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序章 罪
第5話 契約(2)条件
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「⋯⋯何しに来た?」
――栞の背筋を這うような、低く、冷たい声だった。
「あの⋯⋯、謝罪を⋯⋯したくて⋯⋯。この度は本当に、申し訳――」
「――いらない」
頭を下げながら栞が言いかけると、大樹は静かに唸るように切った。
続けて大樹は、栞の頭を覆うように、強い言葉を重ねて浴びせた。
「あんたの謝罪なんて、俺は、絶対に、受け取らない」
「ハッ。謝罪したって結果は変わらない。加害者が先に進むための、ただの儀式だ」
「いらない。そんなものは」
「俺から全て奪っておいて、先になんて進ませない」
栞はそれでも、声を震わせながら、謝った。
「本当に⋯⋯申し訳ございませんでした」
「黙れ。謝ったところで、俺の右足は戻らない」
「――見ろ、これを」
そう言うと、大樹はひざ掛けの右隅を左手で持って捲った。
その下には、異質な――
パイプと金属とプラスチックでできた足があった。
――栞は言葉を失った。
「こっちの手も、もう、箸も持てない」
続けて大樹は右手を見せた。
痛々しい紫の縫い目が幾つもあった。
「もう走れない。大学は休学。スポーツ奨学生の資格も、五輪の強化選手も、実業団の内定も消えた」
「俺は、もう、何にもなれない。全部あんたのせいだ」
「ご、ごめんなさ――」
「――なのにッ。あんたはそうやって謝って、自分だけ次に進もうとしてる」
「そんな⋯⋯ことは⋯⋯」
――そういう気持ちが自分に「絶対ない」とは、栞は言い切れなかった。
「⋯⋯ほらな」
「で⋯⋯できる限りの、できる限りのことは、させて頂きます。日渡さんが、ご不自由ないように⋯⋯その、」
「フン、金か。あんたんとこの保険屋が先週病院まで来た」
「そ⋯⋯うですか」
「一億五千万だってさ」
「え?」
「俺が、これから稼げるはずだった金。逸失利益っていうヤツ?」
――栞は保険業者から、大樹の逸失利益について、算定の基準をあらかた聞いていた。
大樹は、五輪強化選手と世界的企業のトヨハシ自動車の実業団に内定していた。
五輪候補生には補助金も出るし、トヨハシからは、就職後の企業アンバサダーやCМ契約の打診も内々にあったそうだ。
――支払いは様々な要素が確定してからだが、『最終的に、学生としては異例の高額になるだろう』との説明だった。
「それに、今回の入院費と義足代と、今後の生活費、慰謝料⋯⋯全部で二億くらいには、なるんじゃないの」
大樹は他人事のように言った。
「――そんな金もらっても、俺の足は生えてこない。大体あんたが払う金じゃない」
――栞の頭に一瞬、「でも、それだけあれば⋯⋯」という考えがよぎった。
大樹は見透かしたように、鼻で嗤った。
「ハッ。それとも何か?恵んで貰った金で、二十一の若さで、老人ホームの世話にでもなって、死ぬまで引き籠もれって?」
「そんな⋯⋯こと⋯⋯」
『そんな悲しいことを、言わないで下さい』――栞は自分が言う資格のない言葉を、喉の奥で飲み込んだ。
――私の言葉なんて、この人には何も届かない。無理もないけれど。
どうしたら、どうしたら⋯⋯。
「あと十日くらいで退院だと」
その言葉で、栞の頬に僅かに赤みが差した。
「それは、良か――」
「――何も良くない」
大樹はまた、栞の言葉を切った。
――目が一切笑ってない。
もう一度、すうっと栞の血の気が引く。
