異界育ちの幻使い

yasunari311

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35話

雨にて、起きて

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 ──ぽつり、ぽつりと。

 頬に冷たい感触が落ちてきた。

 目を開けると、空は灰色に滲んでいた。重たい雲が空一面に広がり、雨粒が静かに降っている。

 ──ああ、雨か。

 気づくのに、少し時間がかかった。

 いつから降っていたのか分からない。そもそも、どれだけ寝ていたのかも曖昧だった。

 全身が、冷えている。
 風邪をひくわよ──と、どこかで母上の声が聞こえた気がした。

 

 「……やっべ。どんだけ寝てたんだ、俺……」

 声が掠れていた。喉が乾いて、少し咳き込む。

 ゆっくりと身体を起こす。背中に残る、コンクリの固さと湿った感触が、現実に引き戻してくる。

 幻装の反動で動けなくなって、そのまま幻で姿を隠し……。

 そうだ、そうして身を守って、少しだけ休むつもりだった。

 ──けど、少しじゃ済まなかったらしい。

 

 「まあ……無事に起きたんだから、良しとするか」

 軽く伸びをして、首を鳴らす。

 身体は、まだ重い。節々が痛む。
 けれど、動ける程度には回復していた。

 何より、敵の気配はもうない。

 

 周囲を一度、見回す。

 瓦礫も焦げ跡も、そのままだ。
 模倣体が倒れた場所には、今も巨大な裂け目が残っていた。

 だが、不思議と──静かだった。

 雨音だけが、世界を包んでいる。

 

 「……よくもまあ、こんなとこで寝たな、俺」

 そう呟いて、肩を竦める。

 だが、どこか、心地よくもあった。

 戦いの痕跡と、自分の身体に残る痛みが、確かに“生きている”という実感をくれる。

 

 ──さて。

 そろそろ、動くか。

 俺は、ぬかるむ地面に足を踏み出した。

 次は──師匠と縁のある、あの場所だ。

 
 何かがあるとすれば、そこしかない。

 

 雨は止まない。

 だが、そんなことはどうでもよかった。

 

 「……行くぜ。まだ、止まる気はねぇからな」

 

 俺は、雨の中を歩き出した。

 



 濡れた空気だけが、まだ街に残っている。冷えた風が吹き、濁った雲が空を覆い続けていた。

 俺は、街を離れた。

 瓦礫と焦げ跡が残る通りを抜け、幻で姿をぼやかしながら、静かに道を進む。

 異形の気配は、もうない。

 だが、それは安堵ではなく、静けさの中にぽっかりと穴が空いたような──そんな感覚だった。

 

 「……こっから、結構歩くな」

 

 師匠と縁のある場所。
 それは、かつて人間たちが“神”を祀ったという、高台の祠。

 人の記憶からはとうに忘れ去られたその名残が、俺の中でははっきりと残っていた。

 ──あそこは、師匠が昔、わずかに人間界に力を残した場所だ。

 あいつを“神”と呼んだやつがいたらしい。
 その痕跡は今も、土地に染みついている。

 



 ──道は、遠かった。

 雨は、止んでいなかった。
 灰色の空は変わらず垂れこめていて、雲の切れ間すら見えない。

 俺はひとり、街を離れ、東へと歩き続けていた。

 傘も差さず、雨に濡れるまま。
 だが、寒さは気にならなかった。
 むしろ、幻装の反動で熱を帯びていた体には、丁度よかった。

 

「……まだだな。あの山を越えた先か」

 目的地は、“師匠”──あの狐の縁ある場所。
 今となっては訪れる者もいない、小さな祠があると聞いていた。

 名前は地図に記されていた。だが、注釈も写真もなく、ただの地名として残されているだけだった。

 ──「昔、人間たちが、ヨモギを“神”として祀っていた島があるのよ」

 母上の言葉が、ふと蘇る。

 

 ──島。

 本土から少し離れた、かつて信仰の地として栄えた場所。
 観光地ではなく、歴史にもあまり語られぬ地。
 だが、祀られていた者の気配だけは、今も微かに残っている──そんな場所だ。

 幻を通して感じる、懐かしさと静けさ。
 師匠が人間界に関わっていた、遥か昔の記憶の残り香が、そこにあるような気がしていた。

 

「……遠いな、ほんとに」

 道は、まだ続く。
 舗装された道を抜け、古びた鉄橋を渡り、次の街の静まり返った駅前を横目に通り過ぎる。

 人の姿は見えなかったが、暮らしの痕跡は残っている。
 商店の看板、濡れた自転車、閉ざされた窓ガラス。

 一つ、また一つ。
 濡れた足音を刻みながら、俺は進んだ。

 

 ──そして。

 風の匂いが、変わる。

 鉄でも、湿気でもない。
 どこか──生臭い、気配。

 

「……ああ、出てきたか」

 街を離れすぎたせいか。
 ここまで来れば、異形のひとつやふたつ、いてもおかしくない。

 俺は足を止め、わずかに身構える。

 幻はまだ纏わない。様子を見てからで、いい。

 

「……まあ、通り道なら仕方ねぇな。倒して、先に行くだけだ」

 

 再び、足を踏み出す。
 雨の音に紛れて、ぬかるみを踏む音が響いた。

 ──その先に、静かに蠢く影。

 

 だが、俺の歩みは止まらない。

 目的地は、師匠がかつて神として祀られた島。
 遥か昔、人々が手を合わせ、祈りを捧げたという、静かな場所。

 

 そこに、今、何が残っているのか。
 何を俺が、見るべきなのか。

 

 ──それを、確かめに行く。

 

 雨はまだ、止まなかった。
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