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春の音は少し遅れる〜あれから〜
しおりを挟む夏がまた来て、今年は少しだけ遠くへ行ってみようということになった。
行き先は、誰もいない早朝の海。もえこが「電車の音と波の音が似てるって、ネットで見た」と言い出したのがきっかけだった。
新幹線は苦手だから、在来線を乗り継いで、ゆっくりと。乗換駅で30分待ちが出るたび、もえこは時刻表をスマホで確認しながら、小さく「大丈夫、大丈夫」と呟いていた。僕はその横で、コンビニのアイスココアをふたつ買ってきて、片方を渡す。
「冷たいの、苦手じゃなかったっけ?」
「ううん。今日は平気」
もえこはそう言って、ストローをくわえたまま目を細めた。少しだけ強がってるのが分かるから、僕は何も言わずに隣に座った。
海に着いたのは、陽が昇ってまだ1時間も経っていない時間だった。
砂浜にはほとんど人がいなくて、波の音だけが響いている。もえこはサンダルを脱いで、靴下も脱いで、裸足で砂の上を歩き始めた。足跡がくっきりと残る。
「冷たい……でも、気持ちいい」
そう言って振り返ったもえこの顔が、朝日で少し赤くなっていて、僕はまた見とれてしまった。
パラソルもビーチマットも持ってこなかった。ただ、ビニールシートを広げて、そこに座る。もえこは膝を抱えて、じっと水平線を見ていた。
「ねえ、りょうくん」
「うん」
「私、こういう静かな場所に来ると、頭の中のノイズがちょっと減る気がする」
「……そっか」
「でも、同時に、すごく怖くもなるの」
僕は少し身を起こした。
「怖い?」
「うん。だって、こんなに静かだと、自分の考えてる悪いことまで、はっきり聞こえてきちゃうから」
もえこはそう言って、膝に顔を埋めた。長い髪が砂に少し触れて、揺れている。
僕は少し迷ってから、もえこの背中にそっと手を置いた。
「悪いことって、たとえば?」
「……りょうくんが、いつか疲れちゃうんじゃないかってこと」
声が小さくて、波にかき消されそうだった。
「私が、こんなだから。普通のことが普通にできないから。ずっと我慢させてるんじゃないかって」
僕は深く息を吸って、言葉を探した。
「……確かに、疲れることはあるよ」
もえこがびくっと肩を震わせた。
「でもさ、それって、もえこと一緒にいるから疲れるんじゃなくて、僕がまだ上手くできてないからなんだと思う」
「……え?」
「もっとうまく、タイミングとか、伝え方とか、分かってあげられたら、僕もそんなに消耗しないはずなんだ。もえこのせいじゃないよ。僕の練習不足」
もえこは顔を上げて、目をぱちぱちさせた。
「練習……?」
「うん。もえこの世界に、ちゃんと入れるようになるための練習」
もえこはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと僕の肩に頭を預けてきた。
「……変なの、りょうくん」
「変?」
「そんな言い方する人、初めて」
僕は苦笑いした。
「だって、本当のことだもん」
波が寄せては返す音が、ずっと続いている。
もえこが小さな声で呟いた。
「私も、練習する」
「ん?」
「りょうくんの気持ち、もっとちゃんと受け取れるように。冗談とか、ニュアンスとか、ちょっとずつ分かるようになりたい」
「……無理しなくていいよ」
「ううん。したいの」
もえこはそう言って、僕の手をぎゅっと握った。指が少し冷たい。
「だって、りょうくんが私の世界に入ろうとしてくれてるみたいに、私もりょうくんの世界に入りたいもん」
その言葉が、胸の奥にじんわりと染みてきた。
僕らはそのまま、どれくらい黙っていただろう。
やがて、もえこがぽつりと言った。
「ねえ」
「ん」
「この海、ずっと覚えておきたい」
「うん。僕も」
「あと、何年か経って、私がまたパニックになったり、わけわかんないことで怒ったりしたとき……今日のこの感じ、思い出させてくれる?」
僕はもえこの髪をそっと撫でた。
「もちろん。何回でも」
もえこは小さく笑って、目を閉じた。
「……ありがと」
波の音と、遠くで鳴くカモメの声と、もえこの呼吸だけが、そこにあった。
僕らは結局、その日、泳がなかった。
ただ、砂浜に座って、時々手を繋いで、時々離して、また繋いで。
普通の恋人みたいに、派手なことは何もできなかった。
でも、この時間が、僕らにとっては一番派手な思い出になるんだろうなと思った。
帰りの電車の中、もえこは僕の肩に頭を預けたまま、寝息を立てていた。
僕は窓の外を見ながら、そっと呟いた。
「ずっと、一緒にいるよ」
寝ているもえこは、もちろん返事なんてしなかった。
でも、握った手が、ほんの少しだけ、強く握り返してきた気がした。
それだけで、十分だった。
夏の海から帰ってきてから、僕らの時間はまた、ゆっくりと日常に戻った。
でも、少しだけ変わったことがある。
以前は「普通のデートができない」ってどこかで思っていたけど、今は「普通じゃないデートが、僕らの普通」なんだと、ようやく受け入れ始めていた。
たとえば、毎週土曜の午後。
もえこが「今日はスーパー行きたい」と言い出す日。
彼女はカゴを持つのが苦手で、いつも僕がカゴを持って、後ろを歩く。
「今日の晩ごはん、何がいい?」
「んー……カレー」
「またカレー?」
「カレーは世界一優しい食べ物だから」
