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8.春風吹く
8-③
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桜が満開になった。尾板の町じゅうに新たな芽吹きの香りと、畑をはじめたひとびとが使う堆肥のにおいが充満している。冬のあいだは雪なんてはやく消えてしまえばいいと願っていたのに、その姿が見えなくなってしまうと、それはそれでさみしさも覚えるような季節だった。
「進級おめでと」
「ありがとう。あなたもこれでやっと一歩ね」
「一歩のまえの一歩、だけどね」
えるのは高校三年生になり、また今年一年、付き合うことになる自分なりの制服を新調していた。去年のピンクから一転して、今年は水色のシャツにグレーのジャケットとスカートだ。シャツの胸のところにプリーツが入っている、お人形みたいなえるのによく似合う制服だった。
「忘れずに持ってきたわね」
「……うん」
えるのがわたしの手にある黄色の封筒を見やる。中身は、高卒認定の願書だった。待ちに待ったこの日をうれしく思う自分と、信じられない気持ちで迎える自分とで、泣きだしてしまいそうだ。
こんなにもたくさんの書類を相手にしたのは、人生ではじめてのことだった。高校に入ったときは、なんだかよくわからないうちに受験して、入試本番に気持ちのないまま高校生になっていた。だから今回、自分の名前をあんなに一生懸命に書いた記憶はなかったし、おなじ書面を穴が空くほど読み返して確認した経験もなかった。封筒に印刷されている「御中」という、読みかたもわからない文字に出会ったのもはじめてだ。
高校で取ったわずかな単位も、申請すれば試験の科目が免除になることを知って、通っていた高校に電話をかけたこともあった。当時の担任は、わたしが高卒認定を受けると聞いて「がんばってな」と言った。かつて真登のことを否定した教師のひとりであるそのひとのことばさえ、いまのわたしには心からの励ましに聞こえていた。それくらい、この一歩がわたしにもたらしている影響はおおきかった。それは、自分でもわかるくらいの変化だ。
里恵ちゃんも真登も知らないあいだに、いままでとはちがう新しい経験をしている自分がいた。そのことに、わたしは自分でおどろいていた。心がはやり、頭が追いつかなくなるとえるのに泣きついて冷静になり、またすこし急ぎすぎては立ちどまるのをくり返した。雪深堂で働き、勉強をし、また働いて勉強をした。勉強以外のなにものにも気持ちを向けない生活はひどく穏やかで、たとえ自分のなかで感情が渦を巻いていてもつらくはなかった。食べられないことも、眠れないことも、目標のためと思えば平気だった。
合格したら、里恵ちゃんに並び立つ人間になれる。それだけが、わたしの支えだった。
「さ、いってらっしゃい」
えるのに背中を押されて、郵便局へ踏みだす。いざ書類を送るときになったら、こわくてひとりでは出せなかったわたしに、えるのはつきあってくれた。
今日だけじゃない。高卒認定試験を受けると決めたとき、えるのは言ったのだ。「あたしのことは好きなように使いなさい」と。これまでのわたしなら、そのことばに寄りかかることすらできなかったはずなのに、えるのはわたしが彼女に遠慮すること自体を許さなかった。いつでもつよい口調で、自信に満ちた態度で、彼女はわたしの心をこじ開けた。
「あたしにどうしてほしいの」
「まゆのしたいことを言いなさい」
えるのはわたしに思いを口に出すことを強要し、でもいつも必ず、わたしの気持ちがことばになるまでじっと待っていた。彼女はこじ開けた心のドアの入り口に立ち、ぜったいにこちらには入ってこないまま、わたしが手を伸ばすのを待っているのだ。えるのの厳しさはやさしさだと、えるのは全身で、まなざしで教えてくれた。
だからわたしはえるのにわがままを言った。
「勉強を教えてほしい。いっしょに勉強してほしい」
そう告げたときの、えるのの顔を、わたしはときどき思いだす。初雪が降ってから数日、買ったばかりの問題集を手に、わたしはえるのに頭を下げた。あたたかなミルクティーのペットボトルとチョコレートのお菓子をテーブルに並べて、それがわたしに思いつくせいいっぱいの誠意だった。
「あら、もちろんそのつもりだったわよ。かしこまってるからなにかと思ったわ」
えるのはさも当然のように、髪に手を入れてばさりと梳いた。笑顔も見せない、真面目な顔をして、わたしより背の低いえるのが、わたしのことを見おろすように顎をあげている。コートを着ているのに、テラスの外には雪が積もっているのに、わたしの心のなかにはもう、春風が吹いていた。あれから、えるのはずっとそばにいてくれた。大雪が降ってバスが動かず会えなくても、メッセージを送りつづけてくれた。彼女がいるから、わたしはいま、ここに立っている。
