。

 コウさんの宣言を聞いて、シャレンの母親がゆっくりと顔を上げて、信じられないものを見るような、わずかな恐怖を宿した面持ちで、幼い魔法使いを凝視する。

「そ、そのようなことが、出来るの……でしょうか?」
「語弊がありました。正確には、治す、のではなく、移す、です。四人の病を、私に移します。ですが……」

 コウさんが憂慮の表情で言葉を詰まらせると、叫ぶように母親が申し出る。

「それでは、私に移してくださいっ! この子だけでなく、全員の病でも構いません!」
「あなたなら、わかるでしょう。魔法は、心象が重要。他者という曖昧な器ではなく、慣れ親しんだ自らの体を媒介ばいかいにしなくては、魔法の成就は覚束無いということに」
「……それは、……でも、でも……」

 母親は項垂れて、再び我が子に視線を向ける。

 彼女は、コウさんの言葉を理解していた。どうやら、先ほどの母親に垣間見えた恐怖は、魔法への造詣の深さに依るものだったらしい。

 母親や老師の様子から、やはり病気を治すというのは、魔法的には有り得ないことのようだ。

 コウさんに成算はあるのだろうか。彼女には、通常の肉体と魔力体がある。病でどれだけ肉体が損傷しようと、死ぬことはないのかもしれないが。

 どれだけの負荷が掛かるのか、四人分の病、苦痛の度合い、そもそも自らに移した病を治すことが、消し去ることは可能なのか。

 ……はぁ、聞いても教えてくれないだろうな。

 これまで何度も見てきた、頑固なところ、というか、意固地なところのある女の子の顔を見て、半ば諦める。

 他にも懸念がある。コウさんは、魔法の成否に係わるらしい部分で、言葉を濁していた。確実に成功する、その確信は彼女にもないようだ。そして、魔法に心象が重要であるなら、自らに芽生えた疑念は、その枝葉を、根を伸ばして、魔法の成否に影響を及ぼすかもしれない。

 それでも、もはや遣らないという選択肢は、王様にはないようだ。

「姫様! まさか御身を犠牲になさるおつもりですか!?」
「いえ、大丈夫です。私が死ぬようなことはありません。それに、この疫病は敵の攻撃です。竜の国への攻撃であるなら、私が払わなくてはなりません」

 すっと両膝を突いて、シャレンから離れるよう母親を促す。

 ーーそんなとき、よく知っているが、明らかに相違のある凛とした声が、緊迫した事態の推移を見守っていた人々のしじまに響いた。

「ーーエンよ。我を降ろせ」

 その声は、エンさんの腕の中から聞こえてきた。

 彼に抱えられている、みーの口から発せられていた。

 その炎眼は、いつもの可愛らしい、好奇心丸出しの、無邪気さに揺れている、というようなことはなく、周期を経た知性を感じさせるものだった。

 どこかスナに似ている、と眼差しの清澄さに既視感を覚えた。

「ん? ん~、りゅー、か?」

 ……りゅー? りゅう、かな?

 エンさんの口から出た呼び名に、どう反応したものか。

 「みー」や「ちみっ子」ではなく、「りゅー」、或いは「竜」とは何を看破、汲み取ってのものなのだろうか。

 正解したらしいエンさんの頭を撫でると、竜の頬が緩む。

 みーの笑顔に似ているが、やはり違う。慈しむような、可愛がるような、見守る者の情感がある。

「そうさな、そんなところだ。我のことは、百竜とでも呼ぶが良い」

 謎存在のりゅーは、自ら百竜と名乗ったが。その言い方だと、偽名の可能性があり、本当の名は別にあるかもしれないと。

 あー、まさか、ミースガルタンシェアリ? と蓋然性のある名が思い浮かんだところで、嘗てみーが言っていたことを思い出した。

 まだ竜の国を造っていたときのこと。

 「やわらかいところ」対策でコウさんと見詰め合う、ということがあったが。

 クーさん曰く、僕の、無遠慮な笑顔、を見て、みーは自らの内に生じた「むりゅむりゅ」なものは自分のじゃない、と言っていた。

 あのときは、これまで生じたことのない感情を持て余しているのではないか、と思ったが、もしかして本当にみーではない存在がみーの内に住まわって、影響を与えていたのだろうか。

