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31話
来ちゃったわ
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湯気の立つ熱燗をひとくち、ゆっくり喉に流し込む。
──しみる。
肩の力が抜ける感覚に身を委ねながら、俺は箸で干し魚をつまんだ。
絶妙な塩加減と炙りの香ばしさが、まるで疲労そのものを剥がしていくようだった。
──父上との修行。あの一撃。
すべてを出し尽くした結果として、今、こうして呑んでいられる。
悪くない。いや、むしろ、最高だ。
「……ちょー感謝するぜ、母上。術のおかげで、これだけ飲める」
そう呟いて杯を置いたときだった。
──店の戸が、すうっと開いた。
暖簾の隙間から差し込んだ光の中に、細く長い影が浮かぶ。
「これはこれは……ヨモギ様、いらっしゃいませ」
店主がぴしゃりと背筋を正し、深々と頭を下げた。
店内にいた数名の妖たちも、自然と静かになっていく。
誰もが、知っている。
そこに現れたのが、“あの”ヨモギだと。
木の床を、ゆるやかな足取りが近づいてくる。
──来ると思ってたぜ。
この匂い、この気配。見間違えるわけがない。
振り返ると、狐耳の美女がこちらを見ていた。
金色の髪は結われ、十三本の尾がしっとりと揺れている。
「来ちゃったわ」
それだけ言って、隣に腰を下ろした。
尾がふわりと流れ、俺の肩先をくすぐっていく。
昔から変わらない、この距離感。
「飲むのか?」
「ええ、飲むわよ。……せっかくだもの」
師匠は笑って、店主に手を挙げた。
「熱燗、ふたつ。あと、キノコと小鉢、それと……甘いの、なにかある?」
「ございますとも。今朝とれた“月果の蜜煮”、ご用意できます」
「それでお願い。ここのは、ちゃんと甘くていいの」
俺は小さく笑った。
「師匠、甘党だもんな。……修行中、よく隠れて団子食ってたの、見てたぜ」
「あら、見てたの? なら隠れる意味、なかったじゃない」
そう言いながら、師匠は注がれた酒に口をつけた。
ごくん、と喉が鳴る。やがて、目を細めてふっと息を吐いた。
「……やっぱり、異界の酒は落ち着くわね」
静かに、盃を傾ける。
肩の力の抜けたその姿を見て、俺も、もう一度盃を手に取った。
──今だけは、何も考えなくていい。
強さとか、幻とか、戦いとか。
そんなものは、酒のあとにでも考えればいい。
だから俺は、もうひとくち、師匠と並んで呑んだ。
──ただ、それだけでよかった。
湯呑の縁に、月果の蜜煮が添えられる。
師匠はそれを摘まみながら、ちらと横目で俺を見た。
「……ところで、あの修行。ゴウマ相手に、ずいぶん暴れたらしいじゃない」
口調は軽いが、目だけは冗談じゃなかった。
「……見てたのか」
「見てたというより──山が揺れたもの。嫌でも分かるわよ」
そう言って、酒をくいと呷る。
「まったく……。あの男もあの男で、“親心”の皮を被った修羅みたいなこと、よくやるわね。……あれで加減してるんだから、笑っちゃう」
「でもまあ、俺としては……嬉しかったぜ。初めて“拳”で語れたからな」
師匠は小さく笑った。
「──あなた、子供の頃から父親の背ばっかり追ってたものね。目付きが、そっくりになってきたわよ」
俺は照れ隠しのように、熱燗を飲み干した。
あの戦い。全てを出し切って、殴り合って、吹っ飛ばされて。
でも──それでも、父上に届いた。
「……師匠の教えがなかったら、あの修行、最初の一撃で潰れてたと思う」
ヨモギはふっと笑った。
「礼なんていらないわよ。私はただ、“あなたが壊れないように”育てただけ」
それが、あの人の幻。
嘘も演出もない、まっすぐな言葉だった。
──だからこそ、響いた。
ふたりして、もう一杯、酒を注いだ。
この夜はまだ、長くなりそうだ。
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