真顔で言うから、僕は笑いながら頷く。
野菜コーナーで、もえこはにんじんを一本一本、じっくり見比べる。形が曲がってるやつは「可哀想だから」と避けて、真っ直ぐなやつを選ぶ。
「これ、ちゃんと育った証拠だよ」
そんな小さなこだわりが、なんだか愛おしくて、僕はスマホでこっそり写真を撮ってしまう。
レジでは、もえこがバーコードをスキャンする機械の音が苦手だから、いつも僕が全部やる。彼女は少し離れたところで、袋の大きさを気にしながら待ってる。
帰り道、夕焼けがきれいな日は、わざと遠回りする。
公園の脇を通るとき、もえこが立ち止まる。
「ねえ、あのベンチ」
「ああ、いつもの」
「座ろ?」
コンビニ袋を地面に置いて、ふたりで並んで座る。まだ温かいアスファルトの匂いがする。
もえこは買ったばかりのアイスココアを、ゆっくり飲む。
「もえこ、成長したな」
「……うん。りょうくんのおかげかも」
そんな言葉が、さらっと出てくるようになった。
日曜の朝は、もえこの部屋で過ごすことが増えた。
彼女は朝が弱いから、僕が先に起きて、トーストを焼く。バターは薄く塗る派、もえこはたっぷり派。いつもそこで小さな議論になる。
「バター多いと、カロリーが……」
「カロリーより、幸せの方が大事」
結局、僕のトーストは薄く、もえこのトーストは山盛りバターで、ふたりで半分こにする。
食べてる間、もえこは窓の外の雲を指差す。
「今の、あれ。積乱雲の始まりかも」
「また雲の名前?」
「ううん。今度は形。ウサギの耳みたい」
僕も一緒に空を見る。確かに、ちょっとウサギっぽい。
「もえこは、雲の名前より形の方が好きなんだな」
「……うん。名前は覚えるけど、形は感じるものだから」
そんな他愛もない会話が、僕にとっては宝物だった。
平日の夜、もえこが「今日、ちょっと疲れた」とLINEしてくる日。
僕はスーパーで買ったプリンと、温かい缶コーヒーを持って、彼女の家の近くのコンビニ駐車場で待つ。
もえこが現れると、ヘッドホンを首にかけたまま、足早に近づいてくる。
「ごめん、遅くなった」
「全然。プリン買っといた」
「……やった」
駐車場の街灯の下で、ふたりでプリンを食べる。スプーンがカチカチ当たる音が、妙に心地いい。
「ねえ、りょうくん」
「ん?」
「私、今日会社で、電話が急に来て、頭真っ白になったの」
「……大変だったね」
「でも、終わったあと、りょうくんが待ってるって思ったら、ちょっとだけ息ができた」
僕はもえこの手を握る。指先がまだ少し冷たい。
「いつでも待ってるよ。電話が怖くなったら、僕に転送して」
「……バカ」
もえこは笑って、僕の肩に軽く頭をぶつけてくる。
そんな夜が、何度も続いた。
秋が深まって、紅葉が散り始めた頃。
もえこが「落ち葉踏みたい」と言い出した。
大学の裏の公園じゃなくて、ちょっと離れた住宅街の並木道。
夕方、ほとんど人がいない時間に、ふたりで落ち葉を踏みながら歩く。
カサカサ、カサカサ。
もえこは目を細めて、嬉しそうに笑う。
「この音、好き」
「僕も」
途中で立ち止まって、赤い葉っぱを一枚拾う。
「これ、ハート」
「またハート?」
「うん。毎年、ハート見つけるの、私の目標」
僕はもえこの横顔を見ながら、胸が温かくなる。
「じゃあ、来年も一緒に探そう」
「……うん。約束」
指切りはしない。心から信頼してるから。
冬になると、もえこの部屋のコタツが活躍する。
ふたりでコタツに入って、みかんを剥きながら、録画してあった電車旅の番組を見る。
もえこは実況みたいに解説する。
「この区間、勾配がきついから、機関車が2両なんだよ」
「へえ……」
「りょうくん、興味ない?」
「いや、あるよ。もえこの声で聞くと、全部面白い」
「……ずるい」
もえこは顔を赤くして、みかんの皮を僕の膝に置く。
そんなささいな仕返しが、すごく幸せだった。
春がまた来て、二度目の桜。
去年と同じベンチに座って、去年より少しだけ近くに寄り添う。
もえこが、僕の袖をそっと掴む。
「ねえ」
「ん?」
「私、最近思うの」
「何?」
「りょうくんと一緒にいると、毎日がちょっと特別になる」
僕はもえこの髪を撫でる。
「……僕もだよ」
「普通の幸せって、こういうことなのかな」
「うん。たぶん」
風が吹いて、桜の花びらが舞う。
もえこは目を閉じて、花びらを受け止めようとする。
一枚、彼女の髪に落ちた。
僕はその花びらをそっと取って、もえこの手のひらに乗せる。
「はい、今日の分」
もえこは目を細めて、笑った。
「……ありがと」
その笑顔が、遅れてくるいつもの笑顔じゃなくて、ほんの少し早めに、僕の心に届いた気がした。
僕らはこれからも、きっと大きな冒険はしない。
旅行も、派手なプレゼントも、記念日のディナーも、ハードルが高いかもしれない。
でも、こうして、
アイスココアを分け合って、
落ち葉を踏んで、
みかんを剥きながら電車を見て、
桜の下で手を繋いで、
そんな小さな幸せを、毎日ひとつずつ集めていけるなら。
それが、僕らにとっての一番の贅沢なんだと思った。
これからもずっとずっと、
2人の普通じゃないけど普通で、
特別じゃないけど特別な日々を歩いて行こう。
世界で一番とは言わないけど、
これが僕らの幸せなんだ。
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