こもごも

ユウキ カノ

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6.ちがいを知っていく

6-③

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「わたしね、考えたの」
 翌日、いつもの場所で顔を合わせたえるのに、わたしは椅子に座るなり切りだした。
「どうしたのよ藪から棒に」
 ピンクのマフラーをスクールバッグにしまいながら、えるのはただでさえおおきな瞳をまんまるにして言った。
 雪深堂でのアルバイトの最中も、駅前にやってくるまでの道中も、ずっと考えていた。バスから見える空はいまにも雨が降りそうで、灰色というにも暗すぎる色をしていた。尾板だけに限らず、この地方は冬が近づくと世界に蓋をしたみたいに空の雲が厚く重くなる。いっしょに気持ちも沈み、ぐつぐつと煮こまれてもうわけがわからなかった。とにかくはやく、答えがほしかった。
 あのね、と前置きして赤い辞書を取りだす。えるのは勉強道具も出さずに、じっとわたしことを待っていた。そのことに心から安心した。
「これ見て」
 一晩開いたままにして、すっかり癖がついてしまった【勉強】のページを見せた。〔そうする事に抵抗を感じながらも、当面の学業や仕事などに身を入れる意〕の項を指さして、えるののまえに差しだす。
「ここに、やりたくないけどやるのが勉強だって書いてあるの」
 声が震えた。わたしたちが座るテラスにはほかにもたくさんの高校生がいて、冷たい風がそよぐなかで各々が本を開いて勉強している。彼らも、みんなほんとうはしたくもないことをしているのだろうか。そんなことのために、いまわたしたちはこの場所に集っているのだろうか。
 そう考えたら、こわくてじっとしていられなかった。
「それで?」
 文字を読み終わったえるのが顔をあげる。まだ髪も結っていない彼女は、幼く見えてうつくしかった。
「えるのは自分のために勉強してるって言ったでしょ」
 辞書を受け取り、胸に抱える。
「真登も―わたしの幼なじみも、自分のために勉強してる」
 えるのはわたしの真意を読み取ろうとしているのか、こちらをまっすぐ見つめていた。
「えるのの言うとおりなら、わたしも、辞書を読むのは嫌いじゃないよ」
 だんだん、なにを言おうとしていたのかわからなくなる。理由もなく涙が出そうになって、声を飲んだ。
「でもね、でも」
 自分のなかに入って邪魔しそうになる周囲の喧噪を、必死に心から追いだして思いだす。わたしが言いたいことは、なんだっただろう。
「まゆ、落ち着いて」
 えるのが肩をさすってくれた。どうして、こんなにパニックになっているんだろう。うつむいていた顔をあげてえるのを見ると、やさしい顔をして笑っていた。焦らなくても、えるのはどこにもいかない。息を吸って、口を開く。屋根の向こう側で、雨が降りだしたのがわかった。
「―どうしてえるのと辞書はちがうことを言うの。勉強は、自分のためにするものじゃないの。辞書は、ぜったいじゃないの」
 一息で言って、ふっと息が漏れた。どうしてこんなにも緊張したのか、考えてみてたどりつく。足元が揺らぐこと、それをだれかに告げること。そんなことが、わたしにとってははじめてだったのだ。自分の気持ちを伝えるのが、こんなにも心動くものだったなんて。
 雨の勢いがどんどん増していく。えるのは、わたしの訴えを黙って聞き終わると、髪の毛を結びはじめた。高い位置で結った髪にふわりと手で櫛を入れて、いつもどおりの、自信に満ちた笑顔で笑う。
 えるのが笑っている。すくなくともわたしは、変なことは言っていないのだ。それだけで、ひどく安心する。
 まゆ、とえるのが言った。辞書を持ったままのわたしの手をうえから包みこむ。そうされてはじめて、自分の手が冷えきっていたことに気づいた。
「まゆ、この世界には、正しいものはひとつじゃないの」
 そのとき、えるのがなにを言おうとしているのか、わたしには見当もつかなかった。だけど、その瞬間からわたしの人生がおおきく変わるような予感があって、雨も降っている暗い夕方なのに、頭上のライトがきらきらと輝いて見えた。
「ひとや学説によっていろんな答えがあって、でもそのどれもが間違ってはいないのよ」
 えるのが、祈るようにわたしの手を握りながらことばを発していた。彼女自身が自分に言い聞かせているみたいに、わたしになんとか理解させようとするみたいに、おおきなえるのの目にちからがこもっている。
「そのちがいを知っていくのが『勉強』だって、あたしは思ってるわ」
 ね、と真面目な顔をしていたえるのがほほえむ。なにがちがうとかだれがちがうとか、そんなことにいちいち心を砕いているのはもったいないわ、とえるのが言う。
「みんなちがうの。いろんなちがいがあって然るべきなのよ」
 すっと手を放し、えるのがスクールバッグから勉強道具を取りだす。あっというまにいつもの勉強机と化したテラスのテーブルに取り残されて、わたしはひとり呆けていた。
 とてつもないパワーが、突然目のまえに現れたみたいだった。いろんな答えがあること、
そしてそのどれもが間違っていないこと。生まれてはじめて、そんなふうに言われた。だれもそんなこと、教えてくれなかった。
 受けとめきれるわけがなかった。わたしの人生になかったことばが、考えかたが、流れ星みたいに突然やってきてわたしの世界を壊した。えるのの存在そのものといっしょだ。彼女も、彼女のことばも、わたしに知らない世界を連れてくる。壊れたわたしの世界に、これからいったいなにが起こるのか、わたしに予測もつかない。
「えるの、わたし、まだよくわからないけど、でも」
 笑いかける自分の瞳が、輝いているのがわかる。すでにペンを動かしていたえるのは、わたしの顔を見て、見たこともない無邪気な表情で笑った。
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