かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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1.走っていられれば

1ー②

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 授業中は窓際の席にいることを心の底から感謝した。窓の外を眺めて五十分間をすごす毎日は、たのしくはないけれど退屈な授業を聞いているよりずっとましだった。高校に入ったのは自分の意志だろうと、そう言われてしまえば返すことばもないのだけれど。
 ずっと空ばかり眺めているわけにはいかない。先生の声がおおきくなって、ここは聞いてほしいんだろうな、と感じると前を向く。こうしていれば、怒られることはほとんどなかった。たとえ休み時間に呼び出しをくらっても、きちんと説教を聞いていればそれだけで満足してもらえる。実際にその説教が俺にとって意味あるものになるかどうかはべつの話だ。
 前の席に座るシュウが、肩を震わせてくしゃみをした。蒸し暑い空気が教室中に満ちていて、衣替えが済んだばかりの生徒はみんな半袖シャツを着るなり、長袖シャツをまくるなりしていた。そんななかでも、シュウの身体は長袖シャツでぴっちりおおわれている。それでもくしゃみをするのだから、よほどの冷え性なのかもしれない。
 くしゃみで一瞬そらした視線をすぐに戻したシュウは、腕をぐっと抑えて先生のほうをまっすぐに見ている。シュウは最上級にいいやつだ。俺のようなへそ曲がりの劣等生とはわけがちがう。先生のことばを聞く気すら俺にはない。窓の外を見て、どんよりとした雲の浮かぶ空をなんとなく眺めているだけだ。
「購買いこうぜ」
 授業が終わるやいなや、武本が財布をポケットにつっこんで近づいてきた。おなじクラスになってから二ヶ月の付き合いで、昼食を一緒にとる習慣がついた。シュウもそこに交わるのがいつもの風景だ。
 午前の授業が四時間目まであるこの高校に入学して一年以上が経った。人間というのはうまくできていて、頭を使わずにぼうっとしているだけでも腹はすく。午前最後の授業はいつも空腹でいらいらしていた。
 音を立てて椅子から立ちあがる。シュウも続いて席を立った。シュウの動きはゆっくりとしていておだやかだ。引いた椅子もきちんと机のなかに押しこむ。しかもそのあいだ、椅子の脚と床がこすれて音を立てるようなことはない。
 混雑している教室を抜けて廊下に出ると、そこは教室よりわずかに涼しかった。陽の射さない階段は薄暗く、じめじめしている。今日は雨が降っていないのに、西のほうが梅雨入りするとニュースで告げるたび湿度はあがっているように感じた。湿気をまとって濃くなった空気に乗って、校舎のいたるところから聞こえる笑い声が耳の奥で反響する。
 冷たい階段をおりて、一階にある購買を目指す。途中で冷水器に寄ってのどを潤した。口元から漏れた冷水を、まくった袖口で拭う。武本も俺に続いて水を飲み、おなじように唇を拭った。
「シュウは?」
 俺たちが水を飲んでいるあいだ、ぼうっとしていたシュウに声をかけると眉をさげて笑った。高い背をかがめて冷水器に覆いかぶさったシュウは、濡れた口をポケットから出したハンカチでおおった。袖を濡らさないシュウの行動が上品に見えて、やっぱりこいつは俺らとはちがうな、と思う。
「あっちぇーな」
「蒸し暑いのがしんどいわ」
 俺と武本が並んで話していても、シュウはすこし後ろをついてくるだけだった。悪いやつではない。シュウは、毒にはなりえない存在だ。その代わり、薬になることもないのだけれど。
 購買までたどりつくと、そこにはもうおおきな人だかりができていた。馴染みのおばさんに声をかけてパンを買う。どんなに暑かろうが、育ち盛りの高校生の食欲は落ちたりしない。俺も武本も、ここで買うパンとはべつに家から弁当を持ってきている。
「シュウまたそれだけ?」
 となりで財布を広げるシュウを見ると、その手にはメロンパンがひとつ握られていた。よほどのあまいもの好きなのか、シュウはいつもなにかしらの菓子パンを食べている。けれどそれもたいていひとつだけだ。身長は高いのに、だからこいつの身体はとても薄い。
「糖分補給できればそれでいいんだ」
 そう言って涼しげな顔で笑う。俺も武本も、袖をまくっていてさえ汗をかいているのに、長袖を行儀よく着たシュウの肌には汗ひとつなかった。表情だけつくろっているのではなく、ほんとうに暑さが平気なのだと、そう見える涼しげな立ち姿だった。
 ふーんと声を出してその会話を終える。いつも繰り返されるシュウのことばを追及する必要はない。
「お前は今日も焼きそばパンなのな」
「おう。炭水化物は大事だからな」
 武本とどうでもいい話をしながら階段をあがって教室に戻る。シュウはそのすこし後ろからおとなしくついてきていた。
 弁当とパンとを、時間をいっぱいに使って腹に流しこんでいく。どれだけゆっくり口に運んでもあっというまに目の前の食べ物はなくなってしまう。そしてすべてを腹に収めても、まだ食べられるような気がする。気がするのではなくて、実際に食えるのだ。いつかこの渇くような空腹がやわらぐ日がくると大人は言うけれど、そのことばを簡単には信じられないほど強烈な飢えが、高校生になったころからの俺の悩みだ。それは武本も同じらしく、俺たちはいつも競うように食べ物を口に押しこんでいる。
 シュウだけは静かに笑いながら、すこしずつすこしずつ、俺たちの食べ終わるペースに合わせるようにメロンパンにかじりついていた。自分には関係ないのに、やたらと苛立つ光景だった。階段をあがる前に買ってきた野菜ジュースと一緒に、まるで食べられない病人のようなスピードで咀嚼する。いてもいなくても変わらないけれど、特別暗いわけではないし、いいやつだとも思う。昼間の背後霊、シュウにはそんなことばが合っているのかもしれない。
 騒がしい教室のなかには、普段どおりの掲示物に混じって赤色の旗やTシャツが並んでいる。体育祭はあさってだ。
「あれ、シュウは?」
 昼休みが終わる五分前、俺と武本が教室の後ろに置かれたロッカーに荷物をとりにいっているあいだに、シュウがどこかへいなくなっていた。午後からはグラウンドで全校での体育祭練習を行うことになっている。体操着に着替えるために女子が更衣室へいって、教室が男子だけの騒がしい空間になると、シュウはいつのまにか姿を消した。
「いつものことだろ」
 シュウはいなくなるのがうまいと思う。体育の前だけでなく、ときどきふらっといなくなることがあった。でも俺たちはそれを気にしたりはしない。そもそも意識の外にいるから、シュウのことをよく見逃すのだ。
「あいつ更衣室でも覗きにいってんのかな」
 武本が歯のあいだから空気を漏らすように笑う。シュウがいなくなるとこうやって茶化すのが俺たちの決まりだった。ほんとうのところ、あいつがどこにいってなにをしているかということに、たいして興味はなかった。次の授業の時間になれば、シュウはきちんと出席しているからだ。シュウは真面目な生徒だ。サボっているところはおろか、授業に集中していない姿も見たことがない。
 そうして実際、シュウはチャイムの鳴る直前にきちんとグラウンドへやってきた。雲の合間に見え隠れする太陽が、地上の水分をどんどんあたためていく。風はほとんど吹いていなくて蒸し暑く、生徒の着る白いTシャツで埋められた視界が眩しかった。シュウが何事もなかったように俺たちの輪に加わってくることに、俺たちはもう慣れてしまっている。
「シュウ、お前いつもどこいってんだよ」
「はは、内緒」
 何度繰り返したかわからない問いをシュウにぶつける。そしてシュウもそれに対して、軽い調子で答えをはぐらかした。
「全校生徒が集まるとやっぱりすごい熱気だね」
 襟元に手をやってシュウがぼやいた。
「暑いなら長袖脱げよ」
 シュウの長袖ジャージを見ながら武本が言う。どんなに暑い日でも、シュウはそのジャージを脱ぐことがなかった。
「ムリだよ。医者に怒られるもの」
 武本とシュウの会話を、一歩さがって傍観する。シュウは肌が弱く、日焼けは厳禁なのだそうだ。肌も白いし瞳や髪の色も薄いシュウが太陽に弱いのは、なんだか納得できるような気がした。
 蒸し暑くても風が吹けば汗は冷える。そのわずかな涼しさすら感じられないシュウの受けとめる暑さは想像もできない。だがそれもいつものことで、たいして気にもならなかった。
 団体の前に立つ生徒の指示で応援練習がはじまる。体育祭の応援点というのは、ほとんどが団体パフォーマンスで決まるのだ。流行りのポップスに乗せた下手くそなダンスをさせられるのは、体育祭に乗り気でない連中ならだれでも嫌だろう。それでもきちんと動かなければ、応援団に大声をあげて責められる。蒸し暑さのなかで声を荒げる人間に付き合うことほど疲れることはない。ぼうっとしていられない分、授業よりずっと苦痛だった。苛立ちで胃のあたりがむかむかする。
「次はリレー練習を行います。選手は集合してください」
 響き渡るアナウンスが聞こえて、胃の違和感はより増した。陸上部は体育祭には駆り出されるものと決まっている。体育祭の最後に行われるリレーのメンバーに、俺も駆り出されていた。
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