春告げ

菊池浅枝

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2.寒露

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 一年前、りくのところに大怪我をした猫又がやってきたと小和に伝えに来たのは、山から町へと降りてきた、四十雀しじゅうからたちだった。

 山に棲むものの中に、言葉を話すものがいる。それは、りくに拾われてから知ったことだった。見知った動物以外にも、栢のような、明らかに異形のものがいるということも。
 りくは、それらの世話役のようなこともしていたし、人にしろ獣にしろ異形にしろ、お山のことは、りくに聞くのが通例のようで、そういったことは、小屋に住んでいれば日常茶飯事だった。
 お山のことは、りくが仲介する。それが、山にとっても一番なのだと、山で暮らすうちに小和にも分かった。

 尾羽の外から来たものが、長くりくの元にいるというのは、滅多にない。逆に言えば、それが、山にとっては一番良いということで、四十雀たちの話では、その猫又はもうひと月もりくのところにいて、それで、心配しているようだった。

 おかみさんから休みをもらって、ついでに持って行ってくれと頼まれた大根やかぶや干し肉なんかを風呂敷に包み、小和は急いで山を登った。冬の入りの季節で、吐く息が白く立ちのぼり、山にうずたかく積もった落ち葉には、霜が降りて湿っていた。
 その日は霧が深くて、小和はなかなかりくの小屋が見えない不安から、かなりの急ぎ足になっていた。ともすれば転びそうな速さで山道を進み、ようやく杉林の向こうにりくの小屋が見えたかと思うと、突如、小屋の中から、断末魔のような鳴き声が響いた。

「あ、こら、栢君!」

 バタン、と小屋の障子戸を倒して、白い毛玉が小屋の縁側から飛び出してくる。それはそのまま、驚いて立ち止まっってしまった小和の足元まで転がってきて、そして、小和の横をすり抜けようとして、

「あ、」

 小和が思わず声を上げたときには、遅かった。
 ぼちゃ、という音がして、真っ白い毛玉は、小和の足元で半ば泥まみれになって、落ち葉の中に沈んでいた。

「あれ、小和さん」

 小屋の戸を開けて、りくが出てくる。小和を見て、それからすぐに足元の、半分泥に埋もれた毛玉を見つけると、慌てた風もなく溜息を吐いて、ゆっくりと歩いてきた。そして、それを泥の中から摘まみ上げる。

「ここ、落ち葉が溜まってるんで気づきにくいんですけど、窪みになってるんですよね。この時期は連日の霧や小雨で、小さな泥沼になっています。大人しく手当を受けて下さいね」

 あ、その前に洗わなきゃと、毛玉を掴んだりくが小屋の裏の滝へと向かい始めるので、小和は遠慮がちに、あの、と口を開いた。
 りくが掴んでいる毛玉は、ぶるぶると震えている。

「私、水を汲んできますから。火を起こしてもらえますか?」
「え、ああ、そうですね、さすがにこの時期の滝水は冷たいか。すみません、お願いします。あ、荷物は入り口のところに」
「はい」

 小和は風呂敷包みを小屋の上がり框において、土間に置いてあった桶を手に、小屋の裏手の滝へと向かった。そっと後ろを見やると、りくは毛玉を手拭いに包んで土間に転がし、竈にくべる薪を取りに行くようだった。

 りくの小屋の裏は、小さな畑になっている。芋や豆や葱などが植えてあるそこを通り過ぎると、椿の藪、竹林、菖蒲しょうぶの茂みがあり、その先に、広い淵にぼとぼとと水の落ち込む、大きな滝があった。

 高さ二十丈、幅約二間の、細く高い滝だ。飛沫が途中のでこぼこした岩肌に跳ねるので、白糸の束が絡まりながら淵に落ち込むように見える。落ちた先は美しい翡翠色の滝壺で、ここの水は、尾羽山の雪解け水を含んで川となり、麓の尾羽の町にまで流れていた。尾羽の名水の、源流の一つでもある。

 滝の辺りはより一層霧が深かった。地面は濡れそぼって、数歩先の下草すら見えない。慣れた道ではあったが、小和は慎重に淵の傍に歩み寄り、桶を水に浸した。冴え澄んだ冷たい水が、瞬く間に桶一杯に満ちていくのを待って、引き上げる。吐いた息は、すぐに霧に混じって消えた。