「……ひーちゃん?」

 エンさんの腕から降りて、コウさんの向かい側、寝かされている四人の足が向けられている場所に百竜が立つと。みーであるがみーでないらしい竜を見て、コウさんは首を傾げた。

 これは慮外、彼女は百竜の存在に気付いていなかっただけでなく、今以てその存在を推し量れていないように見えるのだが。

 一方、百竜のほうはというと、ひーちゃん、と呼ばれて、困ったような、それでいてむず痒さを我慢するような表情で、

「我が友よ、れるは後でも良かろう。それより、わかっておるのだろう。そなたは、人を大切に想い過ぎる。人と世界を同等と捉える、斯くの如き心象を抱く其方そなたが、運命を綾なすには如何程の魔力が必要か。この世界を鳴動させる必要があろうて」

 忠告、と言うには重大過ぎる内容をコウさんに伝える。

「……この世界のすべての魔力を、世界魔法と呼ぶべき規模の魔法が必要になるの。でも、制御できるかわからないの。もし失敗したら、この世界に致命的な傷を……」
「なればこそ、我がる。そなたの及ばぬところは、我がすべて繕ってやろう」

 傲岸不遜。その言葉を体現した百竜は、余裕さえ醸して、翠緑王をそそのかす。

「我が友よ。中途半端なことをしてくれるな、救うのであれば、すべてを救ってみせよ。竜頭竜尾有竜無竜、すべから粗相そそう遺漏いろうもなく、十全を成さしむるべし。思い知らせてやるがよい、この世界に。其方を生んだ、この世界に。世界が其方を決するのなら、其方が世界を決してみせよ。我らなら、それが能う」
「…………」

 ひとりぼっちのおうさまーーなら、どんな顔をするだろうか。

「あー、いちおー聞いておくぞ、ちび助。もー後戻り出来ねぇぞ、いーんか?」
「前も後ろも関係ない。そこにコウが居るなら、そこがあたしたちの居るべき場所。あたしたちを巻き込んで良い。そして、巻き込むのであれば、全力で、好きなように」
「…………」

 ひとりぼっちのおうさまーーなら、どんな答えを返すだろうか。

「弟子の失敗は、師匠の責任でもある。老い先短い身で、無責任なことになってしまうが、命数が尽きるまでなら、どんな荷でも一緒に背負ってあげるよ」
「…………」

 ひとりぼっちのおうさまーーは、ずっとひとりぼっちでいられるだろうか。

 童話の中のおうさまは、誰よりも強くて、誰よりも賢くて、誰よりも優しくて、誰よりも正しかった。

 独りだけで、皆を護って、豊かにして、笑顔にして、幸せにすることが出来た。

 そんなことが出来たおうさまは、出来てしまったおうさまは、本当に独りでいたかったのだろうか。

「みー様なら、こう言うかもしれませんね。『やうやうやうやうやうっ、こーといっしょじゃなきゃいやなのだー。こーじゃなきゃだめなのだー』と。仔竜のみー様を泣かせるなんて、教育係として失格ですね。それでは僕と同じになってしまいますよ?」
「…………」

 女の子が憧れた、ひとりぼっちのおうさまは、本当に女の子がなりたいと夢見た姿だったのだろうか。

 女の子は物語の「おうさま」にも、少女が望んで、なりたいと願った「王さま」にも、なれないというのに。「王様」は、夢見ていた。

 誰も傷付けないでいられるなら、誰かに必要とされるのなら、独りでもいい、独りがいい、わかってもらえなくてもいい、わからなくていい、誰かの為に、皆の為に。

 近付けば気付いてしまう、知らないままなら怖くない、誰もいなければ、何もなくならない。

 誰かがいればいい、その誰かが、誰であるかはいとわない。自分が、その誰かを認めていないのに、誰かに認めて欲しい。

 誰かの為にと、でも、自分の為に、の誰かは要らない。何一つ失うことなく、すべてのものを与えられるのなら。

 ーー物語の最後、命まで使い果たしたおうさまは、すべての人々を幸福にして、独りで逝ってしまう。

 そのように生き抜くことが出来たおうさまは、幸福だったのかもしれない。でも、おうさまは、残された誰かのことを知らないまま。おうさまを喪った人々のことを考えないまま。おうさまが生きていたときに、おうさまのことを想っていた人々のことを顧みないまま。

