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11.心が重ならない
11-②
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九月に入って最初の土曜日、開放された校内は、さまざまな服装をしたひとでにぎわっていた。見慣れた制服、他校や保護者の着る私服、出しもののためのコスプレ、灰色の校舎のなかに、普段とはちがう色が溢れている。
俺たちのクラスは、駄菓子屋に合わせて各々が法被を持参していた。地元で使われている茶の生地に車輪の絵柄がついている法被を着る俺に対して、シュウは白地に黒の吉原つなぎが入った法被を着ていた。きれいに折り目のついた真っ白な法被に袖を通すと、背が高くひょろりとしたシュウの印象はより頼りなくなる。実際、行事があるときにはいつもそうだけれど、シュウはひとりぽつんと教室の隅に立って、所在なさそうにしていた。
縁日をイメージした内装にした教室は、それなりに客が入っている。シュウは水ヨーヨーの浮かんだビニールプールの担当だった。
俺は駄菓子屋の店番をしていて、売れていった駄菓子の補充をする役割を振られていた。俺もシュウも決して愛想がいいほうではないということくらいわかっているクラスメイトは、客と関わらなくていいポジションを与えてくれた。正直に言ってたのしくはないけれど、だいたいの学校行事はつまらないものだ。
こういうとき、武本がいたら俺とシュウのあいだを行き来してどうでもいい話をしているだろう。そしてその合間に客にもクラスメイトにも声をかけ、ニコニコと人懐こい笑みを浮かべていたはずだ。俺はひとりでも構わない。けれど、普段話すことのないやつらにぎこちなく笑っているシュウを見ていると、武本がいてくれたらと思わずにはいられなかった。
陸上部が出発する前に武本が教室にやってきて、文化祭に参加できないことを心底悔しがっていった。俺が持っていない陸上部のジャージを着た武本は、こんなのより法被が着たかったと言って、でもとても軽い足取りで手を振って出ていったのだ。その背中に入っている陸上部という筆文字は、武本の後姿によく似合っていた。
俺は一度も袖を通したことのないジャージだ。着たいと思ったことも、一度だってない。
「よう、流行ってるな」
売れ行きのいい棒菓子の在庫を出していると、山村先輩が顔を覗かせた。普段たくさんの取り巻きに囲まれているのに、ひとりで行動することに抵抗がないひとだった。
首を縮めて会釈だけしてみせたのは、話すことはないと思ったからだ。これちょうだいと言って、長いゼリーを手にとった先輩からお金をもらって、帳簿にペンを走らせる。ここは駄菓子屋だ。用が済んだなら帰ればいいのに、先輩は俺のそばを離れない。
「……大会、ついていかなかったんですか」
俺から話しかけなければ一生そこに立っているのではないかと思うほど、こちらを意識しているのがわかった。棒ゼリーを咥えながら、先輩がまあな、と返事をする。
「俺がいたって、いまの部長がやりづらいだけだろ」
二年間一緒に活動していた新部長でさえやりづらいのなら、名ばかり部員の俺の居心地の悪さなど比べることもできないはずだと、それくらい考えてくれてもいいのに。会話を続ける気にもなれなくて、補充が終わった机のうえの商品を、とくに意味もなく整理してみたりする。
「お前こそ、出場しなくてよかったのか」
商品を触るために伸ばしていた腕が止まらないよう成功して安堵した。それは何度も訊かれ、そして何度も否定したことばだった。
普段、自分は冷静なほうなのだと思う。他人に興味がないと言われて、たしかにそのとおりだとも思う。だからこそたいていのことには動揺しないでいられたし、声を荒げたりすることもない。
「競技会に出るつもりはないって、入部したときから言ってます」
