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23. 忍び寄る影
しおりを挟むふわり、とベッドに残る温もりが、心地よく肌を撫でていく。
まだ夢の中にいるみたいな感覚で、私は目を閉じたまま掛布に顔を埋めた。
──昨夜、私たちは初めて全てを重ねた。
心も、身体も、何もかも。繋がったのだという幸福感が、今も胸いっぱいに広がっている。
遠くから微かに聞こえる、包丁がまな板を叩く小さなリズム。
(……え?)
まだ眠たさの残る意識の中で、耳を澄ませた。誰かが、朝食の支度をしている。
(礼司さん?)
慌てて身を起こし、自分が裸だと気付く。昨日脱いだドレスは流石にもう着られない。
礼司さんのクローゼットから大きめのシャツを借り、羽織る。歩く度に裾が太腿を滑った。
キッチンへ急ぐと、平日よりもラフなシャツを着た礼司さんが立っている。
「ごめんなさい! 二度寝してしまって……!」
慌てて謝ると、フライパンを手にしている礼司さんがこちらを向いた。そしていつもの眼鏡を掛けていないことに気付く。
「礼司さん……眼鏡……」
明るい場所で、眼鏡を掛けていない礼司さんを見るのは随分と久しぶりだ。
「……おはよう。眼鏡はもう……必要ないから。それより、身体は辛くないか?」
心臓が跳ねる。気恥ずかしいような、嬉しいような、そんな空気感。
「はい。大丈夫です」
シャツの裾を下に引っ張りながら答える。つい慌てて来たけれど、自分の部屋で着替えてから来れば良かった。
「あと少しでできるから、着替えておいで。別にその格好でもいいけど、恥ずかしいんだろ」
眼鏡なしの、柔らかな眼差し。低く穏やかな声。まるで昨夜交わした誓いの続きを確かめるような、そんな穏やかな雰囲気が二人の間に流れている。
「はい……着替えて来ます」
裾を引っ張ったまま、自分の寝室に戻る。手近にあったカットソーとスカートに着替えてから、再びキッチンへと向かった。
「礼司さん、今日はどうして……?」
思わず呟くと、お皿を両手に持った礼司さんは小さく肩をすくめながら答える。
「静香を疲れたまま台所に立たせたくなかった。無理させたのは俺だから。それだけだ」
「……ありがとうございます」
お互いに恥ずかしそうに視線を逸らしてから、ぎこちない動きでダイニングへ移動する。不器用な優しさに、胸がいっぱいになった。
(……礼司さん、こんなにも私を大切に思ってくれているんだ)
胸の奥で静かに、けれど確かな火が灯る。
テーブルに並んだのは、炊きたてのご飯と味噌汁、ふわふわの卵焼きに冷奴。
そこまで難しい献立じゃないけれど、これまで朝はコーヒーのみで済ませていた礼司さんが作ってくれたその朝食は、どこまでも温かいものだった。
「礼司さんは本当に何でも出来るんですね」
「まさか。いつか披露しようと思って、作り方を調べてた。静香がいなかった頃は、外食ばかりで済ませていたからな」
こうして素直に本当のことを話してくれる礼司さんが、私は好きだ。
私のお茶碗に、礼司さんがご飯をよそってくれる。
「ほら、ちゃんと食べろ。お前は……昨日、頑張ったんだから」
最後の一言は少しだけ声のトーンが落ちていたけれど、とても気恥ずかしくて顔が熱くなった。
(礼司さんの頬も……少し、赤い気がする)
私は胸の奥がじんわりと満たされるのを感じながら、素直に「いただきます」と告げて箸を手に取る。
丁寧に作られた朝食はとても美味しかった。人に作ってもらう食事は、どうしてこんなに美味しいのだろう。
そして食べ終えた頃。ふいに、テーブルの上に置かれたスマートフォンが振動する。
控えめなはずの振動音が、まるでこの穏やかな朝を引き裂くかのように、妙に鋭く耳を打った。
音の主は、礼司さんのスマートフォンだった。つい画面に表示された名前を見てしまい、私は思わず手を止めた。
――『芹沢典久』
名前を見ただけで、胸の奥が、きゅうっと縮こまる。昨日のパーティーで私に向けられた、冷酷な視線。
無意識に呼吸を止めてしまった私をよそに、礼司さんは一瞥してから振動を止める。
スマートフォンを持った指に、ギュッと力がこもったように見えた。そして、まるでその存在すらなかったかのようにして裏返される。
その仕草の一瞬――彼の眉間に、かすかな皺が寄ったのを私は見逃さなかった。
何も言わない。けれど、静かに緊張が流れ込んでくる。
「……無視していい。今は、静香との朝だから」
低く、静かな声だった。
けれどその声音の底に、確かにあった。息を潜め、そろそろと近付きつつあるものに対する、研ぎ澄まされた警戒心。
その一瞬で私は悟ってしまった。この幸せな時間に、忍び寄る影。
(……もうすぐ、きっと何か、起こる気がする)
静かに、確かに。芹沢家という大きな波が、私と礼司さんを飲み込もうとしているようなイメージが頭に流れ込んできた。
「礼司さん、私……大丈夫です」
そっと、テーブルの上に置かれた礼司さんの手に自分の手を重ねた。
「静香……」
「ずっと、礼司さんの隣でいますから」
どんな嵐が来ても、私はもう逃げない。あなたと共に、この手を離さずにいると誓った昨夜。
強くなると、決意したのだから。
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