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序章 罪
第1話 スカイブルー
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『俺はあんたを⋯⋯ッ、絶ッ対に、許さない⋯⋯ッ!一生かけて償えよ、なあ!?』
『あんたの人生から⋯⋯ッ、全てッ!全て奪ってやる⋯⋯ッ!』
『俺と⋯⋯ッ、同じように⋯⋯ッッ!!』
野生の獣のような、無駄なく引き締まった美しい肢体の青年に――
栞は、血管が浮き出た彼の左手一本で抑えつけられ、易易と組み敷かれた。
⋯⋯駄目だ。ぴくりとも動けない。
『フー、フー、フー⋯⋯ッ』
青年は息を荒くして栞に覆い被さる。
今にも喉元を食い裂かれそうな距離。
青年の切れ長の瞳は、怒りと憎しみに満ちながら、悲壮感も滲み出ていた。
鋭い眼光を放ち、無抵抗の獲物を真上から睨み据える。
むしろ、彼が本当に野生の獅子か狼だったら⋯⋯
栞には幾分マシだっただろうか。
『ごめ⋯⋯ッなさい⋯⋯ごめんなさい、わた⋯⋯ッ⋯⋯本当に、ごめん⋯⋯なさい⋯⋯』
栞の目頭から涙が零れた。
すると、青年の漆黒の瞳からも、汗と混じった涙がボタボタと溢れ出した。
堤防が決壊した、嵐の日の濁流のように。
栞の頬に堕ちたその雫は、血と同じ温度をしていた――
※※※
夏が終わるはずのその日。
佐野栞は、いつものように、いつもの道を、カフェオレ色の軽自動車で駅に向かっていた。
栞は、都心から離れた閑静な郊外で、祖母から譲り受けた古い一軒家に独り暮らしだ。
だが、勤務先は都心で、車通勤は重役以外はできないから、電車通勤するしかない。
満員電車が苦手な栞は、極力電車に乗る区間を減らしたくて、乗り換え駅の東山駅に隣接した月極駐車場を借りている。
朝早く自宅からそこまで愛車で移動し、混雑時間帯と混雑路線を避けて電車に乗る、という念の入れようだ。
――いつか、完全在宅勤務にしたいな。
あ、でも、そうなると部長にも会えなくなっちゃう⋯⋯。
栞は児童書なども扱う出版社で校正を担当している。
だから、パソコンさえあれば、殆どの仕事は出社せずとも実質可能だ。
新卒入社の頃は人に直接聞きながら覚えることも多かったが、二十五歳で入社三年目となった今は、人に教える側になった。
真面目で面倒見のいい栞は、部門を問わず新人達に頼られることも多く、なかなか在宅勤務への希望を出せずにいる。
泣きつかれると、つい担当外の仕事でも助けてしまう――自分の悪い癖だ。
そんな栞が心のオアシスにしているのが、お茶目なイケオジの早川部長だ。
彼をこっそり盗み見るためだけに、片道一時間半の通勤を耐えているようなものだ。
――部長、今日はどんなネクタイかな?
