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【番外】きみとかさねる毎日を
【番外】きみとかさねる毎日を
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路線バスに乗りこむと、一番後ろの席にシュウがいた。梅雨が明けたばかりでやっと顔を出した太陽が、自分の明るさを知らしめようとするかのように光を放っている。窓から容赦なく入りこんでくる陽射しのせいで、エアコンで冷えた車内は濃い影に包まれていた。
「暑いな」
「そうだね。バス降りたら地獄だよ」
たったいま乗りこんだ俺とはちがって、シュウはずいぶん長い時間バスに揺られている。それでも紺のシャツの首元に風を送りこむ仕草をしてみせながら、にこにこと笑ったシュウはうれしそうだった。
田んぼを見おろす土手のうえを、バスが駆け抜けていく。車内には数えるほどしかひとがいなくて、俺とシュウがときたま交わすちいさな会話ですら、運転手に聞こえてしまいそうだった。
梅雨が明けたら海にいこう。そう約束したのは、期末テストの勉強をしているときだった。相変わらず学年上位を保っているシュウに教えてもらいながら、俺は去年よりずっと真剣に教科書に向き合っていた。ノートに描かれたたくさんの横棒を、シュウはもう隠そうとはしなくなっている。そして俺も、そのらくがきに目をやることも、触れることもしないようにしていた。ノートの隅にある横棒を、ただそこにあるものとして受け入れるのだ。
「海いきたいな」
テストから逃避するように漏れた俺のことばに、シュウが顔をあげる。廊下側の席は、窓際からの光も入ってこなくてしんみりとしていた。三年の期末というだけあって、教室にはほかにもいくつかのグループが残っている。
「いこうよ」
答えを求めていないただのひとりごとだったのに、そうして反応が返ってきたことに驚いた。夏の海という、シュウにはとびきり不似合いな場所に誘われたことも予想外だった。
「修学旅行の、リベンジしよう」
まっすぐな瞳をしたシュウがほほえむ。逆光のなかのその笑みにどきりとした。たがいの心にずっと引っかかっていたはずのあの日のことを、シュウはやり直そうと言ってくれた。
「俺はいいよ、ふたりでいってこいって」
武本も誘ったのに、またいつものにかっとした笑顔で断られた。とっくに引退したのにまだ部活に顔を出したいと言っていたけれど、きっと気を遣ってくれたのだ。シュウが以前よりずっとおだやかな顔をするようになったと、武本がさみしそうに、でもうれしそうに話していたことがあった。
そうして期末テストの結果が帰ってくると同時に梅雨が明け、約束どおり俺たちは、路線バスで海へと向かっている。
窓の外には山と畑、それに田んぼといった田舎の景色が、陽射しを浴びて目に痛いほど光っていた。徐々に山のうえへと坂をのぼっていくバスの冷気に揺られて、いま、夢のなかにいるんじゃないかという錯覚に襲われる。もやもやとした視界を晴らそうと、シュウに話しかけようとしたときだった。
坂をのぼりきった車窓から、光を受けて輝く海が見えた。沖縄で見たのとはちがう、色にすら質量を持った黒い海が俺たちを待っていた。
そのまま坂をくだり、魚市場の連なる通りでバスを降りる。ほこりっぽいエアコンのにおいから解放されるのと入れ替わりに、濃厚な磯のにおいに身体中が包まれる。砂浜に出ると、青い空の向こうに佐渡島が見えた。
ちょうどいい流木に腰かけると、シュウも並んでそこに座った。
「ついたな」
「うん」
七分丈のパンツから出したすねが、太陽にじりじりと焼かれる。シュウの紺のシャツが熱を持っていて、すぐそばにある腕が熱かった。
「遊ばなくていいの」
うかがうように尋ねるシュウに、「いいや」と首をすくめてみせる。
「お前こそこんなとこで座ってていいの」
「わかってて言ってるんだもんな、明は」
はは、とシュウが笑いながら海をまぶしそうに見つめた。
この場所にきて、なにかをしようなんて考えてはいなかった。ただなんとなく海が見たくて、ただなんとなく、シュウとどこかにいきたかっただけだ。
遠くの浜で、ランニングをしているひとがいる。蛍光色のウェアが、黒い海のそばでやけに目立っていた。見ていると、足がうずうずしてくる。
「走って帰るか」
「やだよ。暑いし、体力ないし」
明だけ走っていけば、と冷たい顔をしてみせてから、耐えきれなくなったようにシュウが笑う。その横顔から目をそらして果ての見えない海を見つめると、シュウもおなじようにして前を向いた。
「……たのしい?」
海を見たままのシュウが、海風にかき消されそうなしずかな声でそう言った。聞こえなくてもいいと、そう思ったのかもしれないそのことばは、すぐとなりにいる俺にはしっかりと届いている。
