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第ニ章:氷の騎士と解釈違いの英雄
020 簡単な確認
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セレスティアのその声は、張り詰めていた部屋の空気を、まるで上質な絹でそっと撫でるかのように、優しく弛緩させた。
それは、恋人を叱るような甘い響きを含みながら、同時に、目の前で起きた全ての惨状を瞬時に理解し、受け入れ、そしてその上でなお、夫を愛おしむという、絶対的な肯定の響きを持っていた。
「セレス…ティア…」
ガイルの唇から、掠れた声が漏れる。拳を握りしめたまま凍りついていた彼の身体から、強張りが解けていく。
一方、床にへたり込んだままだったリゼットは、目の前で繰り広げられる光景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
血の匂い。壁に飛び散った漆喰の染み。床に転がる、意識を失った外交官。そして、その全てを引き起こした張本人であるはずの男を、まるで悪戯をした子供を諭すかのように、慈愛に満ちた瞳で見つめる、美しき魔術師。
理解が、追いつかなかった。
この男は、使節団の一員として、決して許されない暴挙に及んだのだ。外交問題に発展しかねない、致命的な過ちを。だというのに、セレスティア様は、なぜ…。
「あらあら、リゼット様も、そんなところに座り込んでしまって。床は冷えますわよ」
セレスティアは、ガイルに向けたものとはまた違う、慈しむような微笑みを浮かべると、リゼットの傍らに静かに屈み込んだ。そして、何も言わず、その華奢な肩を、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと抱き寄せる。
ふわりと、ラベンダーの香油と、彼女自身の甘い体香が、リゼットの鼻腔をくすぐった。その温もりに、リゼットの凍てついていた身体が、意思とは関係なく微かに震える。
「さあ、まずは落ち着いて、深呼吸を。大丈夫ですわ。わたくしがおりますから」
その声は、幼い頃、熱を出して魘された夜に、母が歌ってくれた子守唄のように、優しく、そして抗いがたい力で、リゼットのささくれだった心を鎮めていく。
張り詰めていた何かが、ぷつり、と音を立てて切れた。
リゼットの瞳から、こらえきれなかった涙が、ぽろり、ぽろりと零れ落ちる。それは、怒りでも、屈辱でもない。ただ、どうしようもない無力感と、安堵が入り混じった、子供のような涙だった。
「セレス…ティア、さま…わたしは…わたしは…もう…」
「ええ、ええ。分かっておりますわ。よく、耐えましたわね。本当に、強い方です、あなたは」
セレスティアは、嗚咽を漏らすリゼットの背中を、優しく、何度も何度も撫で続けた。
その光景を背に、ガイルは動いた。
セレスティアがリゼットの心を癒している間に、自分がやるべきことをやる。二人の間に、言葉は必要なかった。
彼は床に伸びているゲルハルトの襟首を掴むと、まるで荷物のように軽々と引きずり、リゼットの視界から完全に外れる部屋の隅の暗がりへと運んだ。ドサリ、と肉の塊が床に落ちる鈍い音が響く。
「ご主人様…」
セレスティアが、リゼットを抱きしめたまま、憂いを帯びた瞳で夫を見上げた。その視線が、雄弁に語っていた。――壁の向こうには、耳がある。時間は、ないと。
ガイルは無言で頷くと、床に転がっていたゲルハルトの頬を、一切の躊躇なく平手で打ち据えた。
――パンッ!
