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第1章 罰
第6話 獣の哀しみ(1)遺物
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大樹が退院するまでの十日間――
栞は忙しかった。
まず、働き方を調整しないと。
退院の日から数日間、残りの有給休暇を全て使わせてもらう。
それから、栞の会社には、育児や介護のために、在宅ワークや時短勤務ができる制度がある。
それを大樹のために使うには、部長にある程度、説明しないといけない。
⋯⋯だが、さすがに「被害者と同居」なんて、いくら部長でも理解されないだろう。
「示談条件で、身辺のサポートをすることになった」とだけ、伝えた。
「佐野さんは、それで大丈夫なのか?」
「はい。むしろ、そうさせて貰えるのが、私は有り難いです」
栞はきっぱりと言った。
「そう。まあ、困ったことがあれば、いつでも相談に乗るからね」
部長は穏やかな笑顔で言った。
「はい。ありがとうございます」
――なぜだろう。
早川部長に会えなくなるのが、もっとつらいだろうと思っていたのに⋯⋯。
※※※
築五十年以上の小さな一軒家。
栞が母方の祖母から相続し、現在独り暮らしで、これから大樹と住む予定の家だ。
自宅にいる時間は、一階の和室の片付けに追われた。
玄関からすぐのこの部屋は、数年前まで栞の祖母が使っていた。
八畳程の広さに、畳敷き。
足腰が弱った祖母のために、手摺り付きのベッドを入れた。
障子につけたカーテンを開けると、掃き出し窓から縁側の小さな庭に出られる。
祖母が愛した、小さな世界――
小雀が一人で遊んでいる。
栞は大学生の頃から、祖母と二人、この家で暮らしていた。
足と心臓が悪くなってから、認知症の症状も出始め、一人にはできなかった。
学業や仕事と介護の両立は、楽ではなかったけれど――
おばあちゃんの匂い、好きだったな。
栞は畳の上で、祖母の愛用していたカーディガンを手に取って、ほうっとした。
だが、大樹をこの部屋に迎え入れるなら、できるだけ片付けないといけない。
栞はバンダナを額にキュッと締めた。
祖母の残り香のある寝具を一気に剥がす。
それから部屋の隅にある、祖母の嫁入り道具の和箪笥の引き出しを片っ端から開けると、樟脳の匂いが立ち込めた。
懐かしい衣類は全部、ゴミ袋に入れた。
――祖母を看取ってから二年。
ようやく、遺品整理をした。
箪笥の上の写真立て、祖母が愛用していたマフラー⋯⋯。
幾つかは小箱に詰めて、二階の物置部屋に運んだ。
――それから家具量販店で、新しい寝具を注文した。
あの人に、少しでも心地よく過ごして貰えるといい。
※※※
大樹が退院する前日――
栞は西田監督と病院で待ち合わせをし、監督の車で陸上部の寮へと同行した。
車中で監督は、雑談するように栞に話しかけた。
「いやあ⋯⋯最初、日渡から、あなたと暮らすことになったと聞いたときは、お前ら正気か?と思ったよ⋯⋯ハハハ」
「⋯⋯私もそう思います」
「まあ、正論だけじゃどうにもならんこともある――もう一度聞くけど、あなたは本当にそれでいいの?」
「――はい。私にできることがあって、嬉しいです」
栞は一切迷わず答えた。
バックミラー越しに、監督は栞をチラと見た。
「⋯⋯アイツも、それでいい、と同じ顔で言ったよ。それなら私から⋯⋯何も言うことはない」
車は、栞の家と大学のちょうど中間にある寮に着いた。
駐車場に入ると、監督は思い出したように言った。
「⋯⋯そうだ、アレ、持ってきてくれたか?」
「ああ、はい」
栞は事前に、西田監督に何故か『エプロンを持参して欲しい』と言われていた。
「今のうちに、着ておいて」
「?⋯⋯はい」
その理由は、すぐ分かった。
※※※
「監督ぅ、この方は?」
目鼻立ちがはっきりした華やかな女性が、露骨に怪訝そうな顔で栞をじろじろと見ながら、西田監督に聞いた。
「佐野さんだ。日渡は明日の退院後、この方のいる⋯⋯ホームで、しばらくお世話になる」
――ホーム?
