贖罪

鈴樹

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序章 罪

第4話 契約(1)邂逅

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季節はもう晩秋だった。
夏の終わりのあの日から、三ヶ月近く経とうとしている。

栞は西田監督に手紙を託してからも、ほぼ毎日、仕事の帰りに病院に立ち寄った。

だが、もう誰かを待つわけでもなく、ただ、その前を通るだけだ。

フェンス越しに、入院病棟を見上げる。

どの窓ともわからないが、日渡大樹という青年が、一人、苦しみと戦っている。

自己満足かもしれない。
それでも、栞はそれを肌で、少しでも感じていたかった。

――休日の今日も、病院近くの百貨店に来ていた。

世話になっている絵本作家の五〇周年祝の品を探して欲しいと、部長に頼まれた。
このところ散々迷惑をかけたから、お安い御用だ。

贈り物はその場で発送してもらい、デパ地下の銘店街に立ち寄る。

――この包装紙は。

以前、西田監督が用意した見舞いの菓子折りと同じだ。この店のものなら、日渡さんの口に合うかもしれない。

なんとなく、日持ちのする焼き菓子セットを買ってみた。

⋯⋯どうせ渡せないだろう。

でも、万が一の可能性もある。駄目なら職場で分ければいい。

 ※※※ 

「日渡さん。仮義足の感じ、どうでしょう。キツかったり、緩かったりしませんか?」

他院から出張してやってきた専門の義肢装具士が、大樹に義足の試装を行っていた。

「⋯⋯大丈夫だと思います」

「そうですか。では、今日はまず、これをつけて、数時間、過ごしてみましょうか」

「歩いたりは⋯⋯?」

「今日の結果、断端が腫れたりしなければ、明日から、少しずつですね。微調整しながら、退院までに義足を整えます」

「わかりました」

「じゃあ、今日は義足をつけたまま、車椅子に乗って、院内で過ごして下さいね」

「⋯⋯庭に行っても?」

大樹はいつも病室の窓からぼんやり眺めていた中庭で過ごすのも悪くないと思った。

これから寒さが厳しくなるが、今ならまだ、空気の冷たさも心地よいだろう。

「敷地内なら大丈夫ですよ。看護師さんを呼びましょうか?」

「⋯⋯はい」

 ※※※ 

病院前の歩道を、栞は中の様子をちらちらと窺いながら歩いていた。

夜に通る時と印象が違う。
空気は冷たいが、日差しがあるだけで、優しく感じる。

駐車場の脇に、通用門のようなアーチがあるのに気がついた。
そこから、犬の散歩中の近隣住民らしき人が、すっと出てくる。

――そういえば、この病院には中庭がある。

祖母が入院中、病室の窓から見たことがある。

誰でも出入りでき、近所の人達と入院患者との交流スペースにもなっている。

おばあちゃんも、小さな子が走り回るのを、病室から目を細めて見てたっけ。

栞は誘われるように、アーチをくぐった。

 ※※※ 

落ち葉が舞う、病院の中庭――

栞は恐る恐る足を踏み入れ、庭を回遊する遊歩道を歩いた。

散歩中の親子、患者に付き添う看護師、家族と面会する老人⋯⋯などの声が、楽しげに聞こえてきた。

その中で、ひっそりと静まり返った奥のベンチ付近の人影に、栞は一瞬で目を惹かれた。

――車椅子の青年の背中。

青年は、ぼんやりと空を眺めていた。

ひざ掛けをして、上着をパジャマの上から羽織っている。
紺地に水色のラインがあるジャージだ。

少し茶色がかって、やや伸びた短髪。
横顔からもわかる、整った顔立ち。

しっかりした顎、高い鼻梁からすっと通った鼻筋、まっすぐ一直線の眉。

――あの人だ。

栞の脳裏に、ネットで見たスポーツニュースの写真が浮かんだ。

――豹のように疾走する、青年の横顔を捉えた一枚。

栞は息を呑んだ。

紙袋を持つ手が、少し震える。
数回深呼吸して、そっと近づいた。

青年の左後方から、声をかける。

「⋯⋯あの、」

青年は、小さく顔をこちらに傾け、あとは視線だけ動かした。

「日渡⋯⋯大樹さん、ですよね?」

「⋯⋯ああ、まあ⋯⋯」

その名で間違いないはずの青年は、生気のない目で、関心なさそうに応えた。

青年の視線が泳ぎ、栞が手に持つ百貨店の紙袋に止まる。

彼の表情が、ふっと和らいだ。

「もしかして、陸上ファンの方ですか?」

柔らかな微笑み――

栞は喉の奥で、小さく生唾を飲み込んだ。
想定外の笑顔を向けられて、狼狽しながら言葉を探す。

「⋯⋯え、と⋯⋯」

咄嗟に思いついた言葉は、全部、不正解のように思えた。
呼吸をするだけで精一杯で、それ以上、声帯が動かない。

だが、落ち葉が彼の足先をかすめると、青年の優しい笑みは一瞬でかき消えた。

「ニュース、見たんでしょ。すみませんね、こんなことになって」

視線を落とし、伏し目がちに言う。

その声は、淀んだ沼の底から聞こえるように、暗く、深く、くぐもっていた。

「五輪の強化選手も外されたし⋯⋯もう、ご期待には応えられそうにないんで⋯⋯ほっといてもらえませんか」

自嘲気味に嗤って、青年は目を閉じた。

「あ、あの、ファンではなく⋯⋯」

「じゃあ、報道関係?」

再び薄っすらと目を開けた青年の眉根がぎゅっと寄って、不信感が露わになった。

「ちが⋯⋯、さ⋯⋯佐野です」

「⋯⋯?」

「佐野⋯⋯栞、です」

 ※※※ 

「さの⋯⋯?どこかで⋯⋯」

――大樹の脳裏に、封筒がよぎった。

目の前の人物が持つのと同じ紙袋の底から出てきた、あの封筒だ。

差出人欄には『佐野栞』の文字。

ペン習字みたいに澄ました筆跡の――
『お詫び』で始まる、あの忌々しい謝罪の手紙。

俺の人生を滅茶苦茶にした張本人。

あの ”佐野栞”が、今、目の前に――

「⋯⋯ああ⋯⋯、⋯⋯ッ⋯⋯」

ぎゅっと結ばれた大樹の口角の端が、一瞬ぴくりと歪んだ。

木枯らしが駆け抜け、空気が一気に冷え込む。

「あんたが⋯⋯」

先程と打って変わって、その声は低く掠れ、狼の唸りのようだった。

大樹はゆっくりと顔を上げた。

栞を鋭く睨み据えたその瞳には――

身体の芯から凍りつくほど、冷ややかで寒々しい、青白い炎が宿っていた。

全てを拒絶するかのように。
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