7 / 7
第1章 罰
第7話 獣の哀しみ(2)残像
しおりを挟む
翌日の夕方――
栞が指定された時間に病院に着くと、すでに大樹は、最後の検査と退院手続きを終えていた。
ロビーの長椅子で入口を睨み据えて一人座る大樹を、栞は見つけた。
傍らには、僅かな荷物。
スポーツバッグ一つと杖。それから身につけた義足――
救急搬送から、そのまま三ヶ月の入院生活を送った大樹は、必要なものは殆どレンタル品で済ませた。
家族は岩手で着替えを頻繁に届けられず、寮の仲間や監督には、そこまで頼めなかった。
栞は大樹に目で合図を送って、会釈する。
大樹は憮然として、顎の先で頷いた。
栞は大樹に近づいて、家から持参したチェック柄の背当ての車椅子を横付けした。
大樹が入院中に使っていたのは、病院の貸し車椅子で持ち帰れない。
リハビリを始めるのが遅かった大樹は、まだ、完全に義足だけで歩くのは難しい。
数メートルでも杖、長距離の移動には車椅子が必要だ。
大樹は身体をずらすようにして、無言で車椅子に乗り込んだ。
――おばあちゃんの車椅子、処分しないで良かった。
大樹には少し小さいが、これ以上のサイズだと栞の細腕では持ち運べない。
表に待たせてあったタクシーに乗り込むと、看護師が慌てて段ボールを持って追いかけてきた。
ナースステーションで預かっていた、大樹の見舞い品を詰めたものだった。
――出発したタクシーの後部座席。
栞と大樹は、シートの端と端に、離れて座っていた。
終始、ずっと無言のままだった。
秋の終わりの日没は早い。
すれ違う対向車の、ヘッドライトの残像が流れ始めた。
※※※
「どうぞ。⋯⋯狭い家ですが」
家に着くと、栞は鍵を開けて、大樹を迎え入れた。
努めて笑顔で言ったつもりだった。
小さな頃からよく来たこの家が、栞には落ち着いた。
だが今日は、古くて狭くて暗くて、申し訳ない気持ちがした。
祖母の部屋の片付けをした後、精一杯掃除もしたから、これ以上は綺麗にならない。
大樹は玄関で、靴を脱ぐのに手間取った。
栞が手伝おうとすると、杖で拒まれる。
「⋯⋯お部屋に荷物を運びますね」
栞は玄関からすぐの和室に、大樹の荷物を運び入れた。
和箪笥の前にスポーツバッグを置く。
天井から吊り下がったペンダントライトを点けると、それなりに趣きのある部屋に見えた。
コトン、コトン、と杖の音が近づく。
開いた引き戸から、大樹がぬっと現れた。
和室のドアは枠が低い。長身の大樹は軽く頭を傾けて入った。
「ここが日渡さんのお部屋ですから、なんでも自由に使ってください。足りないものがあれば、すぐに買い足します」
大樹は無言でベッドに腰掛けて、フーっと息を吐いた。
「お疲れでしょう。休んでて下さいね。私は夕食の支度をしますので、何かあれば、呼んで下さい」
そう微笑んで、栞は部屋を出た。
――急に他人の家に住むなんて、落ち着かないよね。
※※※
大樹はベッドに座ったまま、じっと真新しい寝具を見つめた。
紺色で揃えられた、布団一式と枕カバー。それに大判の茶色の毛布。真っ白なシーツ。
ベッドの上部には手摺りのガードがついている。
サイドデスクに置かれたランプシェードの手元スイッチを、大樹は入れてみた。
――暖かな色の光が広がる。
「ふざけるな」
そう呟いて苛立った様子で、ガチ、ガチ、ガチ――と、健常な左手でスイッチのオンとオフを繰り返した。
大樹の影が純白のシーツの上で点滅した。
※※※
数日前から散々悩んだ挙げ句、栞は今日の夕食をクリームシチューに決めた。
大樹の味の好みがわからないが、体育会系の大学生なら、沢山食べるだろう。
――でも、『箸も持てない』と言っていた。
栞はかつて、祖母に『あーん』と、食事を口元に運んであげたら、恥ずかしそうにしていたのを思い出した。
実の祖母と孫ですら、そうなのだ。
成人男性の大樹には尚更だろう。
ましてや、憎い相手となれば⋯⋯。
食事だけじゃない。
生活のあらゆる場面で、栞の介助に慣れてもらわないといけないが、それは大樹に触れないとできない。
――前途多難だ。
とりあえず、今日のところは、スプーンで食べられるものにしよう。
カレーライスなら嫌いな人はいないだろうが、退院したばかりでは、彼の胃に負担がかかりそうだ。
寒くなってきたから、温かい煮込み料理がいい。
――小さな頃、クリームシチューのCМに憧れた。
白い息を吐き、手を擦りながら、子供が父親と家に帰ると、温かいシチューと母親の笑顔が出迎える。
あんな家、本当にあるのだろうか。
――コトコトと音を立てる鍋の湯気。