乾いた破裂音が、静かな部屋に響き渡る。
「――んぐっ!? な、何を…!」
意識を取り戻したゲルハルトが、状況も理解できぬまま虚勢を張る。だが、ガイルは意にも介さず、その肥満した身体の胸ぐらを鷲掴みにすると、その巨体をいとも容易く持ち上げ、背後の壁に叩きつけた。
「ぐぼっ…!」
背中を強打した衝撃と、喉を圧迫される苦しさで、ゲルハルトの口から情けない悲鳴が漏れる。
「よく聞け。俺たちには時間がない」
ガイルの声は、地の底から響くように、低く、静かだった。
「隣の部屋の住人も、あんたの無様な悲鳴を早く聞きたがってるかもしれんからな」
彼は、恐怖に引き攣るゲルハルトの顔を、至近距離から覗き込んだ。その瞳には、感情という光が一切宿っていなかった。
「まずは簡単な確認だ」
ガイルは、先程までゲルハルトが浮かべていたような、ねっとりとした笑みを唇に貼りつかせた。だが、その瞳だけは一切笑っていない。
「さあ、答えろ。これは質問じゃない。――確認だ」
その、あまりにも直接的な皮肉と侮辱に、ゲルハルトの顔から血の気が引いた。自分がリゼットに行った非道な行いを、この男は、これから自分自身に行うのだと、本能が警鐘を鳴らす。
「ひっ…な、何を…」
ゲルハルトが何かを言いかけたのを、ガイルは冷たく遮った。
「俺たちの目的は、一つだけだ。この国に巣食うネクロマンサーを、叩き潰すこと」
ガイルは、胸ぐらを掴む手に、ギリ、とさらに力を込める。ミシミシと、ゲルハルトの着込んだ上等な絹の服が悲鳴を上げた。
「あんたが、俺たちの確認に、素直に、正直に、全部答えないなら……」
彼は、そこで一度言葉を切り、ゲルハルトの耳元に、悪魔のように囁きかけた。
「あんたは今後、外交問題なんてものを、一切心配する必要がなくなるかもしれないな」
その言葉の裏に隠された、あまりにも直接的な殺意。ゲルハルトの全身が、恐怖でわなわなと震え始める。虚勢も、外交官としての矜持も、絶対的な死の予感の前には、あまりにも無力だった。
「わ、わかった…! わかったから、やめてくれ…! な、何でも話す! だから、命だけは…!」
「いい子だ」
ガイルは満足げに頷くと、掴んでいた手を離した。支えを失ったゲルハルトは、ずりずりと壁を滑り落ち、床に無様にへたり込む。ガイルは、その完全に戦意を喪失した男を、昏い瞳で見下ろした。
「話せ。ネクロマンサーについて。あんたが知っていること、全てだ」
それは、恋人を叱るような甘い響きを含みながら、同時に、目の前で起きた全ての惨状を瞬時に理解し、受け入れ、そしてその上でなお、夫を愛おしむという、絶対的な肯定の響きを持っていた。
「セレス…ティア…」
ガイルの唇から、掠れた声が漏れる。拳を握りしめたまま凍りついていた彼の身体から、強張りが解けていく。
一方、床にへたり込んだままだったリゼットは、目の前で繰り広げられる光景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
血の匂い。壁に飛び散った漆喰の染み。床に転がる、意識を失った外交官。そして、その全てを引き起こした張本人であるはずの男を、まるで悪戯をした子供を諭すかのように、慈愛に満ちた瞳で見つめる、美しき魔術師。
理解が、追いつかなかった。
この男は、使節団の一員として、決して許されない暴挙に及んだのだ。外交問題に発展しかねない、致命的な過ちを。だというのに、セレスティア様は、なぜ…。
「あらあら、リゼット様も、そんなところに座り込んでしまって。床は冷えますわよ」
セレスティアは、ガイルに向けたものとはまた違う、慈しむような微笑みを浮かべると、リゼットの傍らに静かに屈み込んだ。そして、何も言わず、その華奢な肩を、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと抱き寄せる。
ふわりと、ラベンダーの香油と、彼女自身の甘い体香が、リゼットの鼻腔をくすぐった。その温もりに、リゼットの凍てついていた身体が、意思とは関係なく微かに震える。
