春雷とアンドロメダ

立夏

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劫火の修羅

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 遠間の邸を出て、大学に向かいながら今日の献立を考える。
 かぼちゃの残りを潰してサラダにしよう。
 メインはアジのフライ。白ご飯と、ほうれん草のおひたし。味噌汁の具はえのきがあった。
 帰りがけに商店街の魚屋によってから、スーパーで少し買い足せば十分だ。
 一日の講義が終わるのは案外あっという間で、遠間邸に戻ってから簡単に夕食を作った。そうこうしている間に春久が時間差で「ただいま」と帰ってくる。台所に来るなり、私の肩口からわざとらしく毎回覗き込んでいくのは止めてほしい。思わず身構えていると、「なんだ? 面白い反応だな」とからから笑われた。
「邪魔しないで。いいから座ってて」
「へえ。―――悪くないな」
「何が?」
 話の噛み合わなさを尋ねたところで教えてもらえない。

 夕飯を春久と一緒に取った後(毎度のように話をすれば何かしらからかわれるのはもうこの際おいておく)、晴れた星空を縁側の隙間から眺める。やっぱり綺麗だ。そうやってなんとなく時間を潰していたら、先に庭に出ていたらしい春久から、「きみも来るか?」と尋ねられた。
「何に?」
「散歩」
 春久は、夕食後の庭の散歩が習慣のようだった。特に拒絶する理由も断るつもりも無かったけれど、私が返事をする前から、春久は私の手を引いて、庭へ連れ出す。もういい加減そういう勝手さには慣れつつあるので、場合によっては目くじらを立てる気にならないこともある。
「今日は異形の管理はしないの」
「しないな。界が混ざる気配がない」
「気配、ってどんなもの?」
「俺は音が鳴るように聞こえるが。きみは聞こえないのか?」
「聞こえないわ」
「異形は見えても、界の状況は分からず、他人にしろ自分にしろ霊力を測れない上に、自分の状態に極めて疎い。そのくせ羽々斬を一応とはいえ「成せる」、か。―――つくづく妙なバランスだな」
「……そう言われても、私にはよく分からないけど」
 見えるものは見えるし、見えないものは当然見えない。
「普通もう少し一貫性があるものなんだがな」
 月が出ているから、今日はあまり暗くない。
 相変わらず繋がれている指先を、とにかく意識しないようにする。話をしているときは良いけれど、会話が無いときはふと現実に戻ってしまうから、心が落ち着かなくなってしまう。

 夜空や、夜の遠間邸の景観を見つつ散策をしていると、春久は気まぐれに、つらつらと軽やかに知識を述べてくれる。
「人の体は極めて脆いが、霊力を保持する人間の体内では、霊力がその脆さを補うように働いている。きみ、これまであまり風邪を引いたことはないだろ?」
「そうね。数えるほどもないわ」
「俺やきみが風邪をひきにくいのはそれゆえだ。東野ではそうでもなかったかもしれないが、遠間であれば、怪我をしても通常では考えにくい速度で傷が癒える。それは霊力が人の「脆さ」を補うからであって、遠間の土地がその効果を「増加」させるからだ。―――ならば、霊力はどこに宿るのが最も便利だろうな?」
 急に聞かれて目を瞬かせてしまう。
「鳩が豆鉄砲、とでも言いたげだぜ。いままでの前置きをよく聞いてなかったか?」
 からかうように笑われてむっとする。
「聞いてたわよ、聞かれると思ってなかっただけ!」
「そうかい。まあヒントをやろうか。霊力は、実態として体の隅から隅に適応する。それにあたって、最も融通が利く器官は?」
「心臓?」
「当たりだ」
「流石に簡単すぎるわ。ばかにしてるの?」
「くく、さあな。―――霊力は心臓に宿り、血液と共に体内を循環すると言われる。末端から中心まで、人の血肉の隅々に浸みこむようにして力と成る。異形がきみを喰おうとするのは、きみの体の全てに霊力が満ちていて、それを喰えば明確に「力」になるからだ。本能的に知ってるか、擦りこまれてるんだと思うぜ。例外なく異形は「敵」だ。なかでもとりわけ、心臓を狙うのはそこが一番『濃い』せいだな」

 嫌な想像をしてしまい、体が一瞬ぶる、と震えそうになるのを無理矢理押しとどめる。あたりが暗いことと、春久は少し前を歩いているので、表情を歪ませてしまったのは気付かれずにすんだと思う。
 春久にこうやって直接教えてもらうのは、やはり格段に分かりやすかった。