クリーミィでまろやかな匂いが漂った。
※※※
――ふん、クリームシチューか。
大樹は、すん、と鼻を鳴らした。
狭い家だから、キッチンからの匂いが和室にも届いた。
乳牛の酪農家だった大樹の岩手の実家では、頻繁に食卓に出た料理だ。
――大鍋に具沢山の野菜。
『お肉ちっちゃい』のクレームに『気にするな』と笑う母。先を争う子供達を『順番こ!』と窘める父。
『これも食え』『きのこあげる』と出遅れた妹の皿に、具を追加する兄達。
決して裕福ではなかったが、賑やかで温かい家庭だった。
小さな幸せが、確かにそこにあったのに⋯⋯。
――家族に楽をさせてあげたかった。
大樹は、部屋の隅に置かれた段ボールを見つめながら、西田監督にスカウトされた日を思い出す。
高校新記録を出した翌週、監督は遥々岩手までやってきた。
『オリンピックに出るようなスター選手になれば、家族もゆっくりできるぞ。君なら、それは全くの夢物語ではない』
監督は、家族を案じて上京を迷う大樹に、そう言って決断を促した。
海外で活躍する、プロのサッカー選手やメジャーリーガーと違って、陸上選手の年収はさほど高くはなく不安定だ。
だが、五輪クラスの選手には、スポンサーもつくし、有名企業の実業団入りをすれば、生活も安定する。
更に、メダリストにでもなれたら、企業CМやコラボグッズの契約料で、芸能人並の収入になることもある。
派手な世界に憧れはないが、この過疎地から大逆転を狙うなら⋯⋯。
――数年前、地震で牛舎が半壊した。
牛舎は保険の対象外だったが、大事な牛達を失うわけにいかないと、両親は大きな借金をして立て直した。
無理をし過ぎて、父は病気の発覚が遅れた。母も介護と仕事で疲れ切っている。
見兼ねた長兄が若くして家業を継いだが、生活は厳しい。
――俺に何ができるのか。
小さな頃から、たまたま足が速かった。
この監督の話に乗って、スポーツ奨学生で有名大学に進学すれば、学費は不要。寮費も格安で済む。
少なくとも、図体のデカい自分の食い扶持は減る。
だが、自分だけ上京なんて⋯⋯
『大樹、行っといで。家のことは、気にするな』
迷う大樹に、母の笑顔が背中を押した。
――母ちゃん、ごめん。
こんなことになって。
栞が指定された時間に病院に着くと、すでに大樹は、最後の検査と退院手続きを終えていた。
ロビーの長椅子で入口を睨み据えて一人座る大樹を、栞は見つけた。
傍らには、僅かな荷物。
スポーツバッグ一つと杖。それから身につけた義足――
救急搬送から、そのまま三ヶ月の入院生活を送った大樹は、必要なものは殆どレンタル品で済ませた。
家族は岩手で着替えを頻繁に届けられず、寮の仲間や監督には、そこまで頼めなかった。
栞は大樹に目で合図を送って、会釈する。
大樹は憮然として、顎の先で頷いた。
栞は大樹に近づいて、家から持参したチェック柄の背当ての車椅子を横付けした。
大樹が入院中に使っていたのは、病院の貸し車椅子で持ち帰れない。
リハビリを始めるのが遅かった大樹は、まだ、完全に義足だけで歩くのは難しい。
数メートルでも杖、長距離の移動には車椅子が必要だ。
大樹は身体をずらすようにして、無言で車椅子に乗り込んだ。
――おばあちゃんの車椅子、処分しないで良かった。
大樹には少し小さいが、これ以上のサイズだと栞の細腕では持ち運べない。
表に待たせてあったタクシーに乗り込むと、看護師が慌てて段ボールを持って追いかけてきた。
ナースステーションで預かっていた、大樹の見舞い品を詰めたものだった。
――出発したタクシーの後部座席。
栞と大樹は、シートの端と端に、離れて座っていた。
終始、ずっと無言のままだった。
秋の終わりの日没は早い。
すれ違う対向車の、ヘッドライトの残像が流れ始めた。
※※※
「どうぞ。⋯⋯狭い家ですが」
家に着くと、栞は鍵を開けて、大樹を迎え入れた。
努めて笑顔で言ったつもりだった。
小さな頃からよく来たこの家が、栞には落ち着いた。
だが今日は、古くて狭くて暗くて、申し訳ない気持ちがした。
祖母の部屋の片付けをした後、精一杯掃除もしたから、これ以上は綺麗にならない。
大樹は玄関で、靴を脱ぐのに手間取った。
栞が手伝おうとすると、杖で拒まれる。
「⋯⋯お部屋に荷物を運びますね」
栞は玄関からすぐの和室に、大樹の荷物を運び入れた。
和箪笥の前にスポーツバッグを置く。
天井から吊り下がったペンダントライトを点けると、それなりに趣きのある部屋に見えた。
コトン、コトン、と杖の音が近づく。