この間の犬の肉球柄、可愛かったな。あんなの、どこで買うんだろ。
そんなことをぼんやり考えながら、車は緩やかな登り坂を、法定速度ぴったりの四十キロで進んでいく。
※※※
早朝六時前――
閑静な住宅街を抜けるこの道に、まだ人影はまばらだ。
東山駅の辺りは、昔から文教地区だ。
幼稚園から大学までが、幾つも点在している。
栞の住む森ノ宮駅周辺よりも地価は高いが、緑豊かな割に、都心へのアクセスも良く買い物も便利。
学生や子育て世帯に人気のエリアだ。
――栞は、今日初めて、赤信号で停止した。
すると、大通りの向こうにランニング中の青年の姿が視界に入った。
青年は角を曲がって、坂道を軽快に駆け登っていく。
――あのスカイブルーのウェアは確か。
あ、そうだ。東山学院大学の⋯⋯
この坂を登りきった先に、多数のトップ・アスリートを輩出する有名大学がある。
選手たちの公式ウェアは、大学のイメージカラーと同じスカイブルー。
もうすぐ訪れるはずの、爽快な秋晴れの空を想わせる。
――あの水色。駅伝中継でよく映るやつだ。
青年が駅伝選手かはわからない。
でも、背中の真ん中の生地が、汗でぐっしょりと変色しているのはわかる。
すると、ほんの数秒。
青年は軽く屈んで、靴紐を結び直した。
無駄のない流れるような動きで、休む間もなく、すぐにまた駆け出す。
――がんばれ、若者。
ひたむきに黙々と走る青年を、栞はなんだか、お姉さん気分で応援したくなった。
信号が青に変わる。
栞は、ハッとして車を発進させた。
青年は縁石で仕切られた歩道を、テンポのいいピッチで走っている。
栞の愛車が、彼を横目に追い抜く。
陸上選手でも、流石に車には敵わない。
それでも「原付くらいの速度は出てるかも⋯⋯」と思えるほど、青年はハイペースで走り続ける。
イヤホンで音楽でも聴いているのだろう、長い二つの足が淡々とリズミカルに回転する。
栞はスポーツには詳しくないが、彼のフォームが美しいのは素人目にもわかる。
――もしかしたら、有名な選手かな?
一瞬。
バックミラーで青年を見送りながら、そう思った。
ああ、今日もまだ暑いけど、いい天気。
私もがんばろ!
それで、早く帰って昨日の映画の続きを観よう。
栞は自分まで爽やかな汗をかいたような、晴れ晴れとした気持ちになった。
だが、栞が視線を戻した瞬間ーーー
「翔馬――ッ!!」
女性の金切り声が聞こえた。
同時に、小さな男の子が、栞の視界に飛び込んでくる。
幼い手が、空を掴もうとして⋯⋯
「危ない!!」
男の子は、横断歩道もない道路の真ん中で、ぽかんと立ち尽くす。
あどけない瞳と目が合う。
栞は咄嗟に全力で急ハンドルを切った。
――ドッ⋯⋯、
けたたましいブレーキ音と同時に、車の左側から鈍い音がした。
栞の視界がエアバッグで埋まる。
車は縁石に乗り上げたようだが、それどころではない。
「だ、大丈夫ですかッ!?」
栞はエアバッグを掻い潜って、慌てて車から駆け降りた。
⋯⋯男の子は無事だった。
栞は、ほっと胸を撫で下ろす。
男の子の母親と思しき女性が駆け寄る。抱っこ紐で、赤ちゃんも連れていた。
大きなプールバックを肩にかけたまま、男の子を強く抱きしめて、へたり込んだ。
「あ⋯⋯赤トンボ、いっちゃった」
男の子が視線を送った先を見て、ハッとした顔で母親が、震える指先で訴える。
「⋯⋯うぅ⋯⋯」