「退院したって、俺は、どこにも行けない」
「どうし――」
「大学の陸上部の寮には、しばらく居てもいいと言われた。でも、そんなことはできない」
「こんな身体の俺がいたら、みんな練習に集中できないだろ!?」
「監督も、寮母の奥さんも、ただでさえ忙しいのに、将来の見込みがない一人の学生の世話なんかに、無駄な時間を使っちゃ駄目だ⋯⋯ッ」
金属の膝の上で、傷だらけの右手が震えていた。
「ご、ご実家は――」
「岩手の家族は帰ってこいと言っている。⋯⋯帰れる訳がない」
「上の兄貴夫婦は、病気の親父と牛の世話で手一杯だ。デカい介護対象を、もう増やす訳にはいかないんだよッ」
「二番目の兄貴は、過疎地の教師だ。毎日残業で、休日も休めない。嫁さんも子供もいるのに⋯⋯これ以上は無理だ⋯⋯」
「下の妹はまだ十九だ。高卒で就職して、恋人もいる。俺の世話なんて⋯⋯嫁入り前のアイツにさせられるか⋯⋯っ」
少し語調が弱まった大樹は、全ての葉が落ちた木の先と、空の境目を見つめた。
――優しい人。
この人はこれから、どうするのだろう。
誰がこの人のことを最優先できるだろう。
――西田監督の言葉が浮かんだ。
『今、アイツのことを一番に考えられるのは、あなただろうからね⋯⋯』
――私?
私がこの人にできること⋯⋯。
大樹の今後の人生を思うと、栞は胸が苦しくて、苦しくて⋯⋯もう、刺々しい言葉も、冷たい視線も、気にならなくなった。
私にできることがあれば⋯⋯。
何か、何か⋯⋯。
――栞に向き直って、キッと睨んだ大樹が、急に語気を荒らげる。
「皆ッ!自分の人生があんだよ――ッ!!」
「⋯⋯!」
その言葉に、栞の中で何かが繋がった。
雲が流れ、薄い日差しが中庭に差し込む。
「⋯⋯私には、ありません」
「あ?」
「私には、何もありません。一緒に暮らす家族もいません。恋人も婚約者もいません。夢や目標も。あなたのような才能も⋯⋯」
「だから、あなたのためだけに、私の人生を使えます」
「は?何、言って⋯⋯」
「⋯⋯良かったら、うちに、来て頂けませんか?」
「はァ?」
「幸い、うちは一軒家の独り暮らしです。一階に一部屋空きもあります。古い家ですが⋯⋯少しリフォームしたので、お風呂に手摺りもついてます」
栞はその突拍子もない提案を続けた。
「私に、日渡さんの身の回りのお世話をさせて下さい。介護は慣れていますし、料理も洗濯も買い物も、全て、不自由ないようにしますから」
「⋯⋯無職なのか?」
「出版社に勤めていますが、上司に理解があるので、在宅ワークにしてもらえると思います。それ以外の時間は、全て、あなたのために使えます」
「⋯⋯ああ、俺の保険金目当てか?」
「いえ。お金は一切いただきません。日渡さんの衣食住にかかる費用も、全て私が」
「保険金は百パーセント、ご自分のためにお使い下さい。私は1円足りとも頂けません。そうじゃないと、保険会社に共謀を疑われてしまいます」
「贅沢は、できませんが⋯⋯大した趣味もないので、少しの蓄えもありますし」
栞は何故か、少しはにかんだような微笑を浮かべた。
大樹は怪訝な顔で聞き返した。
「⋯⋯あんた、それ本気で言ってんの?」
「はい」
「被害者と加害者が同居とか――頭おかしいだろ?」
「はい」
「言っとくが、俺はあんたを相当憎んでる。寝てる間に首締めるかもしれないぞ」
「当然です」
大樹は微かに嗤った。
「ハッ⋯⋯いい度胸だな」
栞はまっすぐ大樹を見つめた。
真剣な眼差し――。
それがその場しのぎの提案ではないことだけは、この凍てついた心の青年にも伝わった。
「⋯⋯いいだろう。それが、書類には書かれない、俺達の間だけの――示談条件だ」
栞はもう一度、深々と頭を下げた。
――栞の背筋を這うような、低く、冷たい声だった。
「あの⋯⋯、謝罪を⋯⋯したくて⋯⋯。この度は本当に、申し訳――」
「――いらない」
頭を下げながら栞が言いかけると、大樹は静かに唸るように切った。
続けて大樹は、栞の頭を覆うように、強い言葉を重ねて浴びせた。
「あんたの謝罪なんて、俺は、絶対に、受け取らない」
「ハッ。謝罪したって結果は変わらない。加害者が先に進むための、ただの儀式だ」
「いらない。そんなものは」
「俺から全て奪っておいて、先になんて進ませない」
栞はそれでも、声を震わせながら、謝った。
「本当に⋯⋯申し訳ございませんでした」
「黙れ。謝ったところで、俺の右足は戻らない」
「――見ろ、これを」
そう言うと、大樹はひざ掛けの右隅を左手で持って捲った。
その下には、異質な――
パイプと金属とプラスチックでできた足があった。
――栞は言葉を失った。
「こっちの手も、もう、箸も持てない」
続けて大樹は右手を見せた。
痛々しい紫の縫い目が幾つもあった。
「もう走れない。大学は休学。スポーツ奨学生の資格も、五輪の強化選手も、実業団の内定も消えた」
「俺は、もう、何にもなれない。全部あんたのせいだ」
「ご、ごめんなさ――」
「――なのにッ。あんたはそうやって謝って、自分だけ次に進もうとしてる」
「そんな⋯⋯ことは⋯⋯」
――そういう気持ちが自分に「絶対ない」とは、栞は言い切れなかった。
「⋯⋯ほらな」
「で⋯⋯できる限りの、できる限りのことは、させて頂きます。日渡さんが、ご不自由ないように⋯⋯その、」
「フン、金か。あんたんとこの保険屋が先週病院まで来た」
「そ⋯⋯うですか」
「一億五千万だってさ」
「え?」
「俺が、これから稼げるはずだった金。逸失利益っていうヤツ?」
――栞は保険業者から、大樹の逸失利益について、算定の基準をあらかた聞いていた。
大樹は、五輪強化選手と世界的企業のトヨハシ自動車の実業団に内定していた。
五輪候補生には補助金も出るし、トヨハシからは、就職後の企業アンバサダーやCМ契約の打診も内々にあったそうだ。
――支払いは様々な要素が確定してからだが、『最終的に、学生としては異例の高額になるだろう』との説明だった。
「それに、今回の入院費と義足代と、今後の生活費、慰謝料⋯⋯全部で二億くらいには、なるんじゃないの」
大樹は他人事のように言った。
「――そんな金もらっても、俺の足は生えてこない。大体あんたが払う金じゃない」
――栞の頭に一瞬、「でも、それだけあれば⋯⋯」という考えがよぎった。
大樹は見透かしたように、鼻で嗤った。
「ハッ。それとも何か?恵んで貰った金で、二十一の若さで、老人ホームの世話にでもなって、死ぬまで引き籠もれって?」
「そんな⋯⋯こと⋯⋯」
『そんな悲しいことを、言わないで下さい』――栞は自分が言う資格のない言葉を、喉の奥で飲み込んだ。
――私の言葉なんて、この人には何も届かない。無理もないけれど。
どうしたら、どうしたら⋯⋯。
「あと十日くらいで退院だと」
その言葉で、栞の頬に僅かに赤みが差した。
「それは、良か――」
「――何も良くない」
大樹はまた、栞の言葉を切った。
――目が一切笑ってない。
もう一度、すうっと栞の血の気が引く。
「退院したって、俺は、どこにも行けない」
「どうし――」
「大学の陸上部の寮には、しばらく居てもいいと言われた。でも、そんなことはできない」
「こんな身体の俺がいたら、みんな練習に集中できないだろ!?」
