春雷とアンドロメダ

立夏

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劫火の修羅

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 まただ、と意識の奥で思った。怖いと本能がけたたましく警告する。
 来る。修羅が来る。修羅が音を立ててくる! 怖い!
 真っ暗闇の地面に、突然ぼうっと音を立てて炎が地面を滑るように燃えひろがる。足跡のように楕円形に紅蓮の炎が滑って行く。ぼう、ぼう、ぼう、と徐々に感覚を短くして私に迫ってくる。いつもと少し様子が違う。夜空をやきつくす程の炎は無い。明るさの一切が無い。
 ――暗い。暗くて、炎は一切闇を照らさない。
(―――!)
 名前を呼んだ。声が響かない。思わず喉を押さえる。懸命に叫ぶのにまるで音にならない。
 教えられた私の刀の名前を、繰り返し呼ぼうとするのに音にならない。
 羽々斬! 羽々斬、ここにきて! ―――お願いだから!
 炎が地面を滑り、眼前に迫る!

「ほたる!」
 金色。
「っ、!? ぃ、った、――は、ぁっ……」
 目を開けると、切羽詰まった様子の金色の光と目が合った。覚醒した瞬間に、痛みを覚える。春久に肩を強く掴まれていたせいだ。痛みに呻いてしまう。
 痛めつけたかったわけではないのか、春久が肩から手を離す。
 幾度目かの夢だった。春久の声が私の世界に、真っ直ぐ矢のように飛んでくる。もう何度も、その声に私は真っ暗な劫火の夢から呼び戻されていた。
 眠ることが怖いようで、怖くないのはこの声がそばにあるからだろう。
「ぁ、……ごめん、なさ……い」
「きみが謝る? 明日は血の雨でも降るかもな」
 いつもなら文句を言うところだけれど気にする余裕がない。心臓が音を立てている。夢に引き摺られている。目をつぶって、ふ、と息を吐いて恐怖を追い出す。
 夢を見るたびに、恐らく春久を起こしている。この一週間、たぶんまとまった睡眠をとれていないはずだ。ろくに眠れていないんじゃないだろうか。
 現実逃避の、とぼけた心配が脳裏に浮かび、そのまま口にしてしまう。
「はる、ひさ……ちゃんと、寝てるの?」
 不愉快そうに金色が途端に顰められる。
「は? なんだ突然? きみに心配されるような真似をする半人前だとでもいいたいのか?」
「ちが……う、ごめん、なさい、何でもない……」
「無駄に謝るな。―――それよりほたる、羽々斬は呼べないか」
「声、がでなく、て。……夢の中で、音にならないの」
 でも、もう少しのような気がする。初めは羽々斬のことさえ思い出せなかったけれど、今日は少なくともあの夢のなかで私は、羽々斬を呼ぼうと思考できていた。
「――あとすこし、なのに……」
 は、と大きく息をついて手の平で目元を覆った。呼吸が苦しかった。冷汗がべたついている。呼吸が落ちつかない。
 羽々斬。私の刀。
 どうしたら手が届くのだろう。悔しくてもどかしい。
「羽々斬を呼べたら、斬れるのに」
 そうしたら少しはあの恐怖に勝てる気がする。
 いつまでもこんな恐怖におびえていたくなかった。
「どうみても怖がっているくせに、虚勢だけは一人前だ。―――少し調整する」
「え、」
 両頬に手を添えられ、指先が耳をかすめて私の後頭部に回る。体重をかけすぎないように春久が私の上で屈みこむ。柔らかく唇を食まれる。触れあった場所から、光みたいな春久の力がながれこんでくる。
 ちゅう、と口づけられて、角度を変えられる。ゆっくりとした口づけ。痛くて苦しくて、落ちつかなかった呼吸がおさまっていくのに、体は妙な熱を持っていく。
 は、と思わず零した自分の吐息が、思った以上に熱くて、くすりと金色の目が笑う。
「続きをお望みかい」
 反抗が飲み込まれる。
「は、……? はる、ひさ?」
「きみが強情で、跳ねっ返りで、怖いくせに強がるから―――触れてみたくなった」

