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35話
雨にて、起きて
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──ぽつり、ぽつりと。
頬に冷たい感触が落ちてきた。
目を開けると、空は灰色に滲んでいた。重たい雲が空一面に広がり、雨粒が静かに降っている。
──ああ、雨か。
気づくのに、少し時間がかかった。
いつから降っていたのか分からない。そもそも、どれだけ寝ていたのかも曖昧だった。
全身が、冷えている。
風邪をひくわよ──と、どこかで母上の声が聞こえた気がした。
「……やっべ。どんだけ寝てたんだ、俺……」
声が掠れていた。喉が乾いて、少し咳き込む。
ゆっくりと身体を起こす。背中に残る、コンクリの固さと湿った感触が、現実に引き戻してくる。
幻装の反動で動けなくなって、そのまま幻で姿を隠し……。
そうだ、そうして身を守って、少しだけ休むつもりだった。
──けど、少しじゃ済まなかったらしい。
「まあ……無事に起きたんだから、良しとするか」
軽く伸びをして、首を鳴らす。
身体は、まだ重い。節々が痛む。
けれど、動ける程度には回復していた。
何より、敵の気配はもうない。
周囲を一度、見回す。
瓦礫も焦げ跡も、そのままだ。
模倣体が倒れた場所には、今も巨大な裂け目が残っていた。
だが、不思議と──静かだった。
雨音だけが、世界を包んでいる。
「……よくもまあ、こんなとこで寝たな、俺」
そう呟いて、肩を竦める。
だが、どこか、心地よくもあった。
戦いの痕跡と、自分の身体に残る痛みが、確かに“生きている”という実感をくれる。
──さて。
そろそろ、動くか。
俺は、ぬかるむ地面に足を踏み出した。
次は──師匠と縁のある、あの場所だ。
何かがあるとすれば、そこしかない。
雨は止まない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「……行くぜ。まだ、止まる気はねぇからな」
俺は、雨の中を歩き出した。
⸻
濡れた空気だけが、まだ街に残っている。冷えた風が吹き、濁った雲が空を覆い続けていた。
俺は、街を離れた。
瓦礫と焦げ跡が残る通りを抜け、幻で姿をぼやかしながら、静かに道を進む。
異形の気配は、もうない。
だが、それは安堵ではなく、静けさの中にぽっかりと穴が空いたような──そんな感覚だった。
「……こっから、結構歩くな」
師匠と縁のある場所。
それは、かつて人間たちが“神”を祀ったという、高台の祠。
人の記憶からはとうに忘れ去られたその名残が、俺の中でははっきりと残っていた。
──あそこは、師匠が昔、わずかに人間界に力を残した場所だ。
あいつを“神”と呼んだやつがいたらしい。
その痕跡は今も、土地に染みついている。
⸻
──道は、遠かった。
雨は、止んでいなかった。
灰色の空は変わらず垂れこめていて、雲の切れ間すら見えない。
俺はひとり、街を離れ、東へと歩き続けていた。
傘も差さず、雨に濡れるまま。
だが、寒さは気にならなかった。
むしろ、幻装の反動で熱を帯びていた体には、丁度よかった。
「……まだだな。あの山を越えた先か」
目的地は、“師匠”──あの狐の縁ある場所。
今となっては訪れる者もいない、小さな祠があると聞いていた。
名前は地図に記されていた。だが、注釈も写真もなく、ただの地名として残されているだけだった。
──「昔、人間たちが、ヨモギを“神”として祀っていた島があるのよ」
母上の言葉が、ふと蘇る。
──島。
本土から少し離れた、かつて信仰の地として栄えた場所。
観光地ではなく、歴史にもあまり語られぬ地。
だが、祀られていた者の気配だけは、今も微かに残っている──そんな場所だ。
幻を通して感じる、懐かしさと静けさ。
師匠が人間界に関わっていた、遥か昔の記憶の残り香が、そこにあるような気がしていた。
「……遠いな、ほんとに」
道は、まだ続く。
舗装された道を抜け、古びた鉄橋を渡り、次の街の静まり返った駅前を横目に通り過ぎる。
人の姿は見えなかったが、暮らしの痕跡は残っている。
商店の看板、濡れた自転車、閉ざされた窓ガラス。
一つ、また一つ。
濡れた足音を刻みながら、俺は進んだ。
──そして。
風の匂いが、変わる。
鉄でも、湿気でもない。
どこか──生臭い、気配。
「……ああ、出てきたか」
街を離れすぎたせいか。
ここまで来れば、異形のひとつやふたつ、いてもおかしくない。
俺は足を止め、わずかに身構える。
幻はまだ纏わない。様子を見てからで、いい。
「……まあ、通り道なら仕方ねぇな。倒して、先に行くだけだ」
再び、足を踏み出す。
雨の音に紛れて、ぬかるみを踏む音が響いた。
──その先に、静かに蠢く影。
だが、俺の歩みは止まらない。
目的地は、師匠がかつて神として祀られた島。
遥か昔、人々が手を合わせ、祈りを捧げたという、静かな場所。
そこに、今、何が残っているのか。
何を俺が、見るべきなのか。
──それを、確かめに行く。
雨はまだ、止まなかった。
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