「へええ。若そうなのに、そういうお仕事に就くなんて、尊敬~」
「ハハハ。佐野さん、こちらは一年のマネージャーで、管理栄養士見習いの⋯⋯」
「南沢花梨でーす。大樹先輩のこと、ほんとに、ほんとに、よろしくお願いします」
花梨はペコリと頭を下げた。
「こ、こちらこそ」
――ああ。この人が、あのSNSアカウントの。あなたのおかげです。ありがとう。
栞も頭を下げて、心の中で手を合わせた。
「南沢さん、日渡の荷物、まとめておいてくれた?」
「はい。相部屋の健太君も手伝ってくれて。スタッフさん、こっちです」
花梨はエプロン姿の栞のことを、勝手にホームのスタッフだと勘違いしたようだ。
――ああ、そういうことか。
栞は納得した。
花梨に案内された食堂近くの休憩コーナーに、段ボールが二つ、積んであった。
「⋯⋯服とパソコンくらいしか、入ってないんですケド」
「はい。ありがとうございます」
「あと、先輩のものと言えば⋯⋯」
花梨は食堂手前の廊下の一角を、少し悲しそうな目で見た。
寄せ書きがびっしりと書かれた横断幕が張られた壁の下に――
メダルやトロフィ、賞状の並ぶショーケースがあった。
「⋯⋯それは、私がやっておく。日渡は処分してくれて構わないと言っていたが⋯⋯さすがに、な」
監督が言った。
「ですよね⋯⋯」
花梨はしんみりと俯いてしまった。
「⋯⋯一部は、大学の講堂に飾ってもらう。残りは岩手の実家に送るつもりだ。いずれ⋯⋯また、見る日もくるだろう」
「そう、ですよね!先輩タフです⋯⋯か、ら⋯⋯」
花梨の言葉の続きは、ふっと目に入った横断幕に消えてしまった。
栞もつられて見ると――
横断幕の日の丸の中心に、豪胆な文字で短いメッセージが大きく書かれていた。
――『待ってろ、五輪!日渡☆大樹』
花梨の瞳がキラッと光った。
「じゃあ、私、そろそろ厨房を手伝いにいくので」
「ああ。ありがとう」
パタパタと足早に花梨は立ち去った。
――あの子、日渡さんのことが好きなのかな。
ごめんなさい。こんな形で、離れることになって。
※※※
監督は段ボールを車に積んで、栞の家まで運んでくれた。
他の選手は寮に見当たらなかった。
この時間は全員トレーニングにでているらしい。
明日の大樹の退院には、西田監督は立ち会えないそうだ。
「明日の早朝から、主力部員達と遠征試合でね」と、申し訳なさそうに言った。
――取り残されていく。
光の中にいた、あの人が。
⋯⋯私のせいで。
その代わり、あなたを決して、一人にはしませんから⋯⋯。
栞は忙しかった。
まず、働き方を調整しないと。
退院の日から数日間、残りの有給休暇を全て使わせてもらう。
それから、栞の会社には、育児や介護のために、在宅ワークや時短勤務ができる制度がある。
それを大樹のために使うには、部長にある程度、説明しないといけない。
⋯⋯だが、さすがに「被害者と同居」なんて、いくら部長でも理解されないだろう。
「示談条件で、身辺のサポートをすることになった」とだけ、伝えた。
「佐野さんは、それで大丈夫なのか?」
「はい。むしろ、そうさせて貰えるのが、私は有り難いです」
栞はきっぱりと言った。
「そう。まあ、困ったことがあれば、いつでも相談に乗るからね」
部長は穏やかな笑顔で言った。
「はい。ありがとうございます」
――なぜだろう。
早川部長に会えなくなるのが、もっとつらいだろうと思っていたのに⋯⋯。
※※※
築五十年以上の小さな一軒家。
栞が母方の祖母から相続し、現在独り暮らしで、これから大樹と住む予定の家だ。
自宅にいる時間は、一階の和室の片付けに追われた。
玄関からすぐのこの部屋は、数年前まで栞の祖母が使っていた。
八畳程の広さに、畳敷き。
足腰が弱った祖母のために、手摺り付きのベッドを入れた。
障子につけたカーテンを開けると、掃き出し窓から縁側の小さな庭に出られる。
祖母が愛した、小さな世界――
小雀が一人で遊んでいる。
栞は大学生の頃から、祖母と二人、この家で暮らしていた。
足と心臓が悪くなってから、認知症の症状も出始め、一人にはできなかった。
学業や仕事と介護の両立は、楽ではなかったけれど――
おばあちゃんの匂い、好きだったな。
栞は畳の上で、祖母の愛用していたカーディガンを手に取って、ほうっとした。
だが、大樹をこの部屋に迎え入れるなら、できるだけ片付けないといけない。
栞はバンダナを額にキュッと締めた。