**

 踏み込んだ刃と同じ向きに逃げても、距離を詰められるだけで意味が無い。
 軌道を違えずに読み切っていた春久は、必要最低限、体の軸をわずかにずらす。動いたのは歩幅の一歩にも満たない距離。上体だけ器用にずらしたかと思えば、そのまま、ぐ、と強く踏み込み勢いをつけて懐に入る。
 死角を突く動きに気付いたときには遅い。
 私がそもそも踏み込んだ勢いと、春久が向かってくる速さ――アクセルを踏み込んだ車が正面衝突する想像が適当だろう―――互いに加速するなかでぶつかり合えば、自分ひとりの力よりも当然衝撃は大きい。
「――っいっ!! ぁああっ!」
「学習しないな。馬鹿」
「っ…~~~…!!」
 手首を捻られて刀を落とし、肩を極められて地面にたたきつけられ、行動不能にさせられる。わずかでも動けば腕が外れる。下半身を体で押さえつけられ、春久の右手が後ろ首にかかっている。
「人間の首を力で折るのはそこそこ骨だが、呪術を使えば簡単だ。この状態から叢雲を呼べば容易い。背後を取られるなと言ってるだろう。まだ見えてないな、ほたる」
「集中できてないな。止めだ。その様じゃ、今日は何をしたところで無意味だ」
 誰のせいよ、と言いたくなるのを堪える。
「っ……悪かった、わね」
「謝る前にその様をなんとかしろ」
 反論のしようもなく、もっともだった。
 基礎稽古に戻り、竹刀を素振りするが、雑念が消えない。思わずうずくまってしまい、顔を隠す。
「はあ……」
 なんなの。あなたのせいよ、と言いたくなるのに、そう言えば確実にからかわれるか、「だからなんだ?」と言われるのか、「それとこれと切り離せないのか?」と馬鹿にされるか、とにかくいろんなパターンが想像できて、そのどれもが在りそうだった。

 どうして、私は、明確に拒絶しなかったのだろう。
 口づけられて、見つめられて、抱き締められて、抱かれることをなんで厭わなかった?
 耳の奥から、あの甘い声が消えない。
(半分は調整だ)
 じゃあ、残り半分は何なの。そう言おうとしたところで、ものの見事に口をふさがれたし、熱くて、どうしようもなくて、甘くて、苦しかった。
 触れていく手のひらの一々が耐えられそうになかった。ぎゅう、と強く抱きしめられてその指先の感触さえわかって、私以上に私のことを知っているとばかりに体の奥を掌握されていた。ぐ、とあつくておおきくて、すこし痛いくせに、それだけじゃないような、快楽が背を走ると理性が言うことを利かなくなる。名前を呼ばれるたびに、髪を梳かれるたびにぴくりと内側が反応して、春久が笑った。むせかえるような湿気よりも、苛まれる熱のほうが熱くてこわくて、ほしくて。
(調整、しなくていい、っていったくせに)
(そうだな。俺がきみに触れたいだけだ)
 真っ直ぐに見つめられてどうしようもなく、心を動かされていた。
 綺麗な色をした神鳴りの色だ。

(ほたる)

 昨日の夜が幻だったみたいに、私に稽古をつけた春久はいつものように喰えない男で、からからと笑いながら私をおちょくって、好きなように食事の注文をつける。
 ふるふると頭を振って、記憶を追いやる。思い出したら生きていける気がしない。
 春久のことを考えると、まともでいられる気がしない。
 最初はあまりにも苛立つから考えたくなかった。いまは苛立つというよりも、苛立ちじゃない何かにのまれてしまいそうだから考えたくない。顔が赤くなる気がする。
「はあ……」
 もう何なの。だめだ。鍛錬は全然集中できない。蔵書を読み進めるのも全然捗らない。料理は作ってしまってすることがなく、洗濯も掃除も庭の手入れも縣が完璧にやっている。
 仕方なくお菓子を作ることにした。この家には宝の持ち腐れとばかりに、様々な調理道具がある。ダージリンを僅かにまぜた紅茶のクッキーにしよう。随分前だけど、従妹にあげたら評判がよかったし、結構おいしく出来た。材料的にも適当だ。
 けれどお菓子を作ったところで、雑念が払えるとは全然思えない。
 何をしても駄目なのは、私が一番よく分かっていた。
 あの月夜の晩に出会ってから、私は春久に振りまわされっぱなしだ。
 拒絶しておけばよかった? ―――できる気がしなかったから、こうなったのに?
 いっそ「いますぐ調整しないと死ぬぜ」っていつものように、むかつくぐらい上から言ってくれればよかったのに。
 そしたらきっと、こんなの何でもないことだって割りきれた。
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