小さく低い呻き声が、微かに聞き取れた。
車体の向こう側に、ランニングシューズを履いた足先が見える。
――全身から血の気が引いた。
血相を変えた栞が駆け寄ると、先程の青年が車の下で半身を挟まれている。
悶絶しながら崩れ落ちる青年。
スカイブルーのウェアが――
みるみる赤黒く染まっていく。
栞は震える手で、スーツの胸ポケットからスマホを取り出した。
※※※
鳴り響くサイレンが、鼓膜を揺さぶる。
回転する赤色灯が、視界を赤く点滅させた。
緊迫した救急隊員達が、「せーの!」と声を揃え、青年を青いストレッチャーへと滑らせるように移す。
一瞬だけ、救急車の内部が見えた。
――青年の半身は、怪物に噛み砕かれたように、潰されて歪んでいた。
バタンと後部ドアが閉まる。
救急車の排気筒から黒い煙が吹き上がり、サイレン音が遠ざかっていく。
指先から全身の血がスーッと引いて、視界が揺れる。
栞はアスファルトの上で、ガクリと膝をついた。
『あんたの人生から⋯⋯ッ、全てッ!全て奪ってやる⋯⋯ッ!』
『俺と⋯⋯ッ、同じように⋯⋯ッッ!!』
野生の獣のような、無駄なく引き締まった美しい肢体の青年に――
栞は、血管が浮き出た彼の左手一本で抑えつけられ、易易と組み敷かれた。
⋯⋯駄目だ。ぴくりとも動けない。
『フー、フー、フー⋯⋯ッ』
青年は息を荒くして栞に覆い被さる。
今にも喉元を食い裂かれそうな距離。
青年の切れ長の瞳は、怒りと憎しみに満ちながら、悲壮感も滲み出ていた。
鋭い眼光を放ち、無抵抗の獲物を真上から睨み据える。
むしろ、彼が本当に野生の獅子か狼だったら⋯⋯
栞には幾分マシだっただろうか。
『ごめ⋯⋯ッなさい⋯⋯ごめんなさい、わた⋯⋯ッ⋯⋯本当に、ごめん⋯⋯なさい⋯⋯』
栞の目頭から涙が零れた。
すると、青年の漆黒の瞳からも、汗と混じった涙がボタボタと溢れ出した。
堤防が決壊した、嵐の日の濁流のように。
栞の頬に堕ちたその雫は、血と同じ温度をしていた――
※※※
夏が終わるはずのその日。
佐野栞は、いつものように、いつもの道を、カフェオレ色の軽自動車で駅に向かっていた。
栞は、都心から離れた閑静な郊外で、祖母から譲り受けた古い一軒家に独り暮らしだ。
だが、勤務先は都心で、車通勤は重役以外はできないから、電車通勤するしかない。
満員電車が苦手な栞は、極力電車に乗る区間を減らしたくて、乗り換え駅の東山駅に隣接した月極駐車場を借りている。
朝早く自宅からそこまで愛車で移動し、混雑時間帯と混雑路線を避けて電車に乗る、という念の入れようだ。
――いつか、完全在宅勤務にしたいな。
あ、でも、そうなると部長にも会えなくなっちゃう⋯⋯。
栞は児童書なども扱う出版社で校正を担当している。
だから、パソコンさえあれば、殆どの仕事は出社せずとも実質可能だ。
新卒入社の頃は人に直接聞きながら覚えることも多かったが、二十五歳で入社三年目となった今は、人に教える側になった。
真面目で面倒見のいい栞は、部門を問わず新人達に頼られることも多く、なかなか在宅勤務への希望を出せずにいる。
泣きつかれると、つい担当外の仕事でも助けてしまう――自分の悪い癖だ。
そんな栞が心のオアシスにしているのが、お茶目なイケオジの早川部長だ。
彼をこっそり盗み見るためだけに、片道一時間半の通勤を耐えているようなものだ。
――部長、今日はどんなネクタイかな?
