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12.想いが重なる
12-③
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いまにも雨が降りだしそうな灰色の空を見あげる。深呼吸をすると、冷えた空気で肺が満たされた。靴紐を結びなおし屈伸をして、ひざに手を置きながらもう一度ちいさく深呼吸をする。左足をぐっと踏み出して、右足を蹴りあげた。さらさらとした風が頬を撫でて、心拍と体温があがる身体をなだめていく。
グラウンドのほうにまわれば稲刈りが済んで丸坊主になった田んぼが広がっていた。ほんのすこし前までたわわに実った穂で頭を垂れていた稲がなくなったその光景は、秋らしいさみしさによく似合っていた。慣れ親しんだ住宅街の道を、息が切れないスピードで駆け抜ける。紅葉するにはまだ早いけれど確実に緑の色を失いつつある草木が、秋の深まりを感じさせた。
夏とはあきらかにちがう色をしたグラウンドでは、陸上部がそれぞれの部門に分かれて練習をしていた。これから走るのだろうか、ストレッチをしている武本の姿も見えた。
修学旅行のあいだもランニングを欠かさなかった部活は、べつに横暴だったわけでもなんでもないのだと改めて思う。文化祭以来まったく走っていなかった俺は、もとあった感覚を取り戻すのにずいぶん時間がかかった。昔から一日休めば取り戻すのに三日かかると言うけれど、もしそれがほんとうなのだとしたら俺はまだ本調子ではないのかもしれない。
一時間でランニングを切りあげて、校舎の玄関へと向かう。
「シュウ」
呼びかけると、下駄箱の前でじっと座っていたシュウが「あきら」と顔をほころばせた。衣替えを終えてブレザーを身につけたシュウは、真っ白なシャツを着ているだけのときよりもずっとすっきりした顔をしている。
走ることを再び習慣にするのに時間がかかったのは、走る時間を減らしたせいでもあった。ふたりですごす放課後の時間がなんとなく増えていたからだ。ふたりの時間を作る特別な約束をしたわけではなかったけれど、修学旅行のあとすぐにやってきた中間テストの勉強を一緒にしているうちにいつのまにかできた日課だった。
信じきれなくてごめんと、シュウはあの日浜辺で言った。シュウは、なにも悪くなかった。信じたいと、気持ちを伝えても逃げないと、そう思ってもらえるだけの時間を、俺が築けていなかっただけのことだ。
だから、たくさん話をしようと決めた。すこしずつ埋めてきた距離を、もっと近づけるための、それはちいさな願いだ。
「おつかれ」
差しだされたタオルを受けとって首筋にあてる。ずっと握りしめていたのかもしれない、青色のタオルはあたたかくて、やわらかだった。
シュウを先に教室へいかせると、武本の靴箱から鍵を出して部室で着替えた。室内の壁一面に備えつけられた棚に並ぶさまざまなシューズを眺める。毎日使っている場所なのになぜかなつかしいと、そう思った。
階段をあがって、教室に戻る。だれもいないその部屋の窓際、椅子の背を抱えて俺の席の前に座ったシュウが、机のうえに肘をついて外を見ていた。後ろから見えるシュウの、えりあしが長くなって首元にかかっている。席替えをして以来、シュウの背中を見ることはずいぶんすくなくなった。武本と三人で歩くとき、いまでもシュウは俺の左側を、すこし後ろをついてくるように歩く。それがシュウらしさなのだと、いまは思う。
「お待たせ」
「なに見てたんだ」と、足音に気づいて顔をあげたシュウに声をかける。尋ねられたことが心底うれしいとでも言いたげな表情でシュウが笑った。
「秋だなあって」
中庭のイチョウは徐々に黄みを帯びてきているし、芝生も夏の青々とした色とはあきらかにちがう。走りながら俺が思っていたのとおなじことをシュウも感じているという事実が、たまらなくうれしい。
「そりゃ、萩原秋平くんが生まれた日だからな」
言いながら椅子に座ると、シュウが頬杖をついたまま見あげてきて、また笑った。
「秋に生まれたから秋平って、ほんと安易だよね」
「そうかな」
また窓の外に顔を向けたシュウの横顔がどこかさみしそうに見えて、俺はその鼻筋をそっと見ていた。
「俺が生まれたとき、病院から見えた景色を秋だなって思ったんだって」
母さんが言ってた、とシュウはつぶやいた。「生きてるのってしんどいね」と、いつかこぼしたときとおなじ色をした瞳に、中庭のイチョウが映っていた。
「それから十七年間生きてきたんだな」
「……うん」
「それで、いまも生きてるんだな」
どんなことばで言ったら、シュウに伝わるだろうか。考えても考えても、偉そうなことは言えそうになかったし、俺たちのあいだには不似合いだとも思えて、俺はただ、事実だけを目の前に並べた。追いつめるような口調にならないよう、やわらかく、やさしく聞こえるように。
「……うん」
