かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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1.走っていられれば

1-③

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「明くん、足遅くなったのね」
 母が食事を口に運びながら言った。父は、そうなのか、と不思議そうに首を傾げた。
 座卓に家族全員で並んで夕飯を食べているときだった。祖父母から受け継いだこの家は古く、毎朝仏壇に手を合わせているわけでもないのに線香のにおいが柱に染みついている。古臭い茶箪笥のなかには、母の趣味でブランド物のカップが収められている。ちぐはぐなはずのその組み合わせも、このマイペースな母にかかれば個性なのだと納得させられた。
 座卓は一枚板で作られた、祖父自慢のものだった。そのうえに家族四人分の食事が並んでいる。俺の空腹を知ってか知らずか、俺の皿に乗っている鶏の唐揚げだけ数が多い。すこし前までそれに文句を言っていた妹の樹里も、最近はおとなしく与えられた分の料理を食べている。ダイエットのために量をたくさん食べてはいけないのだそうだ。
「お母さん体育祭見にいったんだ」
 心底あきれたように樹里がため息をついた。妹は、母が俺ばかりを気にすることについて、あまりよく思っていない。母は俺のことだけ「明くん」と呼ぶ。樹里はそれが気に入らないのだ。「特別扱いしてる」のだと言う。俺からすれば幼い子どもをあやすような呼び方はくすぐったくて、いい加減やめてほしいと思っているのだけれど。
「そうなの。たのしかったのよ」
 みんなでダンスを踊るの。応援団の子は側転したりしてね。母が、父と妹に体育祭の様子を話している。俺はそれを聞いていないふりをした。
 今日は、ここ最近で一番蒸し暑い日だった。空には厚い雲が垂れこめていて、いまにも雨が降り出しそうな気配をただよわせていた。湿気と汗で、揃いの赤いTシャツが肌に張りついて不快だった。
「シュウ、似合ってるじゃん」
 曇りの日は、思っている以上に紫外線が多く降りそそぐらしい。シュウは武本から長袖のアンダーシャツを借りて、Tシャツの下に着ていた。ひとりだけちがう見た目をしたシュウを、普段はあいつを気にかけないクラスメイトが茶化していった。応援団は身体中にペイントをして、特別な衣装を着ている。こんな天気なのに、学校全体が浮かれた雰囲気に満ちていた。居心地の悪さを感じて、周りの盛り上がりから離れて立つ。
 こちらが距離を置いているのだから放っておいてほしいのに、非日常に浮かれたクラスメイトはその願いを叶えてはくれない。
「リレー、頼りにしてるからな」
「がんばってよ」
 応援団のやつらも、前日まで体育祭なんて興味ないような素振りを見せていたやつらでさえも、近づいてきては俺の背中や肩を叩いた。陸上部のやつらだけは、その様子を遠巻きに見ている。普段はうっとうしく感じるその視線ですら、この浮き足立った雰囲気のなかではありがたく感じた。日常がそこにあると、たしかに感じることができたからだ。籍だけあっても、自分のことを陸上部の部員だと思ったことは一度もない。
「そう、それで明くん、ぜんぜん速くなかったの。あんなに走ってるのにね」
 それまで父と妹に熱心に話していた母が顔を向けてくる。その表情を見て、自分の走りがよほどひどいものだったのだと知った。母のことばに、なにも返すことができなかった。
 俺の走順は最後から二番目だった。リレーは男女混合で行われる体育祭のメインイベントだ。グラウンドには屋根も壁もない。湿気に声が吸いこまれて響くはずもないのに、コースに立つと全校生徒の応援する叫び声が耳の奥で反響していた。一位でバトンをつないだ上級生の女子が、裸足でグラウンドを駆けてくる。深呼吸をして、バトンが渡ってくるのを待つ。だんだんバトンが近づいてくるにつれて、頭のなかでガンガンとなにかが鳴り出した。ぐっと左足を踏み出して、それと同時に右足を後ろに蹴りあげる。それでも、身体は進んでいかなかった。夢のなかのように、走っても走っても前にいかない。足がきちんと回転していないのがわかる。風を切る音も聞こえない。結局、俺は最下位になってアンカーにバトンをつないだ。
「明」
 走り終わった俺に、武本が声をかけてきた。後ろにはシュウもいる。遠くに見える赤団の生徒がみんな、俺を睨んでいるような気がした。
「へえ。バカみたいに毎日走ってても足遅いんだ」
 話を聞いた樹里がまた、あきれたように声を出した。唐揚げに伸ばした手を止めて反論してしまいそうになるのを、ぐっとこらえてことばを飲みこむ。一緒に唐揚げと味噌汁を胃のなかに流しこんで席を立つ。流しに食器を運んで風呂場に向かった。
「明くんはほんとうに食べるのが早いのね」
「うん」
 自分の使ったトレーニングウェアは自分で洗うことにしている。とはいっても中学のときのようにグラウンドでは練習しないから、砂を流すための下洗いもいらない。全自動の洗濯機に入れて、乾くのを待っていればいい。
 窓の外から雨音が聞こえる。家に着いたころから、まるで泣いているかのようにしずかな雨が降りだした。体育祭のあいだ天気が持っただけよかったのだろうか。それとも延期になって、それとも雨で中止になっていればよかったのか。
 回る洗濯機のドラムを見つめる。水、洗剤、そしてウェアが混じってぐちゃぐちゃになっている洗濯機と、自分の頭のなかはよく似ている。目を強くつむると、クラスメイトや武本、シュウの視線が俺を刺していた。
「ちょっと外いってくる」
「ええ、また?」
 二階の部屋にあがってジャージに着替えた。そのうえからレインコートを羽織る。すぐに玄関に降りてランニング用のシューズに足をつっこんだ。靴紐を丹念に結んで、爪先で二回、床を叩く。玄関を出て空を見あげる。やわらかな雨だった。レインコートのフードをかぶって走りだす。昼間のリレーとはちがって、足はよく動いた。
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