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34. 心の闇と重い枷
しおりを挟むたとえ牛鬼の身体から離れても、牛鬼が死ぬまでの時をしっかりと捉えていた角から知った真実は、美桜が思っていたよりも複雑で、残酷だった。
牛鬼の最期を目の当たりにした美桜は涙が止まらなくなり、上手く息が出来ない程激しく嗚咽を漏らす。
そんな美桜の震える背を、同じく面の下で眦から涙を流す遠夜が懸命に摩ってやる。
そうでもしないと遠夜は心の奥底から溢れ出る感情が行き場を失って、気が狂ってしまいそうだった。
愛しい美桜に触れている間は、不思議と遠夜の心は落ち着くのだ。
「確かに父が人を喰っていないという事は分かった。産土神が言っていた事は本当だった。これまで信じなくてすまない」
物心ついた頃から信じていた事柄が、全くの間違いだったと証明された。
遠夜の父親は人喰いなどでは無く、ましてや罪人でも無かったのだ。
野心家の人間によって騙され、出世に利用され、それでも結局は騙した相手と同じ人間の女を愛した無垢なあやかしだった。
「牛鬼はワシの知る誰よりも純粋で、素直で、自分に正直な奴じゃったわい」
そう言って産土神は遠夜の面へと手を伸ばす。肩を震わせる遠夜は、それを拒む事はしなかった。
「もういいじゃろう。この面を外しても。お前は罪人の倅などでは無い。ワシらの友である牛鬼の倅で、この店の常連客皆の可愛い可愛い倅じゃ」
涙でぐちゃぐちゃになった遠夜の顔が露わになる。産土神は自らの袖口で涙を拭ってやった。
その手付きは優しく慈しむようなもので、美桜は二人の強い絆というものを目の当たりにし、木漏れ日のようなじんわりとした温かさで身体全体が満たされていく。
「ありがとう……産土神。それに、美桜さんも」
面を外し、素顔になった遠夜は端正な顔立ちに晴々しい笑顔を浮かべていた。
美桜は遠夜の笑顔があんまり美しいので、涙で汚れた自分の顔が急に恥ずかしくなり、袖口で涙をささっと拭き取ってから笑い返す。
「美桜はあの偏屈な千手観音菩薩にも好かれとったぞ。本当に、弥兵衛に似て人たらしな奴じゃ」
産土神が髭を撫で付けながらそう言うと、遠夜は声を上げて笑いながら言い返す。
もうその顔にこれまでのような翳りは見られない。
「千手観音様は人では無いだろう。しかし確かに弥兵衛さんと同じで、美桜さんはすぐに周囲から好かれてしまう。私は美桜さんを誰かに取られやしないかと気が気では無いよ」
「そんな事は……」
頬を桜の花びらのような色合いに染め上げた美桜を愛しげに見つめる遠夜に、こりゃあ居心地を悪くしたと産土神は笑いながら立ち上がる。
「う、産土神様……っ」
「よいよい、また来るからのぅ。あとは若い二人でじっくり話をするんじゃぞ」
そう言って早々に産土神が去ってしまった後、店に残された美桜は素顔の遠夜と二人きりになった事で、五月蝿いくらいに胸が高鳴っていた。
「あの気難しい山の主様だって、美桜さんにだけはやけに優しいですからね」
いつの間にやら自身の身体を包み込んでいた遠夜の腕の力強さに、美桜は身体をギュッと縮こませる。
何だか恥ずかしくて恥ずかしくて、息をするのも忘れてしまいそうだった。
「山の主様は……私を揶揄って楽しんでおいでなのです」
「いいえ、あの人は美桜さんの事を好いていますよ」
「まさか、違うと思いますけれど。でも……もし万が一そうだとして……遠夜さんは……」
普段の美桜ならば、こんな風に積極的な言葉を口にする事は無かっただろう。
けれども今日は色々な事があり過ぎて、美桜の心は平静を失っていたのかも知れない。
「遠夜さんは? 何ですか?」
意を決して尋ねたというのに、遠夜は美桜が尋ねたい事を全て分かっていてわざと答えてくれない。
遠夜の腕にすっぽりと収まった美桜の激しい鼓動は、きっと遠夜にも届いているはずなのに。
「遠夜さんは……私を……離さないで居てくれますよね?」
いじらしい程に美桜の声は小さく、そして震えている。愛らしい姿に堪らなくなって、遠夜は美桜の額に口付けを落とした。
「勿論です。父が母を失って、自ら命を断つ程までに深く愛したように、私は強く、慈悲深く、そして美しい美桜さんを愛しています。貴女を誰かに渡す事など、出来るわけがありません」
面を通さずに聞こえる透き通った遠夜の声は、しっかりと美桜の耳に、心へ届く。
「ありがとうございます、美桜さん。私の心の闇を、重い枷を取り払ってくださって。貴女が居てくれたからこそ、事実を素直に受け入れられた」
「良かったです……」
美桜は遠夜の言葉を嬉しいと思いながらも、牛鬼の記憶を覗いて知った人間達の残酷な一面を、心底恐ろしいと感じていた。
自分が彼らと同じ人間である事を嫌悪してしまう程に。
「美桜さん? どうかしましたか?」
「人間は……残酷ですね。ここに来るあやかしや物怪達よりも……ずっと残酷で、無慈悲な一面のある生き物なのだと知りました」
まつ毛を震わせ、ふっと目を伏せる美桜を、改めて抱きすくめた遠夜は一度口を開き、噤んで、やっとまた開く。
「残酷な一面というのは、誰しもが大なり小なり持っているのでしょう。きっと私や美桜さんにも、そういう部分はあるはずです」
「遠夜さん……」
「神や仏にさえ、捉え方によってはそういった一面があるのですよ。ですから私達のような存在が、神や仏さえ差し置いて完璧であるはずが無いのです」
美桜は自分よりも長くそういった存在の近くに居た遠夜の言葉に、何だかとても納得した。
嘆いていても、きっとどうしようもない事なのだ。
「そうですよね。きっと、そういうものなのでしょう」
そう強く自分に言い聞かせるかのような美桜の声に、遠夜は思わず短い息を吐き出すような笑い声を上げてしまう。
「美桜は本当に優しいね。私はその優しさに幾度も救われたよ。それでいいじゃないか」
この時初めて「美桜さん」では無く「美桜」と遠夜は口にした。
それに気が付いた美桜がハッとして目を丸くするのを見て、遠夜は尚更笑みを深めるのだった。
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