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8. 礼司の憂鬱(礼司side)
しおりを挟むベッドの中、静香はもう眠っている。
深く安堵したように呼吸を整えるその寝顔を、俺は寝室の扉の隙間から、しばらくの間見つめていた。
昔も今も、あいつは変わらない。頑張り過ぎて、無理をして、傷付いて、それでも笑おうとする。
(……敵わない。今も、昔も)
俺達の出会いは静香が大学生時代に遡る。
芹沢グループ創設記念の特別講義に卒業生として招かれていた俺を、恩師である教授が呼び止めた。
教授は非常に生徒思いの尊敬出来る人柄で、その恩師から「成績は良いが、やや孤立気味の学生がいる。君に似ているところがあるから、是非交流を持ってやってくれ」と頼まれた。
それはごく短い期間だった。
数回にわたり静香と個別指導という名の交流を図った俺は、彼女の美しい所作、整った字、そして一生懸命なのにどこか儚げな横顔に、気付けば強く惹かれていた。
――そして後日、懐かしさで偶然足を運んだ大学の図書室で再会する。
静まり返った書架の間で、俺は静香に「食事に誘ってもいいか」と尋ねた。
彼女は頬を赤らめ、俯きがちにコクリと頷いただけだったが、俺はその仕草すら愛おしくて堪らなかったのを覚えている。
そして――メールアドレスなんて、変えようと思えばいつでも変えられた。
仕事用はもう何度も変えているし、社内の連絡も専用のビジネスアプリに移行して久しい。
なのに――プライベートのアドレスだけは、六年前から、ずっと変えられずにいた。
変えなかったのではない――変えられなかったんだ。
そのアドレスの最後には、何の意味もないように見えて、実は静香と揃えた数字が残っていた。
二人だけの暗号のような、それを知るのはもう、世界に俺一人になってしまった数字。
(もし、いつかの気まぐれで、静香がそのアドレスにメールを送ってきたら――)
そんな日が来るわけないと思いながらも、どこかで、待っていた。
万が一誰かに知らられば、未練がましい男だと思われるかも知れないが、それでも良かったんだ。
そして――静香はあの頃と変わらない俺のメールアドレスを知る羽目になった。
(戸惑いが伝わりやすいところ、変わらないな)
もしかしたらこの未練がましい想いを感じ取って、彼女が俺をまた意識してくれるんじゃないかと期待する。
そもそもこうやって周囲から囲い込んで逃げ場を無くそうとするなんて、ずるい男だと思う。
でも――そうしてまで……彼女の純粋さにつけ込んでも、再び近くにいたかった。
けれど静香は、やはり熱を出した。あれほど心配していたのに、俺は何一つ防げなかった。
子供の頃から無理をすればすぐに発熱する体質だということも、彼女が過去にどんなふうに弱っていったのかも、全部……知っていたはずなのに。
(結局、俺と暮らすことで、また熱を出させてる……)
リモートに切り替えた午後、打ち合わせの合間、ふとした時間に額の濡れタオルを替えながら、俺は何度も、自分の無力さを呪った。
あいつは黙って「ありがとう」と言っただけで、責めたりしない。
けれど、あんなに高熱に浮かされた顔を見るくらいなら――俺の勝手な感情で、この家に連れてくるべきじゃなかったのかも知れないという後悔が募る。
そして、決定的だったあの瞬間。
静香が「舌……噛んじゃって……」と、小さく呟いたあの声。
それだけで鼓動が跳ねたのは、熱で瞳を潤ませた彼女のせいだけじゃない。
咄嗟に「見せてみろ」と言ってしまった自分の軽率さに、あとで頭を抱えたくなった。
遠慮がちに、恥ずかしそうに、小さく口を開いた静香。目を伏せ、わずかに震える濡れた唇から差し出された舌先は、そのまま俺の自制を試すかのように、淡く濡れ、震えていた。
(触れたら壊れてしまいそうなものを、そんな風に無防備に差し出すな)
舌に傷はなかった――けれど、俺の中の何かは確かに傷付いた。
それは『後悔』なのか、『衝動』なのか。それとも『六年間の空白を埋めたくてたまらない劣情』なのか。
答えなんて出るはずもないのに、ずっと胸の奥がざわついていた。
あの日から、六年が経った。だけど、何一つ変えられなかった。無理して変えたつもりになっていたのかも知れない。
奇跡的に、やっと手の届く場所に戻ってきた。でも、いまだに変わらず真っ白で美しい彼女に触れる勇気だけが、まだ持てない。
――今度こそ、同じ過ちを繰り返さないために。
冷えたリビングの灯りを落としながら、俺は小さく息を吐いた。未練とも、執着とも、簡単には名付けられない想いが、胸の奥でじわりと熱を帯びていくのを感じながら。
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