「霊力の循環についてはこういう具合だ。結界のことは縣から聞いたか?」
「いえ、特に聞いてないわ」
「なら続けるか。この家と、遠間の領域全体には、俺の霊力を元にした呪術結界を張っている」
「あ、あなたが? 領域全体って、随分広いんじゃないの」
 改めて思いいたるが、春久の名字の「遠間」とは地名性なのだろう。この家や、私の大学等がある地域はすべて遠間市に含まれている。
「それなりの規模はあるな。一角に比べれば俺が管理する領域は小さいが、遠間市まるごと一つが対象になる」
 思わず目を丸くした。
「それだけの規模のものを、維持するの? 毎日休みなく?」
「きみ、本当に驚いたときに分かりやすく表情に出るんだな。慣れればそう大したことじゃない」
 全然想像ができないし、納得できない。呪術はそんなに簡単なものではないと、なんとなくわかり始めているから余計に驚いてしまう。
 他に比較のしようがないから、どうしても基準は私になるけれど、つい先ほど霊力については「なってない」と言われたばかりで、「呪術は一切を使用禁止」と言い渡されている。

「家の結界と、領域全体の結界は効果が全く異なる。
 家の結界は異形避けのためのものだ。さっき言ったように、霊力が高い人間は、異形にとって餌も同然。高い霊力を欲し、自らの血肉とすることは、異形の本能に紐付けられている。ゆえに、きみも俺も、異形の「対象」として確実に狙われる。
 界が「歪む」時刻が深夜帯にかかることも考えれば、何の対策もなしにはおちおち寝られもしない。異形から自分自身の安全を確保するために、うちの結界はある。―――が、遠間の領域全体に張るのは、異形寄せと抑制の二重結界だ」

「結界で異形を抑制するのは、なんとなく分かるわ。でも、「寄せる」の? あなたは私が異形寄せになるのが、都合が悪いと言ったわよね」

 本当に一番初めに会ったときに「俺の仕事を増やしたな?」と冷ややかに見下ろしてきた金色の視線をいまだに覚えている。

「きみの場合は、寄せるを超えてたからな。寄せるというより、むやみやたらと「作る」に近かった。あれは多すぎだ。いくら異形が重なったところで、あの程度であれば烏合の衆ではあるが」
 獅子の異形の大群を呆気なく掃討した春久の姿を思いだすと確かに納得した。どれだけ数がいたところで、個々が弱ければ春久にとって敵ではないのだろう。 

 春の夜に柔らかい風がさあ、と吹く。
 一昨日とは違う道を散策しているらしく、植わっている植物が異なるせいか景観が真新しく感じる。庭の中を流れる川にかかる橋を渡ると、川の先の池で水面に月が映っている。風が水の表面を揺らし、陰りゆく月を波立たせた。
 欄干に春久が凭れかかり、下弦の月を仰ぎ見る。

「以前、縣から「界」については簡単に聞いたんだろ? 復習ついでだが、仮に空間を「世界」と定義すると、本当はいくつあるのかはさておき、とにかくあると仮定して困らないのは二つだ。
 山のように無数に重なっているとも、本当はひとつもないと極論を言う奴も色々いるがな。
 二つのうちの一つは、一般に「事象界」と呼ばれる物質の界。一般的な人間が見ている界はここにあたるだ。視覚情報頼みと言っていい。
 一方、俺や、きみが見ているのは、この「事象界」と、通常見えざる界―――「不可視界」が重なって、歪んだ結果である「異形」だ。「不可視界」そのものは見ていない。
 「不可視界」を覗き見た人間の記録は無く、「異形」の正体はあいまいだ。異形も霊力も、結局は人の怨嗟の集合だなんて言う説もある。あまりこれは主流じゃない。
 全く事象界に根本的に由来しない「不可視界」の力が、界を違えて事象界側に紛れ込んだことをきっかけに、「魂無く歪んだ何か」を生成してしまった。これを異形とする説が有力だ」

 魂のない何か、と言われてすんなり腑に落ちる。
 異形を斬ったときに、いつもそれらは黒い砂状の靄になって、最初からそこに存在したことなど一度もない、とばかりに崩れ去る。とても生き物には思えないのだ。

「異形のことは、それ以上は分からないのね」
「分かりようがない、と言えるだろうな。糸口が無い。分かれば多少、手段も変わるだろうが、その点が進まない以上は現状維持に努めるより他ない」
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