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序章 罪
第2話 好青年(1)二つの紐
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「被害者男性は、日渡大樹さん、二十一歳。今あなたに伝えられるのは、これだけです」
「日渡⋯⋯大樹、さん」
あの青年の名を、栞は警察から聞いた。
あれから連日、栞は警察での事情聴取と実況見分、それに保険会社とのやり取りに追われていた。
幸い、ドライブレコーダーの映像と、飛び出したあの子の母親の証言で、事故は不可抗力と判断され、逮捕はされなかった。
いずれ書類送検はされるものの、『おそらく不起訴になるでしょうね』と刑事さんが言っていた。
――本当に、いいのだろうか。
そんな軽い罰で⋯⋯。
ようやく最後の事情聴取が終わり、供述調書にサインする時に、被害者の名前だけ、教えられた。
「⋯⋯その方に謝罪したいのですが」
「警察が仲介することはありませんが、そのような意思があることは、先方の弁護士に伝えておきましょう」
「ですが⋯⋯やはり⋯⋯」
「今はまだ、そんな状況ではないでしょう。相手の方はかなりの重体で、一命は取り留めたものの、まだ弁護士も会えてないそうです」
「そう、ですか⋯⋯」
栞は居ても立ってもいられなかった。
とにかく日渡さんという青年に謝りたい。
謝ったところで、取り返しがつかないが、最大限の誠意だけは伝えたい。
保険会社とも、そのように相談している。
※※※
警察からの帰りのバスの中。
あのスカイブルーのユニフォームで、彼の大学名は分かっている。
栞はスマホで『日渡大樹 東山学院大学』のワードで、ネットを検索した。
――《東学大エース日渡、男子八百メートル独走》
《関東陸上競技会で学生新記録 東学日渡》
《本学陸上部三年、日渡大樹さん 五輪強化選手に内定!》
⋯⋯などの、華々しい見出しのローカルスポーツ記事や、大学の広報記事が次々とヒットした。
記事に添えられた写真のその人は――
メダルを首から下げて、太陽のように屈託なく笑っている。
絵に描いたような好青年だった。
――とんでもない人を、事故に遭わせてしまった。
スマホを持つ栞の手が、ブルブルと震えたが、一つひとつ、記事に目を通した。
そのうち、検索結果の3ページ目に、SNSの投稿があった。
東学大陸上部のマネージャーらしき個人アカウントで、部員の練習風景や応援メッセージが中心の、内輪向けのものだった。
その数日前の投稿に――
『先輩の手術、無事終わりました。まだ面会できないけど、頑張れ!』という短いコメントと、小さなフラワーアレンジメントの写真。
栞はその、薄い青紫と赤紫の二本のリボンをあしらったラッピングに見覚えがあった。
二年前、祖母を看取った東山総合病院のすぐ近くの、フラワーショップのものだ。
栞はバスの降車ボタンを押した。
※※※
「申し訳ございません。お応えできません」
受付で「ここに日渡大樹さんって方、入院してますか?」と聞いた栞に、淡々と事務的な回答が返ってきた。
⋯⋯そう、だよね。
衝動的に病院まで来てしまったが、もし、自分が相手の立場だったら⋯⋯
事故の加害者が、入院先まで押しかけて来たら、迷惑どころか、不審者扱いされても不思議はない。
肩を落とした栞は、そのまま待合の長椅子に腰を降ろした。
――疲れた。
あの日からロクに寝ていない。
でも、自分よりももっとつらい想いをしている人がいると思うと、居た堪れない。
夕方六時過ぎ。
一般外来の診察は、もう終わっている。
今いるのは急患か、入院患者か、その関係者くらいだろう。
さっきから、救急車のサイレンが途切れずに、遠のいたり、近づいたりしている。
――ここに居ても邪魔になるだけだ。
早く帰らなきゃ。
明日からは、仕事もちゃんとしないと。
部長の早川に事情を話して、事情聴取のために仕事を休んだり、早退したりが続いていた。
警察関係は今日で一区切りついた。これ以上迷惑をかけられない。
栞が重い腰をあげると、どやどやとジャージ姿の若者の集団が、通路の先のエレベーターから降りてきた。
あの紺地に水色ラインのジャージは、マネージャーのSNSによく写っていた。
