春告げ

菊池浅枝

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1.水澄む

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 ◇

 尾羽の山には薬師がいる。

 薬師、というのは方便かも知れないと、おかみさんは思っていた。お山のことは薬師に聞く、それが、尾羽での古くからの慣例だったからだ。

 病を治したり、薬を処方してくれたりするのは確かだったが、その実、おかみさんは、お山の薬師がそれで「商売」をしているところは、見たことがない。
 見返りは僅かな田畑の余り物くらいで、それも月に一、二度、薬師が山から下りてきたときだけのことだった。

 何より、おかみさんが十にも満たない頃、りくのことは「薬師のお兄ちゃん」と呼んでいたのだ。

 その頃のりくは、せいぜい十代後半の見た目だった。先代の薬師がいて、名前をなんと言ったのかもう覚えていないが、五十がらみの、無精髭を生やしたおじさんだったことを覚えている。けれどその先代も、恐らく五十代ではなかっただろう。町の古老たちと親しく話し、時に敬われていた。りくはその頃はまだ、見習いだった。

 そういう「薬師」が、おかみさんの生まれる前には、もっと多くの山にいたという。

 りくは「今でもまだちょっといますよ」などというが、本当かどうかは分からなかった。少なくともおかみさんは、お山の薬師の話を、尾羽以外で聞いたことがない。町の外から来た者は、お山の薬師というもの自体を知らなかった。

 やがて、先代の薬師が山から下りてこなくなり、りくだけが町に来るようになった。おかみさんが正式に碧水屋の看板を継いだ頃、町に下りてきたりくは、代替わりをしたのだと言った。その頃から、りくも、滅多に町には下りてこなくなった。

 食べていけてるのかい、と、おかみさんは、りくに訊いたことがある。十数年前、冬も近い日のことだ。その年の秋は、神無月の寒露を過ぎると、山から酷く冷たい風が吹き下りて、体調を損なうものが多く出た。碧水屋でも娘の一人が風邪をこじらせて、それで珍しく、りくが山から下りてきていた。ちょうど、三軒隣の料亭の主人から鰯の干物をもらったところだったので、それを分けてりくに持たせた。

「小屋の裏には畑もありますから。あそこは植物の生育がいいので、元々、そんなに困っていないんですよ。さすがにこういったお魚とかお米とかは、貴重ですけど」

 りくは渡された包みの中を覗いて、美味しそうですねぇ、と笑った。

「……たまには、町に下りてきなよ。いいお茶出すから」
「碧水屋のお茶なら、間違いないですね。でもこの町にも、外の人が増えましたから」

 りくはそう言って微笑むと、包みを嬉しそうに抱えて、山へ帰っていった。

 交通の有り様が変わって、道が随分歩きやすくなった。尾羽の町は昔からお茶と養殖魚を産業にしているから、余所者がこれまでもいなかったわけではないが、それでも、遠くから来て住み着くものや、逆に出ていくものも、その頃には随分増えていた。碧水屋にしたって、働き手は親類か、遠くても近隣の村の知り合いだったのに、今は名前も知らない村から、働き口を探して娘がやってくる。

 ――お山の薬師の話を、尾羽以外では聞いたことがない。

 町の大人たちは、りくが山から下りてこなくなった頃から、自然と口を噤むようになった。りくが下りてこないということは、そういうことなのだ。今では町の若い者たちも、薬師について知っていることは、外から来た人とそう変わらない。りくに会ったことのない者さえいる。

 だから、あの時は本当に驚いた。
 りくが小和を連れてきたときは。





「おかみさん、」

 呼ばれて、布地に刺した針をそのままに、おかみさんは顔を上げた。
 見れば、お風呂から上がった小和が、障子戸を開けて寝間着姿でこちらを見ている。就寝の挨拶に来たのだろう。

「上がったかい。薬は飲んだ?」
「はい」

 湯上がりの上気した頬で、小和が微笑んだ。
 ――その、火照った身体から、濃い山のにおいがする。
 深緑の匂いだ。
 霧の立ち籠める朝に香るような、濃い草木の香り。

 こういうことは、これまでにも度々あった。特に今日のような、山がひどく澄んでいる日などは、ふとした瞬間、小和から、山の清新で、馥郁たる香りがする。

「あの、おかみさんそれ……」

 それに僅かに目を細めて、けれどおかみさんは、それを無視して、小和に応えた。

「……ああ、あんたの服だよ。そろそろ新しいのが要るだろう?」

 手元の縫い止しの着物に、ひどく申し訳なさそうにする小和をいなして、部屋に下がらせる。この子は本当に、いつも、とても、丁寧だ。謙遜の過ぎるきらいはあるけれど、何事にも一生懸命で、辛抱強い。

 ――すみませんおかみさん、突然で悪いんですが。

 五年前の、りくの声を思い出す。
 りくに連れられて山を下りてきたときも、そうだった。





 ――すみませんおかみさん、突然で悪いんですが。この子を、おかみさんのとこで預かっていただけませんか。

 そう言って、りくが、自分の足下にいる小さな女の子を見せたのは、朝のまだ早い時間、薄く霧の立ちこめる日のことだった。
 一年近くりくの姿を見ておらず、それは、随分久しぶりの来訪だった。

 すみません、と言うわりには暢気な声で言うりくに、おかみさんは、店前を掃除していた手を止めて、思わず眉を顰めた。

「預かる?」
「ええ、その。実は五年前、山で拾いまして、」
「五年前? 拾ったぁ?」

 おかみさんが、呆気にとられて目を見開く。りくの後ろで、女の子はぎゅ、と拳を握った。

 小柄で、ひどく痩せた子だった。黒髪を肩口で真っ直ぐに切って、十歳だと後で聞いたが、見た目だけではもっと幼く見えた。りくのお古だろう、山の気候に合わせた男物の綿入れが不格好で、細い手足が際立っている。

 その、胸の前で固く握られた手が。
 所在なさげに震えていた。
 それを見て、おかみさんは、その時の色々な言葉を、瞬時に飲み込んだ。

「……分かった、私はいいよ。けどね……本当にいいのかい、うちで」

 おかみさんは、りくの後ろで縮こまっている少女に視線を向けて、言った。しゃがんで目を合わせ、微笑んでみせる。ついでにりくには、こいつは全くしょうがない、という一瞥をやって。
 すると、女の子は僅かに目を瞠って、そして、はい、とはっきり頷いた。

「よろしく、お願いします」
「ああ、ちゃんとした、賢い子だね。こりゃあ、りくのとこに置いとくわけにはいかないねぇ」

 そうして小和は、碧水屋に来たのだった。

 小和は、我が儘を全く言わない子どもだった。
 ほとんど身一つでりくに連れられてきた小和は、風呂敷に包めるだけの荷物しか、持っていなかった。身を飾るものは欲しがらなかったし、人形遊びや双六などの玩具も、小和は必要ないと首を振った。服だけは、おかみさんが従業員の娘たちからお下がりをもらって、折を見ては小和のために仕立て直したが、それでも、小和の荷物は、箪笥の一段に収まるぐらいにしかならなかった。

 おかみさんは何度か、本当にこれだけでいいのかと訊ねたが、その度に、小和は遠慮がちに笑って、ふるりと首を振るばかりだった。むしろ、店で働きたいと、掃除や洗い物などを積極的に手伝い、茶の入れ方を熱心に学び、りくのところでしていたからと、家事まで買ってでるので、おかみさんは時々、小和から仕事を取り上げねばならなかった。

 そんな小和の、唯一とも言える趣味が、本だった。

 おかみさんの部屋の隅、階段下には、先代である父が買った本棚がある。数は多くないが、有名な小説や古典以外にも、辞書だの旅行の本だの科学の本だの、節操なく収められていた。父は読書家と言うほどではなかったが、多趣味な人で、それらの本を熱心に小和が見つめていることに気付いたおかみさんは、好きに読んで良いよと告げた。すると小和は、恥ずかしそうに頭を下げて、何冊かを手にとった。難しい漢字や言葉は辞書をひきながら、それでもわからないことは、おかみさんに聞きに来た。小和の部屋を客間から移すときも、小和が主張したのは、暗くて狭い、物置部屋だった。遠慮でもしているのかと思っておかみさんが問い詰めると、小和は、申し訳なさそうに首を項垂れて、

 ――ここなら、階段下の本棚に、一番近いから……。

 そう、小さく、言ったのだった。

 何かを欲しがることを、悪いことのように考える子だった。本に一番近い部屋と、明かりのための行燈、それから物置を片づける手間。たったそれだけのことを頼むのに、申し訳なさそうにしていた。
 だからおかみさんは、できるだけ楽しそうに笑って、いいよ、と、頷いてみせたのだった。





「……こんなにいい子だってのに、まったく。薬師がらみは」

 溜息とともに、おかみさんは呟く。
 小和が階段を上がっていく足音が、きしきしと響く。

 ――微かに残った山の香が、夜気に浚われて、消えていった。



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