春告げ

菊池浅枝

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1.水澄む

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 お山の空気が、今日はいっそう澄んでいる。
 と、小和こわは思った。

 深々とした碧色も、重なりあう木々の陰も、屹立した稜線にけぶる、朝靄の白らかさも。皆すっきりとして、目を漱いでいく。
 こんなに澄んでいるのは久しぶりだ、と考えながら、小和は店先の端に集めたごみを、箒でちり取りに掃き入れた。朝の冴えた涼風が、小和の肩で切り揃えた髪と、着古した紬の裾を掠めていく。
 店の入口から、おかみさんが顔を覗かせた。

「小和、終わった?」
「はい、ちょうど。おかみさん、今日は、尾羽おわ山が綺麗ですよ」

 小和が山を指差して言うのに、おかみさんも、そう? と見上げた。商店が並ぶ一本道の大通りの先、紫翠の山影に、鳶の声が高く響く。

「それじゃあ、今日のお茶菓子は山水の葛にしようかね」
「二階の簾を全部上げましょう。お山がよく見えます」
「そうね、そうしておいて」

 おかみさんが微笑むのに、小和も笑って、はい、と頷いた。
 箒とちり取りを片手に持って、おかみさんの後に続いて店に入る。長椅子が数列置かれた店舗を奥へと進み、中庭の物置に一旦箒とちり取りをしまうと、戻って二階へと続く階段に向かった。と、おかみさんが、厨房の棚からお茶菓子を取り出しながら、そう言えば、と小和に声をかけた。

「今日は、りくのとこに行くんだろう? 今日のお茶菓子、持っていきなさい。それと、先生にもついでに。頼めるかい?」
「はい、おかみさん。いつもすみません」
「いいんだよ。先生の分は、こっちのお遣いなんだし」

 お茶菓子をお遣いの箱に分けながら、おかみさんは、「小和は山から来たんだものねぇ」と、しみじみ呟く。そのしんみりとした響きに、小和も小さく頬を緩めた。

 小和が山で拾われて、十年。
 本当に、優しい人たちに拾ってもらった。




 ◆


 麓に小さな町をいだいた名峰、尾羽山。標高は千を優に越え、春には躑躅つつじ石楠花しゃくなげが、秋には広い広葉樹林が、いっせいに山を彩る。頂上付近は夏でも涼しく、麓の谷間は茶の木に適し、流れる清水は、古くから麓町ではお茶や魚の養殖に使われていた。

 その、尾羽山の中腹よりいくらか低いところに、全寮制の女学校が建っている。
 元々は小さな集落であったのを、過疎化にともなって住民を町の方に移し、資産家や華族の令嬢が通う高等学校として、六年ほど前に建てられたものだった。
 木造校舎の三階建て、脇には図書館や自習室を含む特別棟が建ち、運動場を挟んで校舎の裏手には、学生たちの生活する学生寮がある。

 この学生寮と校舎を繋ぐ、運動場脇の小道には、目立たない獣道があった。

 入り口には小さな置き石があるものの、そうと知らなければまず見落とすに違いない細道で、五十歩も歩けば元の道が見えなくなり、百歩も行けば、木々が陽差しを遮った。ともすれば昼でも寒気がするその悪路を、藪を掻き分けながら進んで、大杉の林を抜けた先。そこに、小さな小屋があった。

 十坪ほどの古びた草庵で、木材が湿気を吸った痕がありありと分かる。外付けの厠と土管風呂、その脇には、方々に伸びた雌日芝が風に揺れていた。

「栢くん、栢くん!」

 ぱたぱたと小走りしながら、りくは小屋の戸を全て開けて回った。押入、戸棚、床下まで、箪笥の引き出しも全て開けようとしたところで、三段目でそいつを見つける。

「こら、栢くん!」

 呼びながら、箪笥の端で丸まっていた大きな白猫を抱き上げると、りくは眉を顰めて、猫に説教を始めた。

「小屋に撒いてた粉、全部拭き取っちゃったの、君だろう!」

 ずんぐりとした体を小さく縮こまらせた白猫は、りくを見上げて、だって、と言う。


「小屋中粉まみれじゃんか、あんなんじゃ、くしゃみがとまんねぇよ」
「そうしておかないとダメなんだって、何度も説明したじゃないか……」

 不機嫌顔で二本の尻尾を揺らしてみせる猫に、りくは重い溜息をついて、腕を床に下ろす。途端、猫はうううと唸って、床の上で再び丸くなった。

「ほら、言わんこっちゃない。ああしてないと三角になるって、言っただろう」

 うるへー、と、若干涙声での反論を聞き流して、りくはまたぱたぱたとかけ出す。先ほど開けた戸棚の奥から、粉の瓶を取り出して、囲炉裏にかけた鍋の湯で溶かす。

「全く、この時期は三角に気を付けなきゃいけないって、何度も言ったのに、栢くんてば」
「いくらなんでも小屋中はやりすぎだろ! 寝るとこもないじゃんか」
「小屋中しないとダメなんだよ、ここは。通り道だからね。布団は粉の上に敷くの」
「嘘だろ……」

 げんなりとした声で猫が呟いたところで、入り口から、すみません、と声がした。
 おや、と顔をあげて、りくは粉を溶かした茶碗を猫の傍に置いて立ち上がる。開け放している囲炉裏間から、土間の入り口の方に顔を向けると、りくは微笑んだ。

「小和さん、いらっしゃい」
「こんにちは、りく。栢くんも」

 入り口から顔を覗かせた小和は、少し戸惑った顔をして、頭を下げた。


 ◆


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