この間の犬の肉球柄、可愛かったな。あんなの、どこで買うんだろ。
そんなことをぼんやり考えながら、車は緩やかな登り坂を、法定速度ぴったりの四十キロで進んでいく。
※※※
早朝六時前――
閑静な住宅街を抜けるこの道に、まだ人影はまばらだ。
東山駅の辺りは、昔から文教地区だ。
幼稚園から大学までが、幾つも点在している。
栞の住む森ノ宮駅周辺よりも地価は高いが、緑豊かな割に、都心へのアクセスも良く買い物も便利。
学生や子育て世帯に人気のエリアだ。
――栞は、今日初めて、赤信号で停止した。
すると、大通りの向こうにランニング中の青年の姿が視界に入った。
青年は角を曲がって、坂道を軽快に駆け登っていく。
――あのスカイブルーのウェアは確か。
あ、そうだ。東山学院大学の⋯⋯
この坂を登りきった先に、多数のトップ・アスリートを輩出する有名大学がある。
選手たちの公式ウェアは、大学のイメージカラーと同じスカイブルー。
もうすぐ訪れるはずの、爽快な秋晴れの空を想わせる。
――あの水色。駅伝中継でよく映るやつだ。
青年が駅伝選手かはわからない。
でも、背中の真ん中の生地が、汗でぐっしょりと変色しているのはわかる。
すると、ほんの数秒。
青年は軽く屈んで、靴紐を結び直した。
無駄のない流れるような動きで、休む間もなく、すぐにまた駆け出す。
――がんばれ、若者。
ひたむきに黙々と走る青年を、栞はなんだか、お姉さん気分で応援したくなった。
信号が青に変わる。
栞は、ハッとして車を発進させた。
青年は縁石で仕切られた歩道を、テンポのいいピッチで走っている。
栞の愛車が、彼を横目に追い抜く。
陸上選手でも、流石に車には敵わない。
それでも「原付くらいの速度は出てるかも⋯⋯」と思えるほど、青年はハイペースで走り続ける。
イヤホンで音楽でも聴いているのだろう、長い二つの足が淡々とリズミカルに回転する。
栞はスポーツには詳しくないが、彼のフォームが美しいのは素人目にもわかる。
――もしかしたら、有名な選手かな?
一瞬。
バックミラーで青年を見送りながら、そう思った。
ああ、今日もまだ暑いけど、いい天気。
私もがんばろ!
それで、早く帰って昨日の映画の続きを観よう。
栞は自分まで爽やかな汗をかいたような、晴れ晴れとした気持ちになった。
だが、栞が視線を戻した瞬間ーーー
「翔馬――ッ!!」
女性の金切り声が聞こえた。
同時に、小さな男の子が、栞の視界に飛び込んでくる。
幼い手が、空を掴もうとして⋯⋯
「危ない!!」
男の子は、横断歩道もない道路の真ん中で、ぽかんと立ち尽くす。
あどけない瞳と目が合う。
栞は咄嗟に全力で急ハンドルを切った。
――ドッ⋯⋯、
けたたましいブレーキ音と同時に、車の左側から鈍い音がした。
栞の視界がエアバッグで埋まる。
車は縁石に乗り上げたようだが、それどころではない。
「だ、大丈夫ですかッ!?」
栞はエアバッグを掻い潜って、慌てて車から駆け降りた。
⋯⋯男の子は無事だった。
栞は、ほっと胸を撫で下ろす。
男の子の母親と思しき女性が駆け寄る。抱っこ紐で、赤ちゃんも連れていた。
大きなプールバックを肩にかけたまま、男の子を強く抱きしめて、へたり込んだ。
「あ⋯⋯赤トンボ、いっちゃった」
男の子が視線を送った先を見て、ハッとした顔で母親が、震える指先で訴える。
「⋯⋯うぅ⋯⋯」
小さく低い呻き声が、微かに聞き取れた。
車体の向こう側に、ランニングシューズを履いた足先が見える。
――全身から血の気が引いた。
血相を変えた栞が駆け寄ると、先程の青年が車の下で半身を挟まれている。
悶絶しながら崩れ落ちる青年。
スカイブルーのウェアが――
みるみる赤黒く染まっていく。
栞は震える手で、スーツの胸ポケットからスマホを取り出した。
※※※
鳴り響くサイレンが、鼓膜を揺さぶる。
回転する赤色灯が、視界を赤く点滅させた。
緊迫した救急隊員達が、「せーの!」と声を揃え、青年を青いストレッチャーへと滑らせるように移す。
一瞬だけ、救急車の内部が見えた。
――青年の半身は、怪物に噛み砕かれたように、潰されて歪んでいた。
バタンと後部ドアが閉まる。
救急車の排気筒から黒い煙が吹き上がり、サイレン音が遠ざかっていく。
指先から全身の血がスーッと引いて、視界が揺れる。
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