「お願いします」
桜の香りのする風を背にして、郵便局の窓口に封筒を差しだす。願掛けをする代わりに、手をおなかのまえで組んで、ぎゅっと強く握った。
「進級おめでと」
「ありがとう。あなたもこれでやっと一歩ね」
「一歩のまえの一歩、だけどね」
えるのは高校三年生になり、また今年一年、付き合うことになる自分なりの制服を新調していた。去年のピンクから一転して、今年は水色のシャツにグレーのジャケットとスカートだ。シャツの胸のところにプリーツが入っている、お人形みたいなえるのによく似合う制服だった。
「忘れずに持ってきたわね」
「……うん」
えるのがわたしの手にある黄色の封筒を見やる。中身は、高卒認定の願書だった。待ちに待ったこの日をうれしく思う自分と、信じられない気持ちで迎える自分とで、泣きだしてしまいそうだ。
こんなにもたくさんの書類を相手にしたのは、人生ではじめてのことだった。高校に入ったときは、なんだかよくわからないうちに受験して、入試本番に気持ちのないまま高校生になっていた。だから今回、自分の名前をあんなに一生懸命に書いた記憶はなかったし、おなじ書面を穴が空くほど読み返して確認した経験もなかった。封筒に印刷されている「御中」という、読みかたもわからない文字に出会ったのもはじめてだ。
高校で取ったわずかな単位も、申請すれば試験の科目が免除になることを知って、通っていた高校に電話をかけたこともあった。当時の担任は、わたしが高卒認定を受けると聞いて「がんばってな」と言った。かつて真登のことを否定した教師のひとりであるそのひとのことばさえ、いまのわたしには心からの励ましに聞こえていた。それくらい、この一歩がわたしにもたらしている影響はおおきかった。それは、自分でもわかるくらいの変化だ。
里恵ちゃんも真登も知らないあいだに、いままでとはちがう新しい経験をしている自分がいた。そのことに、わたしは自分でおどろいていた。心がはやり、頭が追いつかなくなるとえるのに泣きついて冷静になり、またすこし急ぎすぎては立ちどまるのをくり返した。雪深堂で働き、勉強をし、また働いて勉強をした。勉強以外のなにものにも気持ちを向けない生活はひどく穏やかで、たとえ自分のなかで感情が渦を巻いていてもつらくはなかった。食べられないことも、眠れないことも、目標のためと思えば平気だった。
合格したら、里恵ちゃんに並び立つ人間になれる。それだけが、わたしの支えだった。
「さ、いってらっしゃい」
えるのに背中を押されて、郵便局へ踏みだす。いざ書類を送るときになったら、こわくてひとりでは出せなかったわたしに、えるのはつきあってくれた。
今日だけじゃない。高卒認定試験を受けると決めたとき、えるのは言ったのだ。「あたしのことは好きなように使いなさい」と。これまでのわたしなら、そのことばに寄りかかることすらできなかったはずなのに、えるのはわたしが彼女に遠慮すること自体を許さなかった。いつでもつよい口調で、自信に満ちた態度で、彼女はわたしの心をこじ開けた。
「あたしにどうしてほしいの」
「まゆのしたいことを言いなさい」
えるのはわたしに思いを口に出すことを強要し、でもいつも必ず、わたしの気持ちがことばになるまでじっと待っていた。彼女はこじ開けた心のドアの入り口に立ち、ぜったいにこちらには入ってこないまま、わたしが手を伸ばすのを待っているのだ。えるのの厳しさはやさしさだと、えるのは全身で、まなざしで教えてくれた。
だからわたしはえるのにわがままを言った。
「勉強を教えてほしい。いっしょに勉強してほしい」
そう告げたときの、えるのの顔を、わたしはときどき思いだす。初雪が降ってから数日、買ったばかりの問題集を手に、わたしはえるのに頭を下げた。あたたかなミルクティーのペットボトルとチョコレートのお菓子をテーブルに並べて、それがわたしに思いつくせいいっぱいの誠意だった。
「あら、もちろんそのつもりだったわよ。かしこまってるからなにかと思ったわ」
えるのはさも当然のように、髪に手を入れてばさりと梳いた。笑顔も見せない、真面目な顔をして、わたしより背の低いえるのが、わたしのことを見おろすように顎をあげている。コートを着ているのに、テラスの外には雪が積もっているのに、わたしの心のなかにはもう、春風が吹いていた。あれから、えるのはずっとそばにいてくれた。大雪が降ってバスが動かず会えなくても、メッセージを送りつづけてくれた。彼女がいるから、わたしはいま、ここに立っている。
「お願いします」
桜の香りのする風を背にして、郵便局の窓口に封筒を差しだす。願掛けをする代わりに、手をおなかのまえで組んで、ぎゅっと強く握った。
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