やっとこちらを向いたシュウが、眉をさげて笑う。お決まりになったその表情にもずいぶん慣れた。すこしずつでいいのだ。すこしずつ慣れて、すこしずつ変わっていけば。
「というわけで、おめでとう。ずっと持ってたからぬるくなったけど」
茶化しながら、手に握っていた野菜ジュースのパックを机のうえに置く。それを見てシュウは、ありがとうと言ってたのしそうに笑った。
グラウンドのほうにまわれば稲刈りが済んで丸坊主になった田んぼが広がっていた。ほんのすこし前までたわわに実った穂で頭を垂れていた稲がなくなったその光景は、秋らしいさみしさによく似合っていた。慣れ親しんだ住宅街の道を、息が切れないスピードで駆け抜ける。紅葉するにはまだ早いけれど確実に緑の色を失いつつある草木が、秋の深まりを感じさせた。
夏とはあきらかにちがう色をしたグラウンドでは、陸上部がそれぞれの部門に分かれて練習をしていた。これから走るのだろうか、ストレッチをしている武本の姿も見えた。
修学旅行のあいだもランニングを欠かさなかった部活は、べつに横暴だったわけでもなんでもないのだと改めて思う。文化祭以来まったく走っていなかった俺は、もとあった感覚を取り戻すのにずいぶん時間がかかった。昔から一日休めば取り戻すのに三日かかると言うけれど、もしそれがほんとうなのだとしたら俺はまだ本調子ではないのかもしれない。
一時間でランニングを切りあげて、校舎の玄関へと向かう。
「シュウ」
呼びかけると、下駄箱の前でじっと座っていたシュウが「あきら」と顔をほころばせた。衣替えを終えてブレザーを身につけたシュウは、真っ白なシャツを着ているだけのときよりもずっとすっきりした顔をしている。
走ることを再び習慣にするのに時間がかかったのは、走る時間を減らしたせいでもあった。ふたりですごす放課後の時間がなんとなく増えていたからだ。ふたりの時間を作る特別な約束をしたわけではなかったけれど、修学旅行のあとすぐにやってきた中間テストの勉強を一緒にしているうちにいつのまにかできた日課だった。
信じきれなくてごめんと、シュウはあの日浜辺で言った。シュウは、なにも悪くなかった。信じたいと、気持ちを伝えても逃げないと、そう思ってもらえるだけの時間を、俺が築けていなかっただけのことだ。
だから、たくさん話をしようと決めた。すこしずつ埋めてきた距離を、もっと近づけるための、それはちいさな願いだ。
「おつかれ」
差しだされたタオルを受けとって首筋にあてる。ずっと握りしめていたのかもしれない、青色のタオルはあたたかくて、やわらかだった。
シュウを先に教室へいかせると、武本の靴箱から鍵を出して部室で着替えた。室内の壁一面に備えつけられた棚に並ぶさまざまなシューズを眺める。毎日使っている場所なのになぜかなつかしいと、そう思った。
階段をあがって、教室に戻る。だれもいないその部屋の窓際、椅子の背を抱えて俺の席の前に座ったシュウが、机のうえに肘をついて外を見ていた。後ろから見えるシュウの、えりあしが長くなって首元にかかっている。席替えをして以来、シュウの背中を見ることはずいぶんすくなくなった。武本と三人で歩くとき、いまでもシュウは俺の左側を、すこし後ろをついてくるように歩く。それがシュウらしさなのだと、いまは思う。
「お待たせ」
「なに見てたんだ」と、足音に気づいて顔をあげたシュウに声をかける。尋ねられたことが心底うれしいとでも言いたげな表情でシュウが笑った。
「秋だなあって」
中庭のイチョウは徐々に黄みを帯びてきているし、芝生も夏の青々とした色とはあきらかにちがう。走りながら俺が思っていたのとおなじことをシュウも感じているという事実が、たまらなくうれしい。
「そりゃ、萩原秋平くんが生まれた日だからな」
言いながら椅子に座ると、シュウが頬杖をついたまま見あげてきて、また笑った。
「秋に生まれたから秋平って、ほんと安易だよね」
「そうかな」
また窓の外に顔を向けたシュウの横顔がどこかさみしそうに見えて、俺はその鼻筋をそっと見ていた。
「俺が生まれたとき、病院から見えた景色を秋だなって思ったんだって」
母さんが言ってた、とシュウはつぶやいた。「生きてるのってしんどいね」と、いつかこぼしたときとおなじ色をした瞳に、中庭のイチョウが映っていた。
「それから十七年間生きてきたんだな」
「……うん」
「それで、いまも生きてるんだな」
どんなことばで言ったら、シュウに伝わるだろうか。考えても考えても、偉そうなことは言えそうになかったし、俺たちのあいだには不似合いだとも思えて、俺はただ、事実だけを目の前に並べた。追いつめるような口調にならないよう、やわらかく、やさしく聞こえるように。
「……うん」
やっとこちらを向いたシュウが、眉をさげて笑う。お決まりになったその表情にもずいぶん慣れた。すこしずつでいいのだ。すこしずつ慣れて、すこしずつ変わっていけば。
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