 ひとりぼっちの王さま。

 女の子は、おうさまに、王さまに、なりたかった王様は、膝を突いて、目を閉じたまま身動ぎ一つせず、掠れた声を漏らす。

「…………」

 おんなのこはなみだをながしませんでした。

 ゆっくりと、殻を破った雛鳥が初めて世界を目にするような、色付いた女の子の瞳。

 僕は馬鹿なことを考えている。そう思っていても止めることなんて出来ない。

 独りになれなかった王様には、助けてくれる、笑顔にしてくれる、幸せを分けてくれる、側に居てくれる、人が、竜が。

 凄く強くて、でも弱くもあって、そこそこ賢いけれど、狡賢いところもあって、優しいけど、苛めっ子なところもあって、正しいというより頑固で頑迷で、でも一途で純粋なところもあって。

 そんな王様の許に、皆が集まった。

 始めは老師一人。エンさんクーさん。僕にみー。シアにシーソに子供たち。黄金の秤にエルネアの剣。城街地に遊牧民、ダニステイルに少数民。他にも、様々なものを抱えて遣って来た人々。

 竜の狩場に、竜の国につどった、竜の民。

 魔法には心象が重要、と幾度も聞いてきたが、本当の意味を理解していなかった。

 コウさんの疑念を払拭できただろうか、いや、僕らで吹き払えないなら世界のほうが間違っているのだ。と、そのくらい楽観的であったほうが、きっと良い結果が得られるに違いない。

 外野は楽なものだ。見ているだけでいい。見ているだけしか出来ないから、苦しくもあるけど、そんなもの知ったことか。

 僕らの存在が彼女の一助となる。彼女の魔法の支えとなる。

 やっぱり、僕は馬鹿なことを考えている。

 魔法が使えなくても、魔法が使えるじゃないか。

「さぁて、そんじゃあ、始めっとすっかぁ」

 大広場から、「窓」から、様々に思いを乗せた竜の民の、幾万の視線を軽々と受けながら、妹たちと弟の兄が、寝かされている四人の右側に移動する。

 そして、大音声だいおんじょうで刻み込む。

「竜騎士よ、今より正式な騎士として任命する! 竜官、職員、近衛隊、衛兵、警備兵、御者に操者、商人、職人、坑夫に農民、猟師に遊牧民、技師に酒造に狩猟、鍛冶に畜産、魔法人形ミニレム、飯屋に修理、療養中に休み中に引退、あ~、え~、がぁ~、もろもろ一切合財全部ひっくるめて、竜の国んいる奴らぁ、今日からお前らぁ、完全無欠ん竜の民だ!!」

 思い付くままに言ったのか、相変わらずの説明下手である。でも、変に着飾った言葉より、彼の性格を表すような一本木の、真心なのか馬鹿なのかわからないような言葉のほうがエンさんには似合う。

 対面、左側に歩いていったのは、兄の妹で、妹と弟の姉でもある女性だった。

 そして、凛とした声を刻み付ける。

「これより竜の国の翠緑王が、その意を世界に示される! つるぎ持つ者は、掲げよ!」

 クーさんとエンさんが同時に抜剣し、天に向けて、高々と剣を掲げる。

 遅れて僕やカレンが、そして竜騎士や近衛隊が倣う。

 大広場に、「窓」の向こうに、一斉に掲げられる数百の銀閃が天を貫く。

「志ある者は、意思を掲げよ! 力ある者は、腕を振り上げよ! 未来を見据える者は、眼差しを! 生の尊さを識る者は、魂を! 何もなくば、自らに誓え! 竜の民なくば、竜の国はなく、我らなくば、竜の民はない! ここは竜の国、我らの国ぞ!」