「さあ、まずは落ち着いて、深呼吸を。大丈夫ですわ。わたくしがおりますから」
その声は、幼い頃、熱を出して魘された夜に、母が歌ってくれた子守唄のように、優しく、そして抗いがたい力で、リゼットのささくれだった心を鎮めていく。
張り詰めていた何かが、ぷつり、と音を立てて切れた。
リゼットの瞳から、こらえきれなかった涙が、ぽろり、ぽろりと零れ落ちる。それは、怒りでも、屈辱でもない。ただ、どうしようもない無力感と、安堵が入り混じった、子供のような涙だった。
「セレス…ティア、さま…わたしは…わたしは…もう…」
「ええ、ええ。分かっておりますわ。よく、耐えましたわね。本当に、強い方です、あなたは」
セレスティアは、嗚咽を漏らすリゼットの背中を、優しく、何度も何度も撫で続けた。
その光景を背に、ガイルは動いた。
セレスティアがリゼットの心を癒している間に、自分がやるべきことをやる。二人の間に、言葉は必要なかった。
彼は床に伸びているゲルハルトの襟首を掴むと、まるで荷物のように軽々と引きずり、リゼットの視界から完全に外れる部屋の隅の暗がりへと運んだ。ドサリ、と肉の塊が床に落ちる鈍い音が響く。
「ご主人様…」
セレスティアが、リゼットを抱きしめたまま、憂いを帯びた瞳で夫を見上げた。その視線が、雄弁に語っていた。――壁の向こうには、耳がある。時間は、ないと。
ガイルは無言で頷くと、床に転がっていたゲルハルトの頬を、一切の躊躇なく平手で打ち据えた。
――パンッ!
乾いた破裂音が、静かな部屋に響き渡る。
「――んぐっ!? な、何を…!」
意識を取り戻したゲルハルトが、状況も理解できぬまま虚勢を張る。だが、ガイルは意にも介さず、その肥満した身体の胸ぐらを鷲掴みにすると、その巨体をいとも容易く持ち上げ、背後の壁に叩きつけた。
「ぐぼっ…!」
背中を強打した衝撃と、喉を圧迫される苦しさで、ゲルハルトの口から情けない悲鳴が漏れる。
「よく聞け。俺たちには時間がない」
ガイルの声は、地の底から響くように、低く、静かだった。
「隣の部屋の住人も、あんたの無様な悲鳴を早く聞きたがってるかもしれんからな」
彼は、恐怖に引き攣るゲルハルトの顔を、至近距離から覗き込んだ。その瞳には、感情という光が一切宿っていなかった。
「まずは簡単な確認だ」
ガイルは、先程までゲルハルトが浮かべていたような、ねっとりとした笑みを唇に貼りつかせた。だが、その瞳だけは一切笑っていない。
「さあ、答えろ。これは質問じゃない。――確認だ」
その、あまりにも直接的な皮肉と侮辱に、ゲルハルトの顔から血の気が引いた。自分がリゼットに行った非道な行いを、この男は、これから自分自身に行うのだと、本能が警鐘を鳴らす。
「ひっ…な、何を…」
ゲルハルトが何かを言いかけたのを、ガイルは冷たく遮った。
「俺たちの目的は、一つだけだ。この国に巣食うネクロマンサーを、叩き潰すこと」
ガイルは、胸ぐらを掴む手に、ギリ、とさらに力を込める。ミシミシと、ゲルハルトの着込んだ上等な絹の服が悲鳴を上げた。
「あんたが、俺たちの確認に、素直に、正直に、全部答えないなら……」
彼は、そこで一度言葉を切り、ゲルハルトの耳元に、悪魔のように囁きかけた。
「あんたは今後、外交問題なんてものを、一切心配する必要がなくなるかもしれないな」
その言葉の裏に隠された、あまりにも直接的な殺意。ゲルハルトの全身が、恐怖でわなわなと震え始める。虚勢も、外交官としての矜持も、絶対的な死の予感の前には、あまりにも無力だった。
「わ、わかった…! わかったから、やめてくれ…! な、何でも話す! だから、命だけは…!」
「いい子だ」
ガイルは満足げに頷くと、掴んでいた手を離した。支えを失ったゲルハルトは、ずりずりと壁を滑り落ち、床に無様にへたり込む。ガイルは、その完全に戦意を喪失した男を、昏い瞳で見下ろした。
「話せ。ネクロマンサーについて。あんたが知っていること、全てだ」
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