かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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5.知ってしまったから

5-①

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 ぼうっとしていたら、いつのまにか朝のホームルームも終わる時間だった。教室がざわめきを取り戻したことで、肩の力がふっと抜ける。
 授業中も、シュウはいつもと変わらない様子だった。背筋をぴんと伸ばして、教卓に立つ先生のほうをまっすぐに見ている。ときどき、先生のことばに頷いてさえいた。先生も人間だから、反応が返ってくる生徒がいたらそちらばかり見てしまうだろう。真後ろにいるからわかるのだけれど、先生たちはシュウのほうを向いている時間が長いような気がした。
 雨に濡れる窓側に置かれたシュウの左腕を見る。その下に隠された傷に、俺は気づいてしまった。
 あのとき彼女になにも言えなかったことを、自分がどれだけ後悔していたのかいまさらになって気づかされる。今度こそ間違いたくない。そう思う気持ちが、胸のなかでおおきくなっていく。
 俺はあいつの傷に向かいあうだけの覚悟を持っているのだろうかか。もうあんな思いをするのは嫌だと、ただそれだけで、シュウの心に触れてもいいのだろうか。
 シュウが、くっと左の袖を引っ張るのが見えた。シャツの下にあるはずの傷を、見て見ぬふりすることなんてできない。贖罪と、そう言われても構わないと思った。
 午前中の授業は移動教室がなかった。休み時間になっても、めずらしく武本は寄ってこない。俺とシュウのあいだに流れる微妙な空気を、あいつなりに感じ取ったのだろう。シュウは自分からは振り向いたりはしない。俺か武本に声をかけられるまで、まるで他人のような顔をしてそこに座っている。
 俺はいつものように窓の外ばかり眺めながら、昼休みになるのをただひたすら待った。三時間の授業のあいだに雨は小雨になり、そしてそのうちすっかり止んだ。空はあいかわらず真っ暗だが、放課後まで天気が持てば走れるかもしれない。そんな気分でいられれば、の話だけれど。
 昼休みのはじまりを告げるチャイムが鳴って、先生が教室から出ていくや否や、予想したとおり、シュウは黙って席を立った。これまではその、ふらふらとどこかへいなくなる姿を見てもなんとも思わなかったのに、いまはシュウのことが気になって仕方がない。
「武本、今日飯パス」
 シュウの背中が教室から出ていく前に、武本の席まで近寄っていって声をかける。武本はうかがうように俺を見て、おう、とだけ返してきた。恐るおそるといったその表情に、俺のみぞおちもキリキリと痛む。
 シュウを追いかけて教室を出る。昼飯なんて二の次だ。確かめたかった。シュウの行為の真相を。
 放送部による校内放送がはじまる。騒がしい校舎に、ざらついた質感の音声が反響した。
「シュウ」
 遠くから見ると、シュウの背中は細長くほんとうに頼りなかった。昨日のできごとのせいでバイアスがかかっていると思いながらも、その後ろ姿からどこか不安げな空気を感じる。
 声をかけるとシュウは振り返って心底不機嫌そうな顔をした。そのまま顔を前に戻して、ひとが溢れた校舎のなかを生徒を避けるようにしながら歩いていく。その背中を引きとめることはせず、俺は黙ってついていった。距離を保ったまま校舎を出て、水たまりの目立つ部室棟のほうへと向かう。
「シュウ」
 ここまできたら人気もない。もう一度声をかけると、シュウは振り向こうとしなかった。返事の代わりに歩調が早まって、すこし焦る。
 毎日のように走っていると、走るときの瞬発力が一般人とは比べ物にならなくなるものだ。声が届くくらいの短い距離なんて、ほんの数回太ももに力を入れて足を蹴りだすだけで詰めることができてしまう。
「なあ、待てよ」
 とっさに、シュウの腕を掴んだ。その瞬間、シュウが血相を変えて俺の手を振り払う。はっとして、一秒前の自分の行動を思い返す。血の気がすっと引いたけれど、触れたのがシュウの左腕ではなかったことに気づいてほんのわずか安心した。
「ごめん」
 長い間があった。シュウがこちらを向いて立ちどまってくれたことにほっとしながら、心の底から謝る。
「……いいよ」
 よほどひどい顔をしていたのだろうか。シュウが怒りを抑えるようにため息をついてから声を漏らした。その右腕は、おそらく無意識で左腕をかばっている。右手で左腕を握って、身体が左半分だけ後ろに引かれていた。左腕を見る俺の視線に、シュウが気づく。今度はシュウの顔が青ざめる番だった。俺の目から出るなにかに押されるようにシュウが後ずさる。
 そのシュウの行動で、つい気持ちがおおきくなってしまった。
「口止めしなくていいの」
 上からものを言っているような雰囲気が俺のことばから漂う。シュウはその空気を、敏感に感じ取ったようだった。
「言いたかったら言えばいいよ」
 そう言うシュウの顔は自嘲で歪んでいた。自分の行為を知らしめてもいいなんて、ひとかけらも思っていない顔だ。
 さっきまで雨が降っていたとはいえ、指先がやけに冷えて寒いくらいだった。固まってしまったような気すらする唇を開けて、今度は響きに気をつけながら声を絞りだす。
「そんな顔してなに言ってんだよ」
 責めるような声ではなく、心配しているのだと伝わればいい。思いが届いたのかどうかは、シュウの表情からは読みとれなかった。どんどん無表情になってうつむいていくシュウから諦めの色を感じる。
 シュウのその顔が、美奈子のそれに重なって揺れた。目の前にいる長身の同級生を、かわいそうだと思う自分がいる。俺はあのとき逃げた。今度は、逃げたくない。
「……お前、それ自分でやったの」
 あいかわらず右手でおおわれたままの左腕に目を向けると、シュウはぐっと唇を噛んで視線をそらした。答えはなかった。けれど、真っ青な横顔は、答えたも同然だった。俺がこんな顔をさせているのだと思うと、心臓が刺すように痛む。
「そんな顔するなよ。しんどいだろ、そんな顔してるの」
 だが俺のことばを聞いて、シュウの顔に血がのぼったように見えた。横を向いていた顔をこちらに向けることもなく、そのまま小走りで校舎のほうへと駆けていく。今度は、追いかけようとは思わなかった。細長い背中を見送りながら、俺は腹を決めていた。
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