開いた引き戸から、大樹がぬっと現れた。
和室のドアは枠が低い。長身の大樹は軽く頭を傾けて入った。
「ここが日渡さんのお部屋ですから、なんでも自由に使ってください。足りないものがあれば、すぐに買い足します」
大樹は無言でベッドに腰掛けて、フーっと息を吐いた。
「お疲れでしょう。休んでて下さいね。私は夕食の支度をしますので、何かあれば、呼んで下さい」
そう微笑んで、栞は部屋を出た。
――急に他人の家に住むなんて、落ち着かないよね。
※※※
大樹はベッドに座ったまま、じっと真新しい寝具を見つめた。
紺色で揃えられた、布団一式と枕カバー。それに大判の茶色の毛布。真っ白なシーツ。
ベッドの上部には手摺りのガードがついている。
サイドデスクに置かれたランプシェードの手元スイッチを、大樹は入れてみた。
――暖かな色の光が広がる。
「ふざけるな」
そう呟いて苛立った様子で、ガチ、ガチ、ガチ――と、健常な左手でスイッチのオンとオフを繰り返した。
大樹の影が純白のシーツの上で点滅した。
※※※
数日前から散々悩んだ挙げ句、栞は今日の夕食をクリームシチューに決めた。
大樹の味の好みがわからないが、体育会系の大学生なら、沢山食べるだろう。
――でも、『箸も持てない』と言っていた。
栞はかつて、祖母に『あーん』と、食事を口元に運んであげたら、恥ずかしそうにしていたのを思い出した。
実の祖母と孫ですら、そうなのだ。
成人男性の大樹には尚更だろう。
ましてや、憎い相手となれば⋯⋯。
食事だけじゃない。
生活のあらゆる場面で、栞の介助に慣れてもらわないといけないが、それは大樹に触れないとできない。
――前途多難だ。
とりあえず、今日のところは、スプーンで食べられるものにしよう。
カレーライスなら嫌いな人はいないだろうが、退院したばかりでは、彼の胃に負担がかかりそうだ。
寒くなってきたから、温かい煮込み料理がいい。
――小さな頃、クリームシチューのCМに憧れた。
白い息を吐き、手を擦りながら、子供が父親と家に帰ると、温かいシチューと母親の笑顔が出迎える。
あんな家、本当にあるのだろうか。
――コトコトと音を立てる鍋の湯気。
クリーミィでまろやかな匂いが漂った。
※※※
――ふん、クリームシチューか。
大樹は、すん、と鼻を鳴らした。
狭い家だから、キッチンからの匂いが和室にも届いた。
乳牛の酪農家だった大樹の岩手の実家では、頻繁に食卓に出た料理だ。
――大鍋に具沢山の野菜。
『お肉ちっちゃい』のクレームに『気にするな』と笑う母。先を争う子供達を『順番こ!』と窘める父。
『これも食え』『きのこあげる』と出遅れた妹の皿に、具を追加する兄達。
決して裕福ではなかったが、賑やかで温かい家庭だった。
小さな幸せが、確かにそこにあったのに⋯⋯。
――家族に楽をさせてあげたかった。
大樹は、部屋の隅に置かれた段ボールを見つめながら、西田監督にスカウトされた日を思い出す。
高校新記録を出した翌週、監督は遥々岩手までやってきた。
『オリンピックに出るようなスター選手になれば、家族もゆっくりできるぞ。君なら、それは全くの夢物語ではない』
監督は、家族を案じて上京を迷う大樹に、そう言って決断を促した。
海外で活躍する、プロのサッカー選手やメジャーリーガーと違って、陸上選手の年収はさほど高くはなく不安定だ。
だが、五輪クラスの選手には、スポンサーもつくし、有名企業の実業団入りをすれば、生活も安定する。
更に、メダリストにでもなれたら、企業CМやコラボグッズの契約料で、芸能人並の収入になることもある。
派手な世界に憧れはないが、この過疎地から大逆転を狙うなら⋯⋯。
――数年前、地震で牛舎が半壊した。
牛舎は保険の対象外だったが、大事な牛達を失うわけにいかないと、両親は大きな借金をして立て直した。
無理をし過ぎて、父は病気の発覚が遅れた。母も介護と仕事で疲れ切っている。
見兼ねた長兄が若くして家業を継いだが、生活は厳しい。
――俺に何ができるのか。
小さな頃から、たまたま足が速かった。
この監督の話に乗って、スポーツ奨学生で有名大学に進学すれば、学費は不要。寮費も格安で済む。
少なくとも、図体のデカい自分の食い扶持は減る。
だが、自分だけ上京なんて⋯⋯
『大樹、行っといで。家のことは、気にするな』
迷う大樹に、母の笑顔が背中を押した。
――母ちゃん、ごめん。
こんなことになって。
1
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる