1 / 26
1.水澄む
1
しおりを挟む
お山の空気が、今日はいっそう澄んでいる。
と、小和は思った。
深々とした碧色も、重なりあう木々の陰も、屹立した稜線にけぶる、朝靄の白らかさも。皆すっきりとして、目を漱いでいく。
こんなに澄んでいるのは久しぶりだ、と考えながら、小和は店先の端に集めたごみを、箒でちり取りに掃き入れた。朝の冴えた涼風が、小和の肩で切り揃えた髪と、着古した紬の裾を掠めていく。
店の入口から、おかみさんが顔を覗かせた。
「小和、終わった?」
「はい、ちょうど。おかみさん、今日は、尾羽山が綺麗ですよ」
小和が山を指差して言うのに、おかみさんも、そう? と見上げた。商店が並ぶ一本道の大通りの先、紫翠の山影に、鳶の声が高く響く。
「それじゃあ、今日のお茶菓子は山水の葛にしようかね」
「二階の簾を全部上げましょう。お山がよく見えます」
「そうね、そうしておいて」
おかみさんが微笑むのに、小和も笑って、はい、と頷いた。
箒とちり取りを片手に持って、おかみさんの後に続いて店に入る。長椅子が数列置かれた店舗を奥へと進み、中庭の物置に一旦箒とちり取りをしまうと、戻って二階へと続く階段に向かった。と、おかみさんが、厨房の棚からお茶菓子を取り出しながら、そう言えば、と小和に声をかけた。
「今日は、りくのとこに行くんだろう? 今日のお茶菓子、持っていきなさい。それと、先生にもついでに。頼めるかい?」
「はい、おかみさん。いつもすみません」
「いいんだよ。先生の分は、こっちのお遣いなんだし」
お茶菓子をお遣いの箱に分けながら、おかみさんは、「小和は山から来たんだものねぇ」と、しみじみ呟く。そのしんみりとした響きに、小和も小さく頬を緩めた。
小和が山で拾われて、十年。
本当に、優しい人たちに拾ってもらった。
◆
麓に小さな町をいだいた名峰、尾羽山。標高は千を優に越え、春には躑躅や石楠花が、秋には広い広葉樹林が、いっせいに山を彩る。頂上付近は夏でも涼しく、麓の谷間は茶の木に適し、流れる清水は、古くから麓町ではお茶や魚の養殖に使われていた。
その、尾羽山の中腹よりいくらか低いところに、全寮制の女学校が建っている。
元々は小さな集落であったのを、過疎化にともなって住民を町の方に移し、資産家や華族の令嬢が通う高等学校として、六年ほど前に建てられたものだった。
木造校舎の三階建て、脇には図書館や自習室を含む特別棟が建ち、運動場を挟んで校舎の裏手には、学生たちの生活する学生寮がある。
この学生寮と校舎を繋ぐ、運動場脇の小道には、目立たない獣道があった。
入り口には小さな置き石があるものの、そうと知らなければまず見落とすに違いない細道で、五十歩も歩けば元の道が見えなくなり、百歩も行けば、木々が陽差しを遮った。ともすれば昼でも寒気がするその悪路を、藪を掻き分けながら進んで、大杉の林を抜けた先。そこに、小さな小屋があった。
十坪ほどの古びた草庵で、木材が湿気を吸った痕がありありと分かる。外付けの厠と土管風呂、その脇には、方々に伸びた雌日芝が風に揺れていた。
「栢くん、栢くん!」
ぱたぱたと小走りしながら、りくは小屋の戸を全て開けて回った。押入、戸棚、床下まで、箪笥の引き出しも全て開けようとしたところで、三段目でそいつを見つける。
「こら、栢くん!」
呼びながら、箪笥の端で丸まっていた大きな白猫を抱き上げると、りくは眉を顰めて、猫に説教を始めた。
「小屋に撒いてた粉、全部拭き取っちゃったの、君だろう!」
ずんぐりとした体を小さく縮こまらせた白猫は、りくを見上げて、だって、と言う。
「小屋中粉まみれじゃんか、あんなんじゃ、くしゃみがとまんねぇよ」
「そうしておかないとダメなんだって、何度も説明したじゃないか……」
不機嫌顔で二本の尻尾を揺らしてみせる猫に、りくは重い溜息をついて、腕を床に下ろす。途端、猫はうううと唸って、床の上で再び丸くなった。
「ほら、言わんこっちゃない。ああしてないと三角になるって、言っただろう」
うるへー、と、若干涙声での反論を聞き流して、りくはまたぱたぱたとかけ出す。先ほど開けた戸棚の奥から、粉の瓶を取り出して、囲炉裏にかけた鍋の湯で溶かす。
「全く、この時期は三角に気を付けなきゃいけないって、何度も言ったのに、栢くんてば」
「いくらなんでも小屋中はやりすぎだろ! 寝るとこもないじゃんか」
「小屋中しないとダメなんだよ、ここは。通り道だからね。布団は粉の上に敷くの」
「嘘だろ……」
げんなりとした声で猫が呟いたところで、入り口から、すみません、と声がした。
おや、と顔をあげて、りくは粉を溶かした茶碗を猫の傍に置いて立ち上がる。開け放している囲炉裏間から、土間の入り口の方に顔を向けると、りくは微笑んだ。
「小和さん、いらっしゃい」
「こんにちは、りく。栢くんも」
入り口から顔を覗かせた小和は、少し戸惑った顔をして、頭を下げた。
◆
と、小和は思った。