「監督も、寮母の奥さんも、ただでさえ忙しいのに、将来の見込みがない一人の学生の世話なんかに、無駄な時間を使っちゃ駄目だ⋯⋯ッ」
金属の膝の上で、傷だらけの右手が震えていた。
「ご、ご実家は――」
「岩手の家族は帰ってこいと言っている。⋯⋯帰れる訳がない」
「上の兄貴夫婦は、病気の親父と牛の世話で手一杯だ。デカい介護対象を、もう増やす訳にはいかないんだよッ」
「二番目の兄貴は、過疎地の教師だ。毎日残業で、休日も休めない。嫁さんも子供もいるのに⋯⋯これ以上は無理だ⋯⋯」
「下の妹はまだ十九だ。高卒で就職して、恋人もいる。俺の世話なんて⋯⋯嫁入り前のアイツにさせられるか⋯⋯っ」
少し語調が弱まった大樹は、全ての葉が落ちた木の先と、空の境目を見つめた。
――優しい人。
この人はこれから、どうするのだろう。
誰がこの人のことを最優先できるだろう。
――西田監督の言葉が浮かんだ。
『今、アイツのことを一番に考えられるのは、あなただろうからね⋯⋯』
――私?
私がこの人にできること⋯⋯。
大樹の今後の人生を思うと、栞は胸が苦しくて、苦しくて⋯⋯もう、刺々しい言葉も、冷たい視線も、気にならなくなった。
私にできることがあれば⋯⋯。
何か、何か⋯⋯。
――栞に向き直って、キッと睨んだ大樹が、急に語気を荒らげる。
「皆ッ!自分の人生があんだよ――ッ!!」
「⋯⋯!」
その言葉に、栞の中で何かが繋がった。
雲が流れ、薄い日差しが中庭に差し込む。
「⋯⋯私には、ありません」
「あ?」
「私には、何もありません。一緒に暮らす家族もいません。恋人も婚約者もいません。夢や目標も。あなたのような才能も⋯⋯」
「だから、あなたのためだけに、私の人生を使えます」
「は?何、言って⋯⋯」
「⋯⋯良かったら、うちに、来て頂けませんか?」
「はァ?」
「幸い、うちは一軒家の独り暮らしです。一階に一部屋空きもあります。古い家ですが⋯⋯少しリフォームしたので、お風呂に手摺りもついてます」
栞はその突拍子もない提案を続けた。
「私に、日渡さんの身の回りのお世話をさせて下さい。介護は慣れていますし、料理も洗濯も買い物も、全て、不自由ないようにしますから」
「⋯⋯無職なのか?」
「出版社に勤めていますが、上司に理解があるので、在宅ワークにしてもらえると思います。それ以外の時間は、全て、あなたのために使えます」
「⋯⋯ああ、俺の保険金目当てか?」
「いえ。お金は一切いただきません。日渡さんの衣食住にかかる費用も、全て私が」
「保険金は百パーセント、ご自分のためにお使い下さい。私は1円足りとも頂けません。そうじゃないと、保険会社に共謀を疑われてしまいます」
「贅沢は、できませんが⋯⋯大した趣味もないので、少しの蓄えもありますし」
栞は何故か、少しはにかんだような微笑を浮かべた。
大樹は怪訝な顔で聞き返した。
「⋯⋯あんた、それ本気で言ってんの?」
「はい」
「被害者と加害者が同居とか――頭おかしいだろ?」
「はい」
「言っとくが、俺はあんたを相当憎んでる。寝てる間に首締めるかもしれないぞ」
「当然です」
大樹は微かに嗤った。
「ハッ⋯⋯いい度胸だな」
栞はまっすぐ大樹を見つめた。
真剣な眼差し――。
それがその場しのぎの提案ではないことだけは、この凍てついた心の青年にも伝わった。
「⋯⋯いいだろう。それが、書類には書かれない、俺達の間だけの――示談条件だ」
栞はもう一度、深々と頭を下げた。
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