俺が入学した当時、山村先輩は部長ではなかった。俺のわがままを許した当時の部長はもう卒業してしまったけれど、二年前、山村先輩だって俺のことを受け入れたはずだ。
「でも、走るのはやめてないだろ」
「……黙ってください!」
声は抑えたつもりだったのに、周囲の人間は俺たちのあいだに流れるピリピリとした雰囲気を感じとったようだった。とっさにシュウに目をやると、目をまるくしてこちらを見ている。
自分は、冷静な人間だと思う。でもいまは、なぜか腹が立って仕方なかった。これまで俺に関わってこなかった先輩がなぜいまさらこうして声をかけてくるのか、皆目見当がつかないことに怯えている自分がいた。
「なあ、ちょっと剣持借りていい?」
俺がうつむいて会話を拒否しているうちに、先輩は駄菓子屋を切り盛りしているクラスメイトに声をかけていた。俺たちの様子をうかがっていたその女子は、急に話しかけられたことに驚いたようだったけれど、先輩に声をかけられた勢いのまま「どうぞ」と俺を差しだした。
「ほら、いくぞ」
「え、ちょっと」
そこに俺の意志は存在していなかった。先輩に腕を掴まれて、教室の外へと連れだされる。抵抗しようと思えばできた。それなのにされるがままになっていたのはどうしてだろう。
思い思いの服を着て思い思いの話をする人並みをかきわけ、屋上へ続く階段の踊り場へと着いたとき、掴まれていた腕が解放された。先輩が、くるりとこちらを向く。高い位置にある窓から陽が射しているのに、ここは暗くじめじめしていて、ふたり分の影もできなかった。
「ごめんな、仕事してたのに」
「……いえ」
先輩の目は、俺の視線とおなじ高さにある。それでもなぜか、見あげているような感覚があった。部活に参加したことはないのに、山村先輩が年長者であり、部を統べていたひとであるという事実は身体に擦りこまれている。
「俺はさ、お前に逃げてほしくないんだよ」
逃げるということばに、心臓がどくんとひとつ脈を打つ。中学最後の新人戦で見た水彩絵の具の空や、初夏の体育祭で感じたスローモーションの走りが、映画のダイジェストみたいに脳裏によみがえった。
「走るの好きなんだろ。見てたらわかる」
まっすぐに、先輩がこちらを見ている。俺は目を合わせることができなくて、階段の隅に溜まったほこりを見ていた。
「……俺は、走っていられればそれでいいんです」
いつかも言ったその台詞をもう一度、自分の心に確かめながら口にする。グラウンドに吹く風を浴びているわけでもないのに、口のなかがじゃりじゃりと音を立てているような不快感があった。
「じゃあ、なんで陸上部に入った?」
責める声音ではなかった。それなのに、ほんのすこしだけ後ずさりしてしまう。
「それは」
走る理由がほしかったからだ。陸上部なら、なにもかもを顧みずに走っていてもとやかく言われないと、そう思った。そして実際に、俺の目論見は成功している。
「お前がタイムにこだわりたくないのは知ってる。でもうちの部に入ったのは、完全に競技から離れることもできなかったからだろ」
畳みかけるようなことばに、ほんとうにそうなのだろうかと自問する。先輩の言うとおりだとも思う。陸上部でなくたって、走ることはできるのだから。どこかで未練があったのだろうか。でもいまは、考えてもよくわからなかった。
「いますぐ答えだそうとしなくてもいいよ。でも考えてほしい」
顔はあげられなかったけれど、その声はほほえんでいるように聞こえた。
「もう一緒には走れないけどさ。走るのが好きなら、走っててほしいんだ」
じゃあな、と先輩が階段を降りていく。目だけで背中を追いかけると、その手にはまだ棒ゼリーが握られていた。
教室に戻りたくないと、そう思った。屋上に続く扉の前までいって腰をおろす。階段の下からは、聞きとれないほど混ざり合ったたくさんの声が聞こえた。教室にいけばクラスメイトの目が気になる。心配しているはずのシュウに状況を説明することも、いまはできそうにない。ほかにいける場所を探したら、陸上部の部室しかなかった。ひざを抱えて、ふと笑いがこぼれる。自分の居場所だと思っているくせに、俺はあの場所から逃げているのだ。