⋯⋯東学大陸上部の人達だ。
――「大樹先輩、どうなっちゃうんでしょうね⋯⋯」
呟いたその声に、栞はギクッとした。
若者の集団は足早に出口へ向かいながら、口々にその人のことを語って通り過ぎた。
「右足も右手も、もう、元には戻らないってよ」「あの大樹さんが、誰とも会おうとしないなんて⋯⋯」「お前、泣くなよッ」「だってよぉ、先輩の選手生命がッ⋯⋯」
――やっぱり、この病院に「日渡大樹」さんがいるんだ。
かなり深刻な状態みたい⋯⋯どうしよう。
集団を見送る栞に、後から通りかかった同じジャージを着た年配の男性が気づいた。
「⋯⋯」
男性は栞をチラと見たが、声をかけることなく、険しい顔で病院の奥へと足早に歩いていった。
※※※
それから毎日、栞は会社帰りに病院に立ち寄った。
とはいえ、中には入れない。
――せめて、謝罪の手紙だけでも渡して貰えれば。
封筒を手にして、エントランス前で立ち、東学大のジャージを探すが、あれ以来見かけていない。
「この病院に、何か御用でしょうか、お嬢さん」
不意に背後から声をかけられ、栞はギクリとした。
警備員かと思って振り向くと、年配のくたびれたスーツ姿の男性だった。
「あなた、最近毎日、この時間ここに立ってますね」
「はい⋯⋯あの、入院患者さんに渡したいものがあって⋯⋯直接会えないので、誰かお知り合いに頼めないかと⋯⋯」
「そうですか。私は東山学院大学の陸上部監督の、西田と申します」
「あ⋯⋯!丁度良かった⋯⋯実は」
栞が救われた思いで、事情を話そうとすると、西田監督に話を遮られた。
「ああ、やはり。あなたでしたか」
「え⋯⋯?」
「いやね、あなたとは、警察の入口でも、すれ違った覚えが。私も、書類が山程必要で、警察に何度も出向いたんで⋯⋯」
「あ⋯⋯そう、だったんですか⋯⋯」
「うちのエースを車で轢いたのは、あなたですね。二〇代の女性だと聞いてますし」
西田は栞の目をまっすぐ見ていた。
全てを見透かすような、冷徹な眼差し――
責められて当然だ。
でも、ここで逃げては駄目だ。この人から逃げたら、日渡さんに手紙が渡せない。
「はい⋯⋯私です。佐野栞と申します。この度は本当に、申し訳ありませんでした」
栞は深々と頭を下げた。
「日渡⋯⋯大樹、さん」
あの青年の名を、栞は警察から聞いた。
あれから連日、栞は警察での事情聴取と実況見分、それに保険会社とのやり取りに追われていた。
幸い、ドライブレコーダーの映像と、飛び出したあの子の母親の証言で、事故は不可抗力と判断され、逮捕はされなかった。
いずれ書類送検はされるものの、『おそらく不起訴になるでしょうね』と刑事さんが言っていた。
――本当に、いいのだろうか。
そんな軽い罰で⋯⋯。
ようやく最後の事情聴取が終わり、供述調書にサインする時に、被害者の名前だけ、教えられた。
「⋯⋯その方に謝罪したいのですが」
「警察が仲介することはありませんが、そのような意思があることは、先方の弁護士に伝えておきましょう」
「ですが⋯⋯やはり⋯⋯」
「今はまだ、そんな状況ではないでしょう。相手の方はかなりの重体で、一命は取り留めたものの、まだ弁護士も会えてないそうです」
「そう、ですか⋯⋯」
栞は居ても立ってもいられなかった。
とにかく日渡さんという青年に謝りたい。
謝ったところで、取り返しがつかないが、最大限の誠意だけは伝えたい。
保険会社とも、そのように相談している。
※※※
警察からの帰りのバスの中。
あのスカイブルーのユニフォームで、彼の大学名は分かっている。
栞はスマホで『日渡大樹 東山学院大学』のワードで、ネットを検索した。
――《東学大エース日渡、男子八百メートル独走》
《関東陸上競技会で学生新記録 東学日渡》
《本学陸上部三年、日渡大樹さん 五輪強化選手に内定!》
⋯⋯などの、華々しい見出しのローカルスポーツ記事や、大学の広報記事が次々とヒットした。
記事に添えられた写真のその人は――
メダルを首から下げて、太陽のように屈託なく笑っている。
絵に描いたような好青年だった。
――とんでもない人を、事故に遭わせてしまった。
スマホを持つ栞の手が、ブルブルと震えたが、一つひとつ、記事に目を通した。
そのうち、検索結果の3ページ目に、SNSの投稿があった。
東学大陸上部のマネージャーらしき個人アカウントで、部員の練習風景や応援メッセージが中心の、内輪向けのものだった。
その数日前の投稿に――
『先輩の手術、無事終わりました。まだ面会できないけど、頑張れ!』という短いコメントと、小さなフラワーアレンジメントの写真。
栞はその、薄い青紫と赤紫の二本のリボンをあしらったラッピングに見覚えがあった。
二年前、祖母を看取った東山総合病院のすぐ近くの、フラワーショップのものだ。
栞はバスの降車ボタンを押した。
※※※
「申し訳ございません。お応えできません」
受付で「ここに日渡大樹さんって方、入院してますか?」と聞いた栞に、淡々と事務的な回答が返ってきた。
⋯⋯そう、だよね。
衝動的に病院まで来てしまったが、もし、自分が相手の立場だったら⋯⋯
事故の加害者が、入院先まで押しかけて来たら、迷惑どころか、不審者扱いされても不思議はない。
肩を落とした栞は、そのまま待合の長椅子に腰を降ろした。
――疲れた。
あの日からロクに寝ていない。
でも、自分よりももっとつらい想いをしている人がいると思うと、居た堪れない。
夕方六時過ぎ。
一般外来の診察は、もう終わっている。
今いるのは急患か、入院患者か、その関係者くらいだろう。
さっきから、救急車のサイレンが途切れずに、遠のいたり、近づいたりしている。
――ここに居ても邪魔になるだけだ。
早く帰らなきゃ。
明日からは、仕事もちゃんとしないと。
部長の早川に事情を話して、事情聴取のために仕事を休んだり、早退したりが続いていた。
警察関係は今日で一区切りついた。これ以上迷惑をかけられない。
栞が重い腰をあげると、どやどやとジャージ姿の若者の集団が、通路の先のエレベーターから降りてきた。
あの紺地に水色ラインのジャージは、マネージャーのSNSによく写っていた。
⋯⋯東学大陸上部の人達だ。
――「大樹先輩、どうなっちゃうんでしょうね⋯⋯」
呟いたその声に、栞はギクッとした。
若者の集団は足早に出口へ向かいながら、口々にその人のことを語って通り過ぎた。
「右足も右手も、もう、元には戻らないってよ」「あの大樹さんが、誰とも会おうとしないなんて⋯⋯」「お前、泣くなよッ」「だってよぉ、先輩の選手生命がッ⋯⋯」
――やっぱり、この病院に「日渡大樹」さんがいるんだ。
かなり深刻な状態みたい⋯⋯どうしよう。
集団を見送る栞に、後から通りかかった同じジャージを着た年配の男性が気づいた。
「⋯⋯」
男性は栞をチラと見たが、声をかけることなく、険しい顔で病院の奥へと足早に歩いていった。
※※※
それから毎日、栞は会社帰りに病院に立ち寄った。
とはいえ、中には入れない。
――せめて、謝罪の手紙だけでも渡して貰えれば。
封筒を手にして、エントランス前で立ち、東学大のジャージを探すが、あれ以来見かけていない。
「この病院に、何か御用でしょうか、お嬢さん」
不意に背後から声をかけられ、栞はギクリとした。
警備員かと思って振り向くと、年配のくたびれたスーツ姿の男性だった。
「あなた、最近毎日、この時間ここに立ってますね」
「はい⋯⋯あの、入院患者さんに渡したいものがあって⋯⋯直接会えないので、誰かお知り合いに頼めないかと⋯⋯」
「そうですか。私は東山学院大学の陸上部監督の、西田と申します」
「あ⋯⋯!丁度良かった⋯⋯実は」
栞が救われた思いで、事情を話そうとすると、西田監督に話を遮られた。
「ああ、やはり。あなたでしたか」
「え⋯⋯?」
「いやね、あなたとは、警察の入口でも、すれ違った覚えが。私も、書類が山程必要で、警察に何度も出向いたんで⋯⋯」
「あ⋯⋯そう、だったんですか⋯⋯」
「うちのエースを車で轢いたのは、あなたですね。二〇代の女性だと聞いてますし」
西田は栞の目をまっすぐ見ていた。
全てを見透かすような、冷徹な眼差し――
責められて当然だ。
でも、ここで逃げては駄目だ。この人から逃げたら、日渡さんに手紙が渡せない。
「はい⋯⋯私です。佐野栞と申します。この度は本当に、申し訳ありませんでした」
栞は深々と頭を下げた。
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