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静寂の鼓動
しおりを挟む人気漫画家、佐々木浩一は、業界の頂点に君臨していた。彼の代表作『影の迷宮』は、数百万部を売り上げ、ファンたちは次巻の発売を心待ちにしていた。だが、ある日を境に、彼のペンは止まった。スランプ。いわゆる「ブランク」だ。頭の中では物語が渦巻いているのに、手が動かない。インクが乾くのをただ眺めるだけの日々が続いた。
最初は、環境のせいだと思った。都会の喧騒が、集中力を削いでいる。マンションの窓から聞こえる車のクラクション、隣人の足音、遠くのサイレン。すべてが耳障りで、浩一の神経を苛立たせた。「静かにしてくれ」と独り言ちながら、耳栓を試した。安物のシリコン製から、高級ノイズキャンセリングヘッドホンまで。だが、効果は薄かった。耳栓の下で、自分の息遣いが拡大されて聞こえてくる。ヘッドホンは逆に、頭を締め付ける圧迫感が新たな苛立ちを生んだ。
次に、場所を変えてみた。郊外の静かなカフェ、図書館の個室、さらには山奥の旅館まで。出版社の担当編集者、田中は心配そうに浩一を支え、どんな要望も叶えた。「先生、何かお手伝いできることは?」と尋ねる田中に、浩一は苛立たしげに答える。「静かな場所だ。絶対に静かな場所を。」旅館では確かに周囲の音は少なかったが、風が木々を揺らす音、虫の羽音、遠くの川の流れさえもが気になった。「これじゃダメだ。もっと、もっと静かに。」
試行錯誤は続き、浩一は睡眠薬を飲んで無理やり集中しようとしたり、瞑想アプリを使ったりした。だが、すべて無駄だった。音はどこからともなく忍び寄り、彼の創作意欲を食い尽くした。物語の続きが書けない苦しみは、徐々に彼の精神を蝕み、浩一は痩せ細り、目は落ち窪んだ。ファンからの手紙やSNSの励ましさえ、プレッシャーとして耳に響いた。
ついに、田中は決断した。「先生、特別な部屋を用意しました。完全防音室です。外部の音は一切入りません。どうぞ、これで集中してください。」それは出版社が借り上げたスタジオの一角に作られた部屋だった。壁は厚い吸音材で覆われ、ドアは二重構造。空気さえも静かに流れるよう設計されていた。浩一は期待を込めて部屋に入った。ペンと原稿用紙を手に、ドアを閉める。……静寂。
最初は心地よかった。ようやく、純粋な無音の世界。浩一は深呼吸をし、ペンを握った。物語の続きが、頭の中で形を成し始める。だが、数分後、何かがおかしいことに気づいた。……ドクン。ドクン。自分の心臓の音だ。静かな部屋の中で、それは驚くほど大きく響いた。まるで太鼓のように、胸腔を震わせる。ドクン。ドクン。リズムが、浩一の集中を乱す。「うるさい……」彼は呟いた。手を胸に当て、息を止めてみた。だが、心臓は止まらない。むしろ、無音の中で増幅され、耳をつんざくようだった。
苛立ちが頂点に達した。浩一の目は血走り、握ったペンが震えた。「これさえなければ……これさえ止まれば、書けるのに!」叫び声が部屋に吸い込まれ、反響しない。絶望の中で、彼はペンを胸に向けた。鋭い先端が皮膚を突き破る。痛みと共に、血が噴き出した。ドクン……ドク……。心臓の音が弱まる。浩一は床に崩れ落ち、原稿用紙に赤い染みが広がった。最後の瞬間、彼の唇に浮かんだのは、満足げな微笑みだった。ようやく、静かになった。
部屋の外で待っていた田中は、数時間後、ドアを開けた。そこにあったのは、血まみれの浩一と、空白の原稿だけだった。『影の迷宮』の続きは、永遠に書かれることはなかった。
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