【完結】偽りのα、真実の恋 ー僕が僕として生きるためにー

天音蝶子(あまねちょうこ)

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6.秋の文化祭と初めての鼓動

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 秋の空は高く、どこまでも澄んでいた。
 校庭の銀杏が金の炎のように揺れ、微かな風がその葉をはらりとはらりと散らしていく。
 遠くから運動場のざわめきが届き、甘い菓子の香りと木材の匂いが入り混じる。
 学園は、年に一度の文化祭を迎えていた。

 リオンは教室の中央で、装飾の指揮をとっていた。
 兄アレンの代わりに引き受けた責任——
 最初は「無理しないで」「病み上がりなんだから」と、皆が気を遣っていた。
 けれど、彼の声が響くたびに空気が変わっていった。
 その真っ直ぐな瞳と、丁寧な言葉のひとつひとつが、確かな信頼を呼び込んでいく。

「そこ、もう少し右に。——そう、いい感じ!」

 指示を出す声が弾む。
 木漏れ日が頬を照らし、リオンの額に小さな汗の粒が光った。
 それを拭う仕草には、わずかな誇りと充足の色が宿っている。

 その姿を、少し離れた廊下からノアが見つめていた。
 柔らかく笑む唇の端。
 光を反射する窓越しに、彼のアメジスト色の瞳が細められる。

(……ちゃんと、前を向いているな)

 最初に感じた“守らなければ”という衝動は、今では静かな“見守りたい”という願いに変わっていた。
 彼の中で、リオンという存在が“脆さ”ではなく、“確かさ”に変わりつつあるのを、ノア自身も感じていた。

 ——そして、夜。

 文化祭前夜の校舎は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
 廊下にはわずかにインクと紙の匂いが残り、どこか懐かしい静けさが満ちている。
 灯りの残るのは体育館と階段の踊り場だけ。
 リオンは段ボール箱を抱え、疲れた足取りで階段を下りていた。

「……もう少しだけ、片づけたら……」

 自分に言い聞かせるように呟いたそのとき——
 足元の紙片が舞い、靴裏が滑った。

「——っ!」

 視界が傾く。箱が宙に浮く。
 咄嗟に伸びた腕が、彼を受け止めた。

「危ない!」

 低く響く声。
 強く引き寄せられた体を支える腕の力。
 気づけば、リオンはノアの胸の中にいた。

 彼の制服越しに伝わる体温。
 静かで、力強い心音。
 そして、近すぎる距離から漂う、微かなαの香り。

 それは安心の香りでもあり、心を乱す香りでもあった。
 空気が一瞬、凪いだように感じる。
 遠くの時計の針の音までが、やけに鮮明に聞こえた。

(……この匂い、落ち着く。けれど、怖い)

 息をするたび、胸の奥が熱を帯びていく。
 ノアの瞳が、夕陽の残光を宿して微かに揺れた。
 金と橙が混じり合う光の中で、二人の影が階段に重なる。

「……ごめん、ありがとう」

 震えを抑えながら、リオンが顔を上げる。

「気をつけろよ。……無理してるだろ」

 ノアの声は穏やかだったが、その奥には確かな痛みがあった。
 彼の掌がリオンの肩に触れる。
 その一瞬のぬくもりが、心の奥まで沁みていく。

(だめだ、そんなふうに触れられたら……)

 ——崩れてしまいそうになる。

 けれど、不思議と拒む気持ちはなかった。
 むしろ、その優しさを、もう少しだけ感じていたかった。

「ねえ、ノア」

「ん?」

「僕……ちゃんとαに見えるかな?」

 問いながら、リオンの声が微かに揺れる。
 本当は聞きたくなんてなかった。
 答えが怖い。
  “嘘の自分”を肯定されたら、心のどこかが壊れてしまいそうで。

 ノアは少し黙った。
 目の奥に何かを宿しながら、静かに息を吸い込む。
 やがて、柔らかい笑みが口元に浮かんだ。

「……あぁ。誰よりも、綺麗なαだ。」

 その言葉は、秋の夜風よりも温かく、月光のように静かに胸に落ちた。
 リオンの心臓が跳ねる。
 それは恐れでも羞恥でもなく—— “嬉しさ”に近い痛みだった。

(どうして、そんなふうに言うの……)

 何かがほどけるように、喉の奥が熱くなった。
 けれど、言葉は出てこない。
 ただ、鼓動だけが二人の間を確かに刻んでいる。

 ノアは床に落ちた箱を拾い上げ、いつもの穏やかな声で言った。

「ほら、もう少しだけ頑張ろう。明日は本番だ。」

「……うん。」

 二人は並んで歩き出す。
 廊下の窓の外では、秋の星が静かに瞬いていた。
 夜気が肌を撫で、遠くで銀杏の葉がさらさらと音を立てる。

 ——それはまるで、誰にも知られぬ“秘密の恋”の始まりをそっと祝福しているかのようだった。
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