先輩のことばを反芻する。校内のざわめきが聞こえなくなるまで、俺はそこでじっとしていた。
俺たちのクラスは、駄菓子屋に合わせて各々が法被を持参していた。地元で使われている茶の生地に車輪の絵柄がついている法被を着る俺に対して、シュウは白地に黒の吉原つなぎが入った法被を着ていた。きれいに折り目のついた真っ白な法被に袖を通すと、背が高くひょろりとしたシュウの印象はより頼りなくなる。実際、行事があるときにはいつもそうだけれど、シュウはひとりぽつんと教室の隅に立って、所在なさそうにしていた。
縁日をイメージした内装にした教室は、それなりに客が入っている。シュウは水ヨーヨーの浮かんだビニールプールの担当だった。
俺は駄菓子屋の店番をしていて、売れていった駄菓子の補充をする役割を振られていた。俺もシュウも決して愛想がいいほうではないということくらいわかっているクラスメイトは、客と関わらなくていいポジションを与えてくれた。正直に言ってたのしくはないけれど、だいたいの学校行事はつまらないものだ。
こういうとき、武本がいたら俺とシュウのあいだを行き来してどうでもいい話をしているだろう。そしてその合間に客にもクラスメイトにも声をかけ、ニコニコと人懐こい笑みを浮かべていたはずだ。俺はひとりでも構わない。けれど、普段話すことのないやつらにぎこちなく笑っているシュウを見ていると、武本がいてくれたらと思わずにはいられなかった。
陸上部が出発する前に武本が教室にやってきて、文化祭に参加できないことを心底悔しがっていった。俺が持っていない陸上部のジャージを着た武本は、こんなのより法被が着たかったと言って、でもとても軽い足取りで手を振って出ていったのだ。その背中に入っている陸上部という筆文字は、武本の後姿によく似合っていた。
俺は一度も袖を通したことのないジャージだ。着たいと思ったことも、一度だってない。
「よう、流行ってるな」
売れ行きのいい棒菓子の在庫を出していると、山村先輩が顔を覗かせた。普段たくさんの取り巻きに囲まれているのに、ひとりで行動することに抵抗がないひとだった。
首を縮めて会釈だけしてみせたのは、話すことはないと思ったからだ。これちょうだいと言って、長いゼリーを手にとった先輩からお金をもらって、帳簿にペンを走らせる。ここは駄菓子屋だ。用が済んだなら帰ればいいのに、先輩は俺のそばを離れない。
「……大会、ついていかなかったんですか」
俺から話しかけなければ一生そこに立っているのではないかと思うほど、こちらを意識しているのがわかった。棒ゼリーを咥えながら、先輩がまあな、と返事をする。
「俺がいたって、いまの部長がやりづらいだけだろ」
二年間一緒に活動していた新部長でさえやりづらいのなら、名ばかり部員の俺の居心地の悪さなど比べることもできないはずだと、それくらい考えてくれてもいいのに。会話を続ける気にもなれなくて、補充が終わった机のうえの商品を、とくに意味もなく整理してみたりする。
「お前こそ、出場しなくてよかったのか」
商品を触るために伸ばしていた腕が止まらないよう成功して安堵した。それは何度も訊かれ、そして何度も否定したことばだった。
普段、自分は冷静なほうなのだと思う。他人に興味がないと言われて、たしかにそのとおりだとも思う。だからこそたいていのことには動揺しないでいられたし、声を荒げたりすることもない。
「競技会に出るつもりはないって、入部したときから言ってます」
俺が入学した当時、山村先輩は部長ではなかった。俺のわがままを許した当時の部長はもう卒業してしまったけれど、二年前、山村先輩だって俺のことを受け入れたはずだ。
「でも、走るのはやめてないだろ」
「……黙ってください!」