 老師が胸に手を当てると、竜官や職員たちが倣う。各所で腕が振り上げられ、意思が眼差しが魂が、竜の咆哮の如き威勢となって、世界に放たれる。

 ややあって老師が僕の背中を、コウさんの背後に向かって軽く押してくる。自分の意志で歩いてゆけ、ということだろう。

 さして距離があるわけではない。コウさんの外套に覆われた小さな背中が、少しだけ大きくなる。

 杖を置いて、石畳に手を突いて、祈るような姿勢のままの少女が、すぐ近くに。

 正面に百竜、右にエンさん、左にクーさん、竜の民に囲われて。どうしたことか、高揚しているのに、酷く静かな僕の心が、待ち望んだ言葉を浮かび上がらせる。

 そして、僕が、僕らが刻み始める。

「この地に、この場所に、炎竜の御座す狩場に! 人が集い、絆を結わえ、願いを同じくし、竜の民としての覚悟が伴われ、必要なものがすべて揃った!」

 真後ろに立っているので、表情を窺い知ることは出来ない。いやさ、ここで想いに囚われている場合ではない。締め括りの言葉を紡がなくてはならないのだ。

 ここに至る物語は、コウさんを生かした老師グリン・グロウから始まった。

 なら、責任を取ってもらわないといけない。竜の国が果てるまで、消えることのない痕を刻んでしまおう。

「よって今ここに、竜の国、グリングロウ国の建国を宣言する!!」

 有らん限りの想いと願い、有りっ丈の意思と力を籠めて、空に放った。

 エンさんとクーさんが、竜の国の正式名称に失笑噴飯しっしょうふんぱん。後ろで、ぎょっとしたらしい老師の気配が、建国に立ち会った竜の民の、解放された人々の気配が、

「ーーっ!」

 魔力に、魔法に、空に、大地に、世界に、塗り替えられる。

 瞬きするほどの間に、無尽と等しき金色の余波に巻かれていた。

 これは、完全に規模が異なる。

 先程の治癒魔法は竜の国に施されたものだったが、コウさんから、いや、コウさんそのものが、人々の何もかもをも巻き込んで、竜の国から大陸へ、世界へと、すべてを覆い尽くす。

 空に向かうほど深くなる真金しんきんの海に、中空に舞い散る風を孕んだ金の波頭に、地をくしけずる金の流砂に。

 人々は、自らの内にある魔力の輝きを、世界との繋がりを実感する。

 コウさんの体から止め処なく溢れる、葉っぱのような、羽のような形状の淡い金の粒子が、空へと昇り、地をはしり、風に馴染んでゆく。

 天上にさざめく脈動は、循環系の役割を担っているのだろうか。世界にとっての風がそうであるように、魔力という魔力の源泉にコウさんの力が及んでいるのだろうか。

 ほんのり暖かい、コウさんの魔力……、それが今や、触れた先から焦がれて、熱に浮かされているようだ。

 魔力とは何なのか、ーー魔力を持たない僕がそれを考えるのは烏滸おこがましいことだろうか。

 言葉を得た人類が、言葉を得る前の人類を本質的に理解できないように、魔力に染まらない僕にしか見えないものがある。と、思いに揺られて、心付く。

 僕は、コウさんの魔法が見えている。見ると、老師が僕の肩に手を置いていた。

 そうだ、僕たちは、見届けなくてはならない。僕らの王様が、この世界を使って、世界とは比べ物にならないくらい、ちっぽけな人間の運命に介在しようとしている瞬間を。

 人の運命の綾は、世界に匹敵する。そう考えれば、人間も捨てたものではない。

「くっ、くくっ、ははっ、さすがは我が友! なれど斯様な荒っぽさか」

 コウさんを核として、拍動する世界を仰ぎ見る百竜が、最後には苦笑を交えて、

「くははっ、我だけでは足りぬ。これは無理、どうにもならんて」

 みーよろしく、嫌いな食べ物のように、ぽいっと投げ捨ててしまった。

 因みに、投げたものはコウさんの魔法で僕のお皿へ。みーは、彼女に優しく叱られて、次からは我慢して食べるようになった。

 コウさんがいないときは、相変わらず僕の皿に移してくるのだが。

「ーー、……っ? ……うぇ?」

 へ……? ……はぁ?? いやいやいやいやっ、今更何を言ってるんでございましょうや! 大上段だいじょうだんに請け負っておきながら、諦めなさるとはこれ如何に?! やいやいやいやいやい、もちつけ、僕。うぐっ、いや、落ち着け、僕。失敗すると、世界が危ういかもしれない事態なのだが、だからこそ冷静に、穏便に、竜の心で……、……すみません、無理です。