祖母の残り香のある寝具を一気に剥がす。
それから部屋の隅にある、祖母の嫁入り道具の和箪笥の引き出しを片っ端から開けると、樟脳の匂いが立ち込めた。
懐かしい衣類は全部、ゴミ袋に入れた。
――祖母を看取ってから二年。
ようやく、遺品整理をした。
箪笥の上の写真立て、祖母が愛用していたマフラー⋯⋯。
幾つかは小箱に詰めて、二階の物置部屋に運んだ。
――それから家具量販店で、新しい寝具を注文した。
あの人に、少しでも心地よく過ごして貰えるといい。
※※※
大樹が退院する前日――
栞は西田監督と病院で待ち合わせをし、監督の車で陸上部の寮へと同行した。
車中で監督は、雑談するように栞に話しかけた。
「いやあ⋯⋯最初、日渡から、あなたと暮らすことになったと聞いたときは、お前ら正気か?と思ったよ⋯⋯ハハハ」
「⋯⋯私もそう思います」
「まあ、正論だけじゃどうにもならんこともある――もう一度聞くけど、あなたは本当にそれでいいの?」
「――はい。私にできることがあって、嬉しいです」
栞は一切迷わず答えた。
バックミラー越しに、監督は栞をチラと見た。
「⋯⋯アイツも、それでいい、と同じ顔で言ったよ。それなら私から⋯⋯何も言うことはない」
車は、栞の家と大学のちょうど中間にある寮に着いた。
駐車場に入ると、監督は思い出したように言った。
「⋯⋯そうだ、アレ、持ってきてくれたか?」
「ああ、はい」
栞は事前に、西田監督に何故か『エプロンを持参して欲しい』と言われていた。
「今のうちに、着ておいて」
「?⋯⋯はい」
その理由は、すぐ分かった。
※※※
「監督ぅ、この方は?」
目鼻立ちがはっきりした華やかな女性が、露骨に怪訝そうな顔で栞をじろじろと見ながら、西田監督に聞いた。
「佐野さんだ。日渡は明日の退院後、この方のいる⋯⋯ホームで、しばらくお世話になる」
――ホーム?
「へええ。若そうなのに、そういうお仕事に就くなんて、尊敬~」
「ハハハ。佐野さん、こちらは一年のマネージャーで、管理栄養士見習いの⋯⋯」
「南沢花梨でーす。大樹先輩のこと、ほんとに、ほんとに、よろしくお願いします」
花梨はペコリと頭を下げた。
「こ、こちらこそ」
――ああ。この人が、あのSNSアカウントの。あなたのおかげです。ありがとう。
栞も頭を下げて、心の中で手を合わせた。
「南沢さん、日渡の荷物、まとめておいてくれた?」
「はい。相部屋の健太君も手伝ってくれて。スタッフさん、こっちです」
花梨はエプロン姿の栞のことを、勝手にホームのスタッフだと勘違いしたようだ。
――ああ、そういうことか。
栞は納得した。
花梨に案内された食堂近くの休憩コーナーに、段ボールが二つ、積んであった。
「⋯⋯服とパソコンくらいしか、入ってないんですケド」
「はい。ありがとうございます」
「あと、先輩のものと言えば⋯⋯」
花梨は食堂手前の廊下の一角を、少し悲しそうな目で見た。
寄せ書きがびっしりと書かれた横断幕が張られた壁の下に――
メダルやトロフィ、賞状の並ぶショーケースがあった。
「⋯⋯それは、私がやっておく。日渡は処分してくれて構わないと言っていたが⋯⋯さすがに、な」
監督が言った。
「ですよね⋯⋯」
花梨はしんみりと俯いてしまった。
「⋯⋯一部は、大学の講堂に飾ってもらう。残りは岩手の実家に送るつもりだ。いずれ⋯⋯また、見る日もくるだろう」
「そう、ですよね!先輩タフです⋯⋯か、ら⋯⋯」
花梨の言葉の続きは、ふっと目に入った横断幕に消えてしまった。
栞もつられて見ると――
横断幕の日の丸の中心に、豪胆な文字で短いメッセージが大きく書かれていた。
――『待ってろ、五輪!日渡☆大樹』
花梨の瞳がキラッと光った。
「じゃあ、私、そろそろ厨房を手伝いにいくので」
「ああ。ありがとう」
パタパタと足早に花梨は立ち去った。
――あの子、日渡さんのことが好きなのかな。
ごめんなさい。こんな形で、離れることになって。
※※※
監督は段ボールを車に積んで、栞の家まで運んでくれた。
他の選手は寮に見当たらなかった。
この時間は全員トレーニングにでているらしい。
明日の大樹の退院には、西田監督は立ち会えないそうだ。
「明日の早朝から、主力部員達と遠征試合でね」と、申し訳なさそうに言った。
――取り残されていく。
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