声は抑えたつもりだったのに、周囲の人間は俺たちのあいだに流れるピリピリとした雰囲気を感じとったようだった。とっさにシュウに目をやると、目をまるくしてこちらを見ている。
自分は、冷静な人間だと思う。でもいまは、なぜか腹が立って仕方なかった。これまで俺に関わってこなかった先輩がなぜいまさらこうして声をかけてくるのか、皆目見当がつかないことに怯えている自分がいた。
「なあ、ちょっと剣持借りていい?」
俺がうつむいて会話を拒否しているうちに、先輩は駄菓子屋を切り盛りしているクラスメイトに声をかけていた。俺たちの様子をうかがっていたその女子は、急に話しかけられたことに驚いたようだったけれど、先輩に声をかけられた勢いのまま「どうぞ」と俺を差しだした。
「ほら、いくぞ」
「え、ちょっと」
そこに俺の意志は存在していなかった。先輩に腕を掴まれて、教室の外へと連れだされる。抵抗しようと思えばできた。それなのにされるがままになっていたのはどうしてだろう。
思い思いの服を着て思い思いの話をする人並みをかきわけ、屋上へ続く階段の踊り場へと着いたとき、掴まれていた腕が解放された。先輩が、くるりとこちらを向く。高い位置にある窓から陽が射しているのに、ここは暗くじめじめしていて、ふたり分の影もできなかった。
「ごめんな、仕事してたのに」
「……いえ」
先輩の目は、俺の視線とおなじ高さにある。それでもなぜか、見あげているような感覚があった。部活に参加したことはないのに、山村先輩が年長者であり、部を統べていたひとであるという事実は身体に擦りこまれている。
「俺はさ、お前に逃げてほしくないんだよ」
逃げるということばに、心臓がどくんとひとつ脈を打つ。中学最後の新人戦で見た水彩絵の具の空や、初夏の体育祭で感じたスローモーションの走りが、映画のダイジェストみたいに脳裏によみがえった。
「走るの好きなんだろ。見てたらわかる」
まっすぐに、先輩がこちらを見ている。俺は目を合わせることができなくて、階段の隅に溜まったほこりを見ていた。
「……俺は、走っていられればそれでいいんです」
いつかも言ったその台詞をもう一度、自分の心に確かめながら口にする。グラウンドに吹く風を浴びているわけでもないのに、口のなかがじゃりじゃりと音を立てているような不快感があった。
「じゃあ、なんで陸上部に入った?」
責める声音ではなかった。それなのに、ほんのすこしだけ後ずさりしてしまう。
「それは」
走る理由がほしかったからだ。陸上部なら、なにもかもを顧みずに走っていてもとやかく言われないと、そう思った。そして実際に、俺の目論見は成功している。
「お前がタイムにこだわりたくないのは知ってる。でもうちの部に入ったのは、完全に競技から離れることもできなかったからだろ」
畳みかけるようなことばに、ほんとうにそうなのだろうかと自問する。先輩の言うとおりだとも思う。陸上部でなくたって、走ることはできるのだから。どこかで未練があったのだろうか。でもいまは、考えてもよくわからなかった。
「いますぐ答えだそうとしなくてもいいよ。でも考えてほしい」
顔はあげられなかったけれど、その声はほほえんでいるように聞こえた。
「もう一緒には走れないけどさ。走るのが好きなら、走っててほしいんだ」
じゃあな、と先輩が階段を降りていく。目だけで背中を追いかけると、その手にはまだ棒ゼリーが握られていた。
教室に戻りたくないと、そう思った。屋上に続く扉の前までいって腰をおろす。階段の下からは、聞きとれないほど混ざり合ったたくさんの声が聞こえた。教室にいけばクラスメイトの目が気になる。心配しているはずのシュウに状況を説明することも、いまはできそうにない。ほかにいける場所を探したら、陸上部の部室しかなかった。ひざを抱えて、ふと笑いがこぼれる。自分の居場所だと思っているくせに、俺はあの場所から逃げているのだ。
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