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4.はじめて知る
4-④
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雪が降った。今年は全国的に例年より寒いのだと言う。十一月末に降った初雪はそのまま根雪になって、中学までの通学路と俺のランニングルートをおおった。走れない時期が思ったより早くやってきて苛立つ心をごまかすために、俺は机に向かっていた。受験生の冬なのだから、どれだけ勉強してもしすぎることはないだろう。
「ねえ明くん、そんなにがんばらなくても志望校には入れるでしょ。もっとちゃんと寝なくちゃだめよ」
夜食を探して真夜中すぎに部屋から出てくる俺に、母は繰り返し言った。うん、と適当に返事をして、戸棚からパンを取りだす。母の顔をまともに見た記憶がずいぶん前からなかった。目を見てしまったら、合図になると思ったのだ。自分のなかに踏みこんできてもいい、という合図に。
「つらかったら、ちゃんと言ってね」
古い家らしい急な階段をあがろうとすると、追いかけるようにして母に声をかけられた。これにもまた、うんと答えるだけにする。
眠る時間は、たしかにすくなくなっていた。どんなに若くても、眠らないというのはよくないのだとわかる。確実に身体にガタがきていた。それでも、眠ることを避けていた。
思考を止めることが、こわかった。目を閉じて頭がからっぽになると、涙を流す美奈子の姿が浮かんで離れなくなる。美奈子の頬から落ちる涙が杉崎の家を水浸しにして、俺はそのなかで立ち尽くしている。彼女の周りの水面になにか赤いものが漂っていて、目をこらして見ると、それは美奈子の腕から滴る血なのだ。
毎晩、おなじ夢を見て目が覚めた。起きると汗まみれになっていて、夢で見た美奈子の姿が現実だったことを思いだしては顔をおおった。
あの日以来、杉崎の家を訪ねたことはなかった。どんな顔をして杉崎さんに会いにいけばいいのかわからなかったし、もしまた美奈子に会ってしまったら、今度こそ立ちどまってしまうんじゃないかと思った。
そうだ、俺は逃げた。美奈子に言われたことばが心臓に突き刺さったまま、鼓動するたびに痛む。彼女の言うとおりだ。美奈子のことなんて、俺はすこしも見ていなかった。いつだって自分が大事で、自分がかわいくて、かわいそうだと思っている。いまもそうだ。美奈子が苦しんでいると知っても自分が傷つくことのほうがこわくて、ここで向き合わなければぜんぶが終わってしまうとわかっているのに、足を前に出すことができなかった。
「剣持くんのやさしさが有難かったです。もう十分です。ほんとうにありがとう」
そんなメモが届いたのは年末のことだった。監督が杉崎さんから預かってきてくれたのだ。
「ありがとうな」
監督は一言それだけ告げて、あとはなにも言おうとしなかった。
杉崎さんも、監督も、俺を責めなかった。いっそなにか厳しいことばをかけてくれたらよかったのに、だれもが俺に感謝していた。居心地が悪かった。毎晩、美奈子だけが夢のなかで俺をなじった。
高校入試を三日後に控えた卒業式の日、美奈子は学校にこなかった。八十人近くいる卒業生のなかで、唯一点呼のときに響かなかった美奈子の声は、きっと俺と監督の心だけに空白として感じられていたはずだ。
保護者に配られた式次第には、卒業生の進路予定が載っていた。各高校の名前の横に、受験する生徒の数が書かれているだけの簡単な表だったけれど、たったひとり、進路が「未定」の生徒がいることで、その紙切れがやたら重くなったような気がした。
その日から一週間後、俺は志望していた高校への入学を決めた。美奈子がその後どうしたのかは、とうとう知ることがなかった。
「ねえ明くん、そんなにがんばらなくても志望校には入れるでしょ。もっとちゃんと寝なくちゃだめよ」
夜食を探して真夜中すぎに部屋から出てくる俺に、母は繰り返し言った。うん、と適当に返事をして、戸棚からパンを取りだす。母の顔をまともに見た記憶がずいぶん前からなかった。目を見てしまったら、合図になると思ったのだ。自分のなかに踏みこんできてもいい、という合図に。
「つらかったら、ちゃんと言ってね」
古い家らしい急な階段をあがろうとすると、追いかけるようにして母に声をかけられた。これにもまた、うんと答えるだけにする。
眠る時間は、たしかにすくなくなっていた。どんなに若くても、眠らないというのはよくないのだとわかる。確実に身体にガタがきていた。それでも、眠ることを避けていた。
思考を止めることが、こわかった。目を閉じて頭がからっぽになると、涙を流す美奈子の姿が浮かんで離れなくなる。美奈子の頬から落ちる涙が杉崎の家を水浸しにして、俺はそのなかで立ち尽くしている。彼女の周りの水面になにか赤いものが漂っていて、目をこらして見ると、それは美奈子の腕から滴る血なのだ。
毎晩、おなじ夢を見て目が覚めた。起きると汗まみれになっていて、夢で見た美奈子の姿が現実だったことを思いだしては顔をおおった。
あの日以来、杉崎の家を訪ねたことはなかった。どんな顔をして杉崎さんに会いにいけばいいのかわからなかったし、もしまた美奈子に会ってしまったら、今度こそ立ちどまってしまうんじゃないかと思った。
そうだ、俺は逃げた。美奈子に言われたことばが心臓に突き刺さったまま、鼓動するたびに痛む。彼女の言うとおりだ。美奈子のことなんて、俺はすこしも見ていなかった。いつだって自分が大事で、自分がかわいくて、かわいそうだと思っている。いまもそうだ。美奈子が苦しんでいると知っても自分が傷つくことのほうがこわくて、ここで向き合わなければぜんぶが終わってしまうとわかっているのに、足を前に出すことができなかった。
「剣持くんのやさしさが有難かったです。もう十分です。ほんとうにありがとう」
そんなメモが届いたのは年末のことだった。監督が杉崎さんから預かってきてくれたのだ。
「ありがとうな」
監督は一言それだけ告げて、あとはなにも言おうとしなかった。
杉崎さんも、監督も、俺を責めなかった。いっそなにか厳しいことばをかけてくれたらよかったのに、だれもが俺に感謝していた。居心地が悪かった。毎晩、美奈子だけが夢のなかで俺をなじった。
高校入試を三日後に控えた卒業式の日、美奈子は学校にこなかった。八十人近くいる卒業生のなかで、唯一点呼のときに響かなかった美奈子の声は、きっと俺と監督の心だけに空白として感じられていたはずだ。
保護者に配られた式次第には、卒業生の進路予定が載っていた。各高校の名前の横に、受験する生徒の数が書かれているだけの簡単な表だったけれど、たったひとり、進路が「未定」の生徒がいることで、その紙切れがやたら重くなったような気がした。
その日から一週間後、俺は志望していた高校への入学を決めた。美奈子がその後どうしたのかは、とうとう知ることがなかった。
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