深々とした碧色も、重なりあう木々の陰も、屹立した稜線にけぶる、朝靄の白らかさも。皆すっきりとして、目を漱いでいく。
こんなに澄んでいるのは久しぶりだ、と考えながら、小和は店先の端に集めたごみを、箒でちり取りに掃き入れた。朝の冴えた涼風が、小和の肩で切り揃えた髪と、着古した紬の裾を掠めていく。
店の入口から、おかみさんが顔を覗かせた。
「小和、終わった?」
「はい、ちょうど。おかみさん、今日は、尾羽山が綺麗ですよ」
小和が山を指差して言うのに、おかみさんも、そう? と見上げた。商店が並ぶ一本道の大通りの先、紫翠の山影に、鳶の声が高く響く。
「それじゃあ、今日のお茶菓子は山水の葛にしようかね」
「二階の簾を全部上げましょう。お山がよく見えます」
「そうね、そうしておいて」
おかみさんが微笑むのに、小和も笑って、はい、と頷いた。
箒とちり取りを片手に持って、おかみさんの後に続いて店に入る。長椅子が数列置かれた店舗を奥へと進み、中庭の物置に一旦箒とちり取りをしまうと、戻って二階へと続く階段に向かった。と、おかみさんが、厨房の棚からお茶菓子を取り出しながら、そう言えば、と小和に声をかけた。
「今日は、りくのとこに行くんだろう? 今日のお茶菓子、持っていきなさい。それと、先生にもついでに。頼めるかい?」
「はい、おかみさん。いつもすみません」
「いいんだよ。先生の分は、こっちのお遣いなんだし」
お茶菓子をお遣いの箱に分けながら、おかみさんは、「小和は山から来たんだものねぇ」と、しみじみ呟く。そのしんみりとした響きに、小和も小さく頬を緩めた。
小和が山で拾われて、十年。
本当に、優しい人たちに拾ってもらった。
◆
麓に小さな町をいだいた名峰、尾羽山。標高は千を優に越え、春には躑躅や石楠花が、秋には広い広葉樹林が、いっせいに山を彩る。頂上付近は夏でも涼しく、麓の谷間は茶の木に適し、流れる清水は、古くから麓町ではお茶や魚の養殖に使われていた。
その、尾羽山の中腹よりいくらか低いところに、全寮制の女学校が建っている。
元々は小さな集落であったのを、過疎化にともなって住民を町の方に移し、資産家や華族の令嬢が通う高等学校として、六年ほど前に建てられたものだった。
木造校舎の三階建て、脇には図書館や自習室を含む特別棟が建ち、運動場を挟んで校舎の裏手には、学生たちの生活する学生寮がある。
この学生寮と校舎を繋ぐ、運動場脇の小道には、目立たない獣道があった。
入り口には小さな置き石があるものの、そうと知らなければまず見落とすに違いない細道で、五十歩も歩けば元の道が見えなくなり、百歩も行けば、木々が陽差しを遮った。ともすれば昼でも寒気がするその悪路を、藪を掻き分けながら進んで、大杉の林を抜けた先。そこに、小さな小屋があった。
十坪ほどの古びた草庵で、木材が湿気を吸った痕がありありと分かる。外付けの厠と土管風呂、その脇には、方々に伸びた雌日芝が風に揺れていた。
「栢くん、栢くん!」
ぱたぱたと小走りしながら、りくは小屋の戸を全て開けて回った。押入、戸棚、床下まで、箪笥の引き出しも全て開けようとしたところで、三段目でそいつを見つける。
「こら、栢くん!」
呼びながら、箪笥の端で丸まっていた大きな白猫を抱き上げると、りくは眉を顰めて、猫に説教を始めた。
「小屋に撒いてた粉、全部拭き取っちゃったの、君だろう!」
ずんぐりとした体を小さく縮こまらせた白猫は、りくを見上げて、だって、と言う。
「小屋中粉まみれじゃんか、あんなんじゃ、くしゃみがとまんねぇよ」
「そうしておかないとダメなんだって、何度も説明したじゃないか……」
不機嫌顔で二本の尻尾を揺らしてみせる猫に、りくは重い溜息をついて、腕を床に下ろす。途端、猫はうううと唸って、床の上で再び丸くなった。
「ほら、言わんこっちゃない。ああしてないと三角になるって、言っただろう」
うるへー、と、若干涙声での反論を聞き流して、りくはまたぱたぱたとかけ出す。先ほど開けた戸棚の奥から、粉の瓶を取り出して、囲炉裏にかけた鍋の湯で溶かす。
「全く、この時期は三角に気を付けなきゃいけないって、何度も言ったのに、栢くんてば」
「いくらなんでも小屋中はやりすぎだろ! 寝るとこもないじゃんか」
「小屋中しないとダメなんだよ、ここは。通り道だからね。布団は粉の上に敷くの」
「嘘だろ……」
げんなりとした声で猫が呟いたところで、入り口から、すみません、と声がした。
おや、と顔をあげて、りくは粉を溶かした茶碗を猫の傍に置いて立ち上がる。開け放している囲炉裏間から、土間の入り口の方に顔を向けると、りくは微笑んだ。
「小和さん、いらっしゃい」
「こんにちは、りく。栢くんも」
入り口から顔を覗かせた小和は、少し戸惑った顔をして、頭を下げた。
◆
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる