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1.マイヒーロー
1-③
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「まゆさん、もうちょっとカワイイ絵文字とか使えないんですかねえ」
助手席に乗りこむと、真登が苦笑しながら茶化した。バックミラーの下で、まっしろなドリームキャッチャーが揺れる。細くなった瞳から、こちらに向けられるまなざしがやさしい。だけど、わたしはそのひとことで、簡単に落ちこむことができる。真登の笑いかたも、口調も、わたしをからかうためのものだとちゃんとわかっているのに、深く、深く傷つく。彼の言葉にではなくて、自分の情けなさに。
スマートフォンで受けとるメッセージには味がある。
画面に映る文字を食べられるわけがないのだけど、真登の言葉を受けとった瞬間、いつも、ほっとやわらかなため息が出る。ひどい吹雪のなかを歩いて帰ってきてから、あたたかなコタツであたたかな豚汁を口にしたときとおなじ気持ちになる。いまは夏だけど、たしかにその感情を思い起こすことができる。
反対に、わたしが送る文章は、子どものころ食べたオブラートみたいなのだと思う。味のしない不快な膜がのどに張りついたかと思えば、すぐに消えてどこかへなくなってしまう。そういう性質のものなのだ。
「……ごめん」
「うそだよ。そういうとこも好きだから」
だいじょぶだって。そのことばに、無言を返すことしかできなかった。真登から与えられる屈託のない笑顔は、わたしを自由にもするし窮屈にもする。照れることなく思いを口にできる真登は、強く、そしてまっすぐで、いつもまぶしい。彼の笑顔は、無敵だ。
「よし、じゃいつものとこな」
真登の足がアクセルを踏み、車がゆっくりと走りだす。見あげた時計台は、十六時をすこし過ぎた時刻を示していた。
「まゆちゃん、今日は早く帰ってくれるう?」
両手で数えてもあまるくらいのお客さんを迎えて、学校帰りの小学生がアーケードを駆けはじめたころ、恵美子さんがひょっこり顔を出して笑った。髪をあげてさらされた首筋に、店内をまわるエアコンの風があたって寒いくらいだった。
今日は、というのはうそで、わたしは毎日、あらかじめ決められた時間よりも早く、仕事をあがるよう促される。それは本来の時間の十五分まえだったり、一時間まえだったりするのだけど、とにかく、わたしが定時まで働いていたことは一度もない。父の手前、受け入れるしかなかったのだろうけど、きっとこの店にわたしは不要なのだ。でも、そんなことがなんだっていうのだろう。わたしが必要な存在じゃないことくらい、よく知っている。
身支度を整えて、いつも眺めているだけのガラス戸から外に出ると、蝉の声と熱気が、質量をともなって襲いかかってきた。寒くもないのに、ブラウスから伸びた腕に鳥肌が立つ。陽射しに目が慣れるまで、ぎゅっとまぶたを閉じてじっとしていた。さっきまでわたしが座っていた丸椅子に腰かけた、恵美子さんの笑顔が頭に浮かぶ。じわりと、背筋に不快な汗がにじんだ。
気づくと、パンツのポケットでスマートフォンが震えているのがわかった。すぐに止まった振動に気づかなかったふりをしようか、一瞬だけ迷って、ちいさな機械を取りだす。メッセージの送り主は、予想どおり真登だった。
『おわった? 迎えいく』
毎度のことながら、このひとはどうして早まったわたしの退勤時間がわかるのだろうと不思議に思う。真登の動物的な勘は、いままで出会っただれよりも鋭い。わたしが出会ったひとの数なんて、統計が取れるほど多くはないのだけれど。
『終わった。公園で待ってる』
わたしたちが待ち合わせる場所はいつも一緒だった。尾板の町は、信濃川の岸に沿って縦に長く広がっている。そこから分岐したちいさな川の河川敷に、町とおなじように縦長の公園があった。尾板の子どもは、みんなここで遊んで育つ。公園の入り口にある時計台は、いつもわたしたちの待ち合わせに使われていた。
決して立派とは言えないその場所に腰かけて、彼を待つ。道路に面した公園の端からでも、園内で笑い声をあげる子どもたちのようすが伝わってくる。ほとんど悲鳴にも似たその声を聞きながら、自分にもあった幼いころを思いだした。
里恵ちゃんも、真登も、わたしのちいさなころからの知り合いだった。幼稚園から中学校までおなじ顔ぶれで進級していくこの町では、子どものころからずっと顔見知りなのはあたりまえなのだけど、わたしたち三人は、そのなかでも特別な幼なじみだった。
「おつかれ」
車のドアを開けた瞬間から香った煙草のにおいに包まれて、シートに身体が沈みこんでいく。真登は高校生のころから煙とともに生きていて、いまでは車のなかを唯一の喫煙室にしていた。煙草の銘柄なんてわからない。ただ、おとうさんの纏うものとは違う煙のにおいに、わたしはいつも安心する。見知らぬ土地で、旧知の友人を見つけたときのような気持ち。里恵ちゃんや真登といるとき以外、この町は他人に等しい。この公園も、雪深堂も、
車どおりの多い県道も、いやと言うほどよく知っているのに、生まれてから十八年暮らしつづけているこの町に、わたしはそんな感想しか抱くことができない。
「暑いな」
そう言って、真登がエアコンの風を強くした。低い音で唸りながら、風が肌を撫でる。まっさらな綿のシャツに黒いダイバーズウォッチをはめた腕がハンドルを握りこんだ。春に免許を取ったばかりだけれど、真登の運転は安定していた。
彼の性格とおなじ、穏やかで慎重な運転に揺られながら、車内に流れる音楽に耳を傾ける。真登が長く好んで聴いているバンドのアルバムだ。バンドなんてちっともわからなかったのに、彼とつきあうようになってからずっと聴いている音の流れは、いつのまにかわたしに寄り添っている。
「今日は親父の知り合いの車いじったんだけどさ―」
見渡す限りの田んぼのなかを走り抜けながら、真登が今日のできごとを言葉にしていく。わたしはその声を受けとめて、ときおり相槌を打つ。
真登は父親の経営する自動車の整備工場で働いていて、就業時間の融通がきいた。彼に言わせれば、仕事の時間を自由にできるのは「おれになに言っても無駄だって親父はもう諦めている」からだそうなのだけれど、こうして車を買って維持することができるくらいには、真登はきちんと仕事をしている。
田植えから二ヶ月経つ田んぼは、青い稲が風に揺れて、さらさらと波を作っていた。真冬になれば、この広い場所は白一色で埋め尽くされて、落穂をついばむ白鳥の姿すら隠してしまう。その白が解けたら、尾板の町にも春がくる。
春がくれば、自分たちが何者か、わたしたちは自分で決めなくてはいけない。
「……今日、お店に加奈子のおかあさんがきたんだ」
こぼれ落ちたことばに、自分で驚いた。
「加奈子? 久しぶりに聞いたな、その名前」
で、なんか言われたの、と真登が声を硬くした。それでも赤信号に合わせて踏んだブレーキはやわらかくて、彼のこういうところを快く思った。
「あの子、大学受けるんだって。それ聞いただけ」
「ふうん」
それは、心底興味のなさそうな「ふうん」だった。
「ま、おれらには関係ないな」
返事をしないわたしに向かって、運転席から腕が伸びてきた。乾いてしっかりした真登の手のひらが、エアコンの風で冷えていた指先を包む。
な、と真登が横目で笑う。無敵のこの笑顔でも、わたしのひとりぼっちの気持ちが、晴れないことだってある。いまがまさにそのときだ。ありがと、と言って笑ってみせると、彼はうれしそうにハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
助手席に乗りこむと、真登が苦笑しながら茶化した。バックミラーの下で、まっしろなドリームキャッチャーが揺れる。細くなった瞳から、こちらに向けられるまなざしがやさしい。だけど、わたしはそのひとことで、簡単に落ちこむことができる。真登の笑いかたも、口調も、わたしをからかうためのものだとちゃんとわかっているのに、深く、深く傷つく。彼の言葉にではなくて、自分の情けなさに。
スマートフォンで受けとるメッセージには味がある。
画面に映る文字を食べられるわけがないのだけど、真登の言葉を受けとった瞬間、いつも、ほっとやわらかなため息が出る。ひどい吹雪のなかを歩いて帰ってきてから、あたたかなコタツであたたかな豚汁を口にしたときとおなじ気持ちになる。いまは夏だけど、たしかにその感情を思い起こすことができる。
反対に、わたしが送る文章は、子どものころ食べたオブラートみたいなのだと思う。味のしない不快な膜がのどに張りついたかと思えば、すぐに消えてどこかへなくなってしまう。そういう性質のものなのだ。
「……ごめん」
「うそだよ。そういうとこも好きだから」
だいじょぶだって。そのことばに、無言を返すことしかできなかった。真登から与えられる屈託のない笑顔は、わたしを自由にもするし窮屈にもする。照れることなく思いを口にできる真登は、強く、そしてまっすぐで、いつもまぶしい。彼の笑顔は、無敵だ。
「よし、じゃいつものとこな」
真登の足がアクセルを踏み、車がゆっくりと走りだす。見あげた時計台は、十六時をすこし過ぎた時刻を示していた。
「まゆちゃん、今日は早く帰ってくれるう?」
両手で数えてもあまるくらいのお客さんを迎えて、学校帰りの小学生がアーケードを駆けはじめたころ、恵美子さんがひょっこり顔を出して笑った。髪をあげてさらされた首筋に、店内をまわるエアコンの風があたって寒いくらいだった。
今日は、というのはうそで、わたしは毎日、あらかじめ決められた時間よりも早く、仕事をあがるよう促される。それは本来の時間の十五分まえだったり、一時間まえだったりするのだけど、とにかく、わたしが定時まで働いていたことは一度もない。父の手前、受け入れるしかなかったのだろうけど、きっとこの店にわたしは不要なのだ。でも、そんなことがなんだっていうのだろう。わたしが必要な存在じゃないことくらい、よく知っている。
身支度を整えて、いつも眺めているだけのガラス戸から外に出ると、蝉の声と熱気が、質量をともなって襲いかかってきた。寒くもないのに、ブラウスから伸びた腕に鳥肌が立つ。陽射しに目が慣れるまで、ぎゅっとまぶたを閉じてじっとしていた。さっきまでわたしが座っていた丸椅子に腰かけた、恵美子さんの笑顔が頭に浮かぶ。じわりと、背筋に不快な汗がにじんだ。
気づくと、パンツのポケットでスマートフォンが震えているのがわかった。すぐに止まった振動に気づかなかったふりをしようか、一瞬だけ迷って、ちいさな機械を取りだす。メッセージの送り主は、予想どおり真登だった。
『おわった? 迎えいく』
毎度のことながら、このひとはどうして早まったわたしの退勤時間がわかるのだろうと不思議に思う。真登の動物的な勘は、いままで出会っただれよりも鋭い。わたしが出会ったひとの数なんて、統計が取れるほど多くはないのだけれど。
『終わった。公園で待ってる』
わたしたちが待ち合わせる場所はいつも一緒だった。尾板の町は、信濃川の岸に沿って縦に長く広がっている。そこから分岐したちいさな川の河川敷に、町とおなじように縦長の公園があった。尾板の子どもは、みんなここで遊んで育つ。公園の入り口にある時計台は、いつもわたしたちの待ち合わせに使われていた。
決して立派とは言えないその場所に腰かけて、彼を待つ。道路に面した公園の端からでも、園内で笑い声をあげる子どもたちのようすが伝わってくる。ほとんど悲鳴にも似たその声を聞きながら、自分にもあった幼いころを思いだした。
里恵ちゃんも、真登も、わたしのちいさなころからの知り合いだった。幼稚園から中学校までおなじ顔ぶれで進級していくこの町では、子どものころからずっと顔見知りなのはあたりまえなのだけど、わたしたち三人は、そのなかでも特別な幼なじみだった。
「おつかれ」
車のドアを開けた瞬間から香った煙草のにおいに包まれて、シートに身体が沈みこんでいく。真登は高校生のころから煙とともに生きていて、いまでは車のなかを唯一の喫煙室にしていた。煙草の銘柄なんてわからない。ただ、おとうさんの纏うものとは違う煙のにおいに、わたしはいつも安心する。見知らぬ土地で、旧知の友人を見つけたときのような気持ち。里恵ちゃんや真登といるとき以外、この町は他人に等しい。この公園も、雪深堂も、
車どおりの多い県道も、いやと言うほどよく知っているのに、生まれてから十八年暮らしつづけているこの町に、わたしはそんな感想しか抱くことができない。
「暑いな」
そう言って、真登がエアコンの風を強くした。低い音で唸りながら、風が肌を撫でる。まっさらな綿のシャツに黒いダイバーズウォッチをはめた腕がハンドルを握りこんだ。春に免許を取ったばかりだけれど、真登の運転は安定していた。
彼の性格とおなじ、穏やかで慎重な運転に揺られながら、車内に流れる音楽に耳を傾ける。真登が長く好んで聴いているバンドのアルバムだ。バンドなんてちっともわからなかったのに、彼とつきあうようになってからずっと聴いている音の流れは、いつのまにかわたしに寄り添っている。
「今日は親父の知り合いの車いじったんだけどさ―」
見渡す限りの田んぼのなかを走り抜けながら、真登が今日のできごとを言葉にしていく。わたしはその声を受けとめて、ときおり相槌を打つ。
真登は父親の経営する自動車の整備工場で働いていて、就業時間の融通がきいた。彼に言わせれば、仕事の時間を自由にできるのは「おれになに言っても無駄だって親父はもう諦めている」からだそうなのだけれど、こうして車を買って維持することができるくらいには、真登はきちんと仕事をしている。
田植えから二ヶ月経つ田んぼは、青い稲が風に揺れて、さらさらと波を作っていた。真冬になれば、この広い場所は白一色で埋め尽くされて、落穂をついばむ白鳥の姿すら隠してしまう。その白が解けたら、尾板の町にも春がくる。
春がくれば、自分たちが何者か、わたしたちは自分で決めなくてはいけない。
「……今日、お店に加奈子のおかあさんがきたんだ」
こぼれ落ちたことばに、自分で驚いた。
「加奈子? 久しぶりに聞いたな、その名前」
で、なんか言われたの、と真登が声を硬くした。それでも赤信号に合わせて踏んだブレーキはやわらかくて、彼のこういうところを快く思った。
「あの子、大学受けるんだって。それ聞いただけ」
「ふうん」
それは、心底興味のなさそうな「ふうん」だった。
「ま、おれらには関係ないな」
返事をしないわたしに向かって、運転席から腕が伸びてきた。乾いてしっかりした真登の手のひらが、エアコンの風で冷えていた指先を包む。
な、と真登が横目で笑う。無敵のこの笑顔でも、わたしのひとりぼっちの気持ちが、晴れないことだってある。いまがまさにそのときだ。ありがと、と言って笑ってみせると、彼はうれしそうにハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
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