17 / 39
5.知ってしまったから
5-②
しおりを挟む
待ち遠しい梅雨明けはなかなかやってきそうになかった。七月に入って雨足は余計に強くなって、自転車通学はほとんどできなくなった。期末テストが生徒に襲いかかり、部活もしばらくのあいだ休みになる。部活のあるなしなんて俺には関係ないことだけれど、雨がやまないことにはただ走ることもままならない。自転車にも乗れず、冬でもないのに体力がどんどん落ちていく気がした。
夏休み以外は教室のエアコンを使ってはいけない決まりになっている。だがそんなものこの暑さのなかではくそくらえだ。先生に見つかったときは謝ればそれで済む。おとなしく勉強をしているのだから、それくらいのルール違反は許されるだろう。
「わかんねえなあ」
「公式の選び方さえわかれば簡単なんだけど」
放課後、俺たちは教室で勉強会をしていた。学年上位の成績を保つシュウが、下から数えたほうが早い俺と武本に対して先生役を買って出てくれている。だがシュウの力を借りても、赤点をギリギリ免れるのが俺たちの限界だった。
「悪いなシュウ。つかれるだろ」
俺も武本も決していい生徒とは言えない。そもそもやる気がないのだ。平均よりうえの偏差値のこの高校に入れたのだから、中学時代はそれなりに勉強ができたはずなのに、一年間の怠惰はそれをすっかり忘れさせていた。勉強しない俺たちは、いったいなんのために高校に入ったのだろう。いつだったか聞いた「モラトリアム」ということばは、俺と武本のような生徒のためにあるものなのかもしれない。
それでもこうして勉強会をするだけほめてもらいたいものだが、これは先生たちに対する言い訳と一緒だ。つまり、これだけやってもダメでした、と言うためのアリバイ作りでしかない。そんな俺たちに付き合っているシュウは、さぞ頭が痛いだろう。
「そんなことないよ」
困ったように笑ってシュウが首を傾げる。ごめんなーとふざける武本に対して、俺は笑い返すことができなかった。視界の端で、シュウが左の袖をぐっと引っ張るのが見えたからだ。
シュウが自分自身になにをしているのかを知って以来、俺はシュウを注意して見るようになった。まだ短いあいだではあるけれど、それでも気づく。こいつは毎日確実に、その腕にある傷が原因だと想像できる行動をとっていた。今やった袖を引っ張る行為もそのひとつだ。ストレスを感じているとき、シュウは無意識に袖を伸ばしている。あくまで予想だけれど、それは傷を隠そうとしている動きに見えた。
シュウのしている行為を知れば、普段なにげなく見ていたあいつのくせにはすべて理由があるのだとわかった。ひとと歩くとき、左側を歩きたがること。俺たち三人が並んだとき、俺が中心になるのは決して偶然なんかではなかった。意識してのものかどうかはわからないけれど、左腕をかばっているからだ。体育の前に姿を消すのもきっと、人前で着替えることができないからだろう。
もしかしたら、と思う。太陽にあたると肌が荒れるというのも、シュウの作ったうそなのかもしれない。いや、ほとんど確実に、日光を浴びることを止められているというのは真実ではないと俺は信じていた。
その証拠に、シュウは俺がそうしたくせを観察している瞬間、心底嫌そうな、そして不安そうな顔をするのだ。
袖を引っ張ったシュウが、俺にだけわかる微妙な変化を顔色に乗せる。武本がばかで助かった。こういう一瞬の表情に、武本はとても疎い。
「でも、シュウが教えてくれて助かるわ。頭よくなった気がするもん。なっ」
そう言って、武本がシュウの肩を叩く。俺はとっさに、まずい、と思った。そして予想どおり、シュウが怯えた顔をする。震えた唇を見ていた俺を、ほんのわずか、きっと睨んでから、シュウは武本に向かって「そんなことないよ」と笑った。
俺だけにわかるシュウの表情が増えていた。シュウがそれを不快に思っていることも知ったうえで、俺はこいつへ視線を送ることをやめようとは思わなかった。
俺がなんとかしないと。
いつのまにか、そんなふうに考えている自分がいた。今はまだ動けない。シュウはひとに慣れない子猫みたいに、俺に対してしっぽを逆立てている。どうしたらいいのかわからないけれど、いまはただ、こいつのそばを離れずにいようと決めていた。
不思議な気分だ。ほんのすこし前まで、シュウのことなんて気にも留めていなかったのに。今ではシュウの顔色をうかがうのが日課になっている。
「そういえば昨日のテレビ見た?」
「え、どれ」
問題集に向かっているふりをして、シュウと武本のじゃれるような会話を聞いていた。笑っているシュウの内側に、いったいなにがあるんだろう。投げ出されている左腕の、その袖の下に、どんな傷があるのだろう。
知りたいと思う。助けたいと思う。
どうがんばっても解けそうにない問題を冊子から見つけた。どの公式を使えばいいのかさえさっぱりわからない。教えてもらうために、顔をあげてシュウの視線をとらえる。その黒い瞳がかつてよく見た彼女のそれと重なる。今度こそ間違いたくない。今度こそ。
見つめる俺に、シュウが首を傾ける。凝視してしまったことをごまかすように、解く気もない難解な数式をシュウの目の前に差しだした。
夏休み以外は教室のエアコンを使ってはいけない決まりになっている。だがそんなものこの暑さのなかではくそくらえだ。先生に見つかったときは謝ればそれで済む。おとなしく勉強をしているのだから、それくらいのルール違反は許されるだろう。
「わかんねえなあ」
「公式の選び方さえわかれば簡単なんだけど」
放課後、俺たちは教室で勉強会をしていた。学年上位の成績を保つシュウが、下から数えたほうが早い俺と武本に対して先生役を買って出てくれている。だがシュウの力を借りても、赤点をギリギリ免れるのが俺たちの限界だった。
「悪いなシュウ。つかれるだろ」
俺も武本も決していい生徒とは言えない。そもそもやる気がないのだ。平均よりうえの偏差値のこの高校に入れたのだから、中学時代はそれなりに勉強ができたはずなのに、一年間の怠惰はそれをすっかり忘れさせていた。勉強しない俺たちは、いったいなんのために高校に入ったのだろう。いつだったか聞いた「モラトリアム」ということばは、俺と武本のような生徒のためにあるものなのかもしれない。
それでもこうして勉強会をするだけほめてもらいたいものだが、これは先生たちに対する言い訳と一緒だ。つまり、これだけやってもダメでした、と言うためのアリバイ作りでしかない。そんな俺たちに付き合っているシュウは、さぞ頭が痛いだろう。
「そんなことないよ」
困ったように笑ってシュウが首を傾げる。ごめんなーとふざける武本に対して、俺は笑い返すことができなかった。視界の端で、シュウが左の袖をぐっと引っ張るのが見えたからだ。
シュウが自分自身になにをしているのかを知って以来、俺はシュウを注意して見るようになった。まだ短いあいだではあるけれど、それでも気づく。こいつは毎日確実に、その腕にある傷が原因だと想像できる行動をとっていた。今やった袖を引っ張る行為もそのひとつだ。ストレスを感じているとき、シュウは無意識に袖を伸ばしている。あくまで予想だけれど、それは傷を隠そうとしている動きに見えた。
シュウのしている行為を知れば、普段なにげなく見ていたあいつのくせにはすべて理由があるのだとわかった。ひとと歩くとき、左側を歩きたがること。俺たち三人が並んだとき、俺が中心になるのは決して偶然なんかではなかった。意識してのものかどうかはわからないけれど、左腕をかばっているからだ。体育の前に姿を消すのもきっと、人前で着替えることができないからだろう。
もしかしたら、と思う。太陽にあたると肌が荒れるというのも、シュウの作ったうそなのかもしれない。いや、ほとんど確実に、日光を浴びることを止められているというのは真実ではないと俺は信じていた。
その証拠に、シュウは俺がそうしたくせを観察している瞬間、心底嫌そうな、そして不安そうな顔をするのだ。
袖を引っ張ったシュウが、俺にだけわかる微妙な変化を顔色に乗せる。武本がばかで助かった。こういう一瞬の表情に、武本はとても疎い。
「でも、シュウが教えてくれて助かるわ。頭よくなった気がするもん。なっ」
そう言って、武本がシュウの肩を叩く。俺はとっさに、まずい、と思った。そして予想どおり、シュウが怯えた顔をする。震えた唇を見ていた俺を、ほんのわずか、きっと睨んでから、シュウは武本に向かって「そんなことないよ」と笑った。
俺だけにわかるシュウの表情が増えていた。シュウがそれを不快に思っていることも知ったうえで、俺はこいつへ視線を送ることをやめようとは思わなかった。
俺がなんとかしないと。
いつのまにか、そんなふうに考えている自分がいた。今はまだ動けない。シュウはひとに慣れない子猫みたいに、俺に対してしっぽを逆立てている。どうしたらいいのかわからないけれど、いまはただ、こいつのそばを離れずにいようと決めていた。
不思議な気分だ。ほんのすこし前まで、シュウのことなんて気にも留めていなかったのに。今ではシュウの顔色をうかがうのが日課になっている。
「そういえば昨日のテレビ見た?」
「え、どれ」
問題集に向かっているふりをして、シュウと武本のじゃれるような会話を聞いていた。笑っているシュウの内側に、いったいなにがあるんだろう。投げ出されている左腕の、その袖の下に、どんな傷があるのだろう。
知りたいと思う。助けたいと思う。
どうがんばっても解けそうにない問題を冊子から見つけた。どの公式を使えばいいのかさえさっぱりわからない。教えてもらうために、顔をあげてシュウの視線をとらえる。その黒い瞳がかつてよく見た彼女のそれと重なる。今度こそ間違いたくない。今度こそ。
見つめる俺に、シュウが首を傾ける。凝視してしまったことをごまかすように、解く気もない難解な数式をシュウの目の前に差しだした。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる