贖罪

鈴樹

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第1章 罰

第7話 獣の哀しみ(2)残像

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翌日の夕方――

栞が指定された時間に病院に着くと、すでに大樹は、最後の検査と退院手続きを終えていた。

ロビーの長椅子で入口を睨み据えて一人座る大樹を、栞は見つけた。

傍らには、僅かな荷物。
スポーツバッグ一つと杖。それから身につけた義足――

救急搬送から、そのまま三ヶ月の入院生活を送った大樹は、必要なものは殆どレンタル品で済ませた。

家族は岩手で着替えを頻繁に届けられず、寮の仲間や監督には、そこまで頼めなかった。

栞は大樹に目で合図を送って、会釈する。
大樹は憮然として、顎の先で頷いた。

栞は大樹に近づいて、家から持参したチェック柄の背当ての車椅子を横付けした。

大樹が入院中に使っていたのは、病院の貸し車椅子で持ち帰れない。

リハビリを始めるのが遅かった大樹は、まだ、完全に義足だけで歩くのは難しい。
数メートルでも杖、長距離の移動には車椅子が必要だ。

大樹は身体をずらすようにして、無言で車椅子に乗り込んだ。

――おばあちゃんの車椅子、処分しないで良かった。

大樹には少し小さいが、これ以上のサイズだと栞の細腕では持ち運べない。

表に待たせてあったタクシーに乗り込むと、看護師が慌てて段ボールを持って追いかけてきた。

ナースステーションで預かっていた、大樹の見舞い品を詰めたものだった。

――出発したタクシーの後部座席。

栞と大樹は、シートの端と端に、離れて座っていた。

終始、ずっと無言のままだった。

秋の終わりの日没は早い。
すれ違う対向車の、ヘッドライトの残像が流れ始めた。

 ※※※ 

「どうぞ。⋯⋯狭い家ですが」

家に着くと、栞は鍵を開けて、大樹を迎え入れた。
努めて笑顔で言ったつもりだった。

小さな頃からよく来たこの家が、栞には落ち着いた。
だが今日は、古くて狭くて暗くて、申し訳ない気持ちがした。

祖母の部屋の片付けをした後、精一杯掃除もしたから、これ以上は綺麗にならない。

大樹は玄関で、靴を脱ぐのに手間取った。

栞が手伝おうとすると、杖で拒まれる。

「⋯⋯お部屋に荷物を運びますね」

栞は玄関からすぐの和室に、大樹の荷物を運び入れた。
和箪笥の前にスポーツバッグを置く。

天井から吊り下がったペンダントライトを点けると、それなりに趣きのある部屋に見えた。

コトン、コトン、と杖の音が近づく。

開いた引き戸から、大樹がぬっと現れた。
和室のドアは枠が低い。長身の大樹は軽く頭を傾けて入った。

「ここが日渡さんのお部屋ですから、なんでも自由に使ってください。足りないものがあれば、すぐに買い足します」

大樹は無言でベッドに腰掛けて、フーっと息を吐いた。

「お疲れでしょう。休んでて下さいね。私は夕食の支度をしますので、何かあれば、呼んで下さい」

そう微笑んで、栞は部屋を出た。

――急に他人の家に住むなんて、落ち着かないよね。

 ※※※ 

大樹はベッドに座ったまま、じっと真新しい寝具を見つめた。

紺色で揃えられた、布団一式と枕カバー。それに大判の茶色の毛布。真っ白なシーツ。

ベッドの上部には手摺りのガードがついている。

サイドデスクに置かれたランプシェードの手元スイッチを、大樹は入れてみた。

――暖かな色の光が広がる。

「ふざけるな」

そう呟いて苛立った様子で、ガチ、ガチ、ガチ――と、健常な左手でスイッチのオンとオフを繰り返した。

大樹の影が純白のシーツの上で点滅した。

 ※※※ 

数日前から散々悩んだ挙げ句、栞は今日の夕食をクリームシチューに決めた。

大樹の味の好みがわからないが、体育会系の大学生なら、沢山食べるだろう。

――でも、『箸も持てない』と言っていた。

栞はかつて、祖母に『あーん』と、食事を口元に運んであげたら、恥ずかしそうにしていたのを思い出した。

実の祖母と孫ですら、そうなのだ。

成人男性の大樹には尚更だろう。
ましてや、憎い相手となれば⋯⋯。

食事だけじゃない。

生活のあらゆる場面で、栞の介助に慣れてもらわないといけないが、それは大樹に触れないとできない。

――前途多難だ。

とりあえず、今日のところは、スプーンで食べられるものにしよう。

カレーライスなら嫌いな人はいないだろうが、退院したばかりでは、彼の胃に負担がかかりそうだ。

寒くなってきたから、温かい煮込み料理がいい。

――小さな頃、クリームシチューのCМに憧れた。

白い息を吐き、手を擦りながら、子供が父親と家に帰ると、温かいシチューと母親の笑顔が出迎える。

あんな家、本当にあるのだろうか。

――コトコトと音を立てる鍋の湯気。

クリーミィでまろやかな匂いが漂った。

 ※※※ 

――ふん、クリームシチューか。

大樹は、すん、と鼻を鳴らした。

狭い家だから、キッチンからの匂いが和室にも届いた。

乳牛の酪農家だった大樹の岩手の実家では、頻繁に食卓に出た料理だ。

――大鍋に具沢山の野菜。

『お肉ちっちゃい』のクレームに『気にするな』と笑う母。先を争う子供達を『順番こ!』と窘める父。
『これも食え』『きのこあげる』と出遅れた妹の皿に、具を追加する兄達。

決して裕福ではなかったが、賑やかで温かい家庭だった。

小さな幸せが、確かにそこにあったのに⋯⋯。

――家族に楽をさせてあげたかった。

大樹は、部屋の隅に置かれた段ボールを見つめながら、西田監督にスカウトされた日を思い出す。

高校新記録を出した翌週、監督は遥々岩手までやってきた。

『オリンピックに出るようなスター選手になれば、家族もゆっくりできるぞ。君なら、それは全くの夢物語ではない』

監督は、家族を案じて上京を迷う大樹に、そう言って決断を促した。

海外で活躍する、プロのサッカー選手やメジャーリーガーと違って、陸上選手の年収はさほど高くはなく不安定だ。

だが、五輪クラスの選手には、スポンサーもつくし、有名企業の実業団入りをすれば、生活も安定する。

更に、メダリストにでもなれたら、企業CМやコラボグッズの契約料で、芸能人並の収入になることもある。

派手な世界に憧れはないが、この過疎地から大逆転を狙うなら⋯⋯。

――数年前、地震で牛舎が半壊した。

牛舎は保険の対象外だったが、大事な牛達を失うわけにいかないと、両親は大きな借金をして立て直した。

無理をし過ぎて、父は病気の発覚が遅れた。母も介護と仕事で疲れ切っている。
見兼ねた長兄が若くして家業を継いだが、生活は厳しい。

――俺に何ができるのか。

小さな頃から、たまたま足が速かった。

この監督の話に乗って、スポーツ奨学生で有名大学に進学すれば、学費は不要。寮費も格安で済む。

少なくとも、図体のデカい自分の食い扶持は減る。

だが、自分だけ上京なんて⋯⋯

『大樹、行っといで。家のことは、気にするな』

迷う大樹に、母の笑顔が背中を押した。

――母ちゃん、ごめん。

こんなことになって。
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