「たのしいよ」
こうしてシュウと過ごす日常は、おだやかで、ゆるやかで、とてもたのしい。満ち足りた気持ちというのは、こういうことを言うのだ。そっか、とほほえんだシュウに、俺もおなじようにほほえみ返した。
「暑いな」
「そうだね。バス降りたら地獄だよ」
たったいま乗りこんだ俺とはちがって、シュウはずいぶん長い時間バスに揺られている。それでも紺のシャツの首元に風を送りこむ仕草をしてみせながら、にこにこと笑ったシュウはうれしそうだった。
田んぼを見おろす土手のうえを、バスが駆け抜けていく。車内には数えるほどしかひとがいなくて、俺とシュウがときたま交わすちいさな会話ですら、運転手に聞こえてしまいそうだった。
梅雨が明けたら海にいこう。そう約束したのは、期末テストの勉強をしているときだった。相変わらず学年上位を保っているシュウに教えてもらいながら、俺は去年よりずっと真剣に教科書に向き合っていた。ノートに描かれたたくさんの横棒を、シュウはもう隠そうとはしなくなっている。そして俺も、そのらくがきに目をやることも、触れることもしないようにしていた。ノートの隅にある横棒を、ただそこにあるものとして受け入れるのだ。
「海いきたいな」
テストから逃避するように漏れた俺のことばに、シュウが顔をあげる。廊下側の席は、窓際からの光も入ってこなくてしんみりとしていた。三年の期末というだけあって、教室にはほかにもいくつかのグループが残っている。
「いこうよ」
答えを求めていないただのひとりごとだったのに、そうして反応が返ってきたことに驚いた。夏の海という、シュウにはとびきり不似合いな場所に誘われたことも予想外だった。
「修学旅行の、リベンジしよう」
まっすぐな瞳をしたシュウがほほえむ。逆光のなかのその笑みにどきりとした。たがいの心にずっと引っかかっていたはずのあの日のことを、シュウはやり直そうと言ってくれた。
「俺はいいよ、ふたりでいってこいって」
武本も誘ったのに、またいつものにかっとした笑顔で断られた。とっくに引退したのにまだ部活に顔を出したいと言っていたけれど、きっと気を遣ってくれたのだ。シュウが以前よりずっとおだやかな顔をするようになったと、武本がさみしそうに、でもうれしそうに話していたことがあった。
そうして期末テストの結果が帰ってくると同時に梅雨が明け、約束どおり俺たちは、路線バスで海へと向かっている。
窓の外には山と畑、それに田んぼといった田舎の景色が、陽射しを浴びて目に痛いほど光っていた。徐々に山のうえへと坂をのぼっていくバスの冷気に揺られて、いま、夢のなかにいるんじゃないかという錯覚に襲われる。もやもやとした視界を晴らそうと、シュウに話しかけようとしたときだった。
坂をのぼりきった車窓から、光を受けて輝く海が見えた。沖縄で見たのとはちがう、色にすら質量を持った黒い海が俺たちを待っていた。
そのまま坂をくだり、魚市場の連なる通りでバスを降りる。ほこりっぽいエアコンのにおいから解放されるのと入れ替わりに、濃厚な磯のにおいに身体中が包まれる。砂浜に出ると、青い空の向こうに佐渡島が見えた。
ちょうどいい流木に腰かけると、シュウも並んでそこに座った。
「ついたな」
「うん」
七分丈のパンツから出したすねが、太陽にじりじりと焼かれる。シュウの紺のシャツが熱を持っていて、すぐそばにある腕が熱かった。
「遊ばなくていいの」
うかがうように尋ねるシュウに、「いいや」と首をすくめてみせる。
「お前こそこんなとこで座ってていいの」
「わかってて言ってるんだもんな、明は」
はは、とシュウが笑いながら海をまぶしそうに見つめた。
この場所にきて、なにかをしようなんて考えてはいなかった。ただなんとなく海が見たくて、ただなんとなく、シュウとどこかにいきたかっただけだ。
遠くの浜で、ランニングをしているひとがいる。蛍光色のウェアが、黒い海のそばでやけに目立っていた。見ていると、足がうずうずしてくる。
「走って帰るか」
「やだよ。暑いし、体力ないし」
明だけ走っていけば、と冷たい顔をしてみせてから、耐えきれなくなったようにシュウが笑う。その横顔から目をそらして果ての見えない海を見つめると、シュウもおなじようにして前を向いた。
「……たのしい?」
海を見たままのシュウが、海風にかき消されそうなしずかな声でそう言った。聞こえなくてもいいと、そう思ったのかもしれないそのことばは、すぐとなりにいる俺にはしっかりと届いている。
「たのしいよ」
こうしてシュウと過ごす日常は、おだやかで、ゆるやかで、とてもたのしい。満ち足りた気持ちというのは、こういうことを言うのだ。そっか、とほほえんだシュウに、俺もおなじようにほほえみ返した。
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