 くぅ、ここはコウさんみたいに、優しく叱ったほうがいいのだろうか。

ぬしよ、斯様な顔で見てくれるな。そこらの考え無しと一緒にするでない」

 僕の間抜け面が気に入ったのか、百竜はくつくつと笑う。

 無邪気なようで、﨟長けた様に、こんな状況だというのに、炎竜の仕草に魅入ってしまった。

「主の信頼を損なうは、本意ではない。然らば、我が勤めを果たすとするか」

 みーの、いやさ、百竜の瞳がぎょろりと、大きく輝きを増した。

 それは、竜眼、としか言い様のないものだった。恐怖よりも、その鮮烈というか峻烈というか、深淵の炎を宿した竜の瞳に惹かれて、身が竦む。

 竜眼には、人を惑わす力があると伝説にあるが、本当なのかもしれない。

 爪が、牙が伸び、角が大きさを増す。外套を押し退けて、鱗に覆われた赤い尻尾が露出する。

 竜の本性を人の身に宿した、「半竜化」とでも表現すべき状態になる。

 炎の文様が浮かび上がるように色付き、竜を体現したかのような、ああ、いや、竜なのだから、その言い様はおかしいか、ではなく、何故だかわからないが、その懐かしいような、僕の内の何かを揺さ振るような感じ、というか感触に、魂を刈り取られそうになる。

 そして、百竜は僕を見た。僕の向こうにある、世界を見ていた、のかもしれない。

「聞こえておるか、役割に従属せし竜共よ!
 眠らば、起きよ。腑抜けは、灼かれよ!
 汝らの存在、有様を想起せよ!
 原初にして、世界を具現せし、魔力の嚆矢こうしよ!
 我、百竜の名に於いて命ずる!
 疾く在りて、調整者たる胆気たんきを示せ!」

 百竜の咆哮が轟く。

 だが、それを言葉として認識できた者がどれだけいただろうか。

 世界が震えた。

 百竜の飛檄ひげきに呼応して、世界に在るすべての竜が、千の咆哮で万物を揺るがせた。

 重なり合うことで、混じり合うことで、より深く、澄明な響きと、波紋と、百竜を要とした竜の息吹が循環する。

 人の身で感受できるものの少なさに、辟易へきえきする。

 竜に満ちた空は遥かに遠くて、人は皆、零れ落ちている。今なら、手を伸ばしてもいいのだろうかーー。

「北だけじゃない! 南も西も、何て数だ!!」
「すごい……、竜の咆哮が重なって歌っているみたい……」
「竜の都? ううん、竜の国どころじゃない、世界を包んでる?」
「ああ、すべての竜が、フィア様の想いに報いてくださっている!」
「竜の国の幕開けだ!」

 竜の民が、存分に「竜の祝福」を浴びている。

 ああ、然ても、穴だらけじゃないですか、コウさん。先程の老師の言葉が、身に沁みる。

 竜の魔力に満ちている。すべからく魔力の潮が積み重なって溢れて、波及して埋め尽くすべき場所で。

 世界が果てを忘れたとき、最も遠くのものが最も近くのものを思い出したとき。

 魔法使いは世界となる。

「ーーこれは!?」

 珍しく、老師が狼狽して声を上げる。

 然し、そうなるのも無理はない。僕に触れているので、意識を共有してしまったのだろう。

 老師の能力を拾い上げて、強化したので、彼に負担を強いることはないはずだが。まぁ、世界に拘泥するには、人の身には辛かろう。

 ……僕は、僕のはずだが、何かが違う。いや、違うのではない、これこそが、僕なのか?

 竜書庫から、氷竜スナが飛び立って、磨き抜いた氷柱のような鋭く尖った咆哮を発する。

 竜の国周辺から大陸へ、それどころか世界に遍く竜のすべてが、世界そのものとなったような僕の意識が、感覚が、千の竜を睥睨へいげいしている。

 わかる。千の竜に染められた僕が、何もわかる必要がないということに。

 世界に囚われようとしていた意識が、暖かな、懐かしい気配に惹かれる。

 なんて優しい顔をするんだろう。

 千周期の離別の末に出逢えたような、嬉しそうなのに哀しそうなーー。

 世界を睥睨しながら、僕を見遣る百竜のーー。何もわからないのに、……何もわからないから、かな。

 一人の魔法使いと千の竜の饗宴きょうえんは、世界に行き渡った翠緑王の魔力が突如弾けて、世界に還るまで続いて。

 人々は目を、心を覚ます。

 世の中の現実や常識といったものの正体に気付いてしまった子供のように、色褪せた世界を残したまま、僕らの手許に返ってきたのだった。
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