 桶を抱えて小屋に戻ると、竈の火を起こしたりくが、橙色の火に両手をかざして小和を待っていた。

「来て早々にすみません、寒いでしょう。元気でしたか?」

 りくは小和を手招きして、にっこり笑う。

「はい。りくも、元気ですか?」
「ええ。そこで震えてる栢君は元気じゃありませんけど」

 言って、りくは皮肉めいた視線を傍らに向けた。手拭いに包まれていた毛玉は、もぞもぞと動いて、包みの間から顔を出した。

 蜻蛉とんぼ玉のような、綺麗な瑠璃色の瞳の、白猫だった。ふてくされた顔で、ぶるぶると全身を震わせている。包みからは泥だらけの長い尻尾が二本、垂れて、毛を逆立てていた。

「うるせぇな」
「もうちょっと怪我人らしくしてくれた方が、助かるんですけどね」

 ぼそっと呟いた猫又に構うことなく、りくは溜息を吐いて、小和から桶を受け取って竈の上の金盥かなだらいに水を移す。
 水を温めている間に、小和はりくにおかみさんからのお土産を渡した。風呂敷に包んであった馬の干し肉を見て、今日の夜は桜鍋ですね、とりくが弾んだ声で言うのに、小和も苦笑する。そこで、栢が小和に顔を向けた。

「おい、あんた何なんだ」
「え?」

 栢の瑠璃の瞳は、小和の方を真っ直ぐに射ていた。

「あんた、普通の人間だろ。こいつの弟子? 薬師見習いの感じはしねえけど」
「小和さんは薬師じゃないですよ。四年前までうちで預かってたんです」

 君と一緒です、とりくが言う。
 ふぅん、と栢は鼻で息を吐いて、小和を見やる。俺に驚かねぇ薬師以外の人間は久しぶりだな、と、二本の尻尾を揺らめかせて呟いた。そこで、そうだと思い出したようにりくが問う。

「小和さん、今日はどうしてこちらに?」
「山の四十雀たちから聞いたんです。りくのところによそ者がやってきて、もうひと月にもなる、と」

 なるほど、とりくは頷いた。

「おかみさんには何と?」
「――寒くなる頃合だから、様子を見に行きたいとだけ、」

 小和は眉を下げた。
 町の人たちの口から、言葉を話す山のものや、栢のような異形のものたちのことを、小和は聞いたことがなかった。

 初めは、何も知らないのかとさえ思った。けれどそんなはずはない。少なくとも、町の大人たちは、りくの小さい頃を知っている。

 けれどどうやら、町の人たちは、何も知らない振りをしているようなのだった。おかみさんにしても、りくや、山のことは敢えてあまり聞かないようにしている、そんな雰囲気があったし、山のものたちも、町の人たちの前で言葉を話しているのは、見たことがなかった。だから小和も、こういう時は、詳しく話さないようにしている。

「そうですか。栢君、近年ではわりと長くいる方ですからねぇ。小和さんは近くの村の子でしたけど、栢君は全くのよそ者ですから、四十雀たちも心配したんですね。でもこれ、この怪我、結構ひどくて。もうあとひと月以上、安静なんです。薬が痛くても逃げないでくださいね、栢君」

 栢は思いっきり顔を歪めた。小和はこぽこぽと泡を浮かせ始めた盥を見やる。

「お湯、沸いてきましたね」
「小和さん、新しい手拭いを持ってきてくれますか。僕が押さえつけておくので、拭いていただけると」
「はい」

 ぎゃっ、と叫んだ栢の首根っこを、りくが手早く押さえた。小和は新しい手拭いを棚から取り出し、火から降ろした湯が適温まで冷めるのを待って絞ると、泥まみれの身体を包んでいた手拭いを外して、そっと、毛並みに布を当てた。

 傷に障らないよう、少しずつ、丁寧に、ゆっくりと撫でていく。お腹の辺りに、酷い裂傷があるのが見えた。逃げ出したときに傷が開いたのだろう、裂傷付近の泥は血と混じっていて、小和はそれも、丁寧に拭いとった。汚れた手拭いを何度も洗いながら、白い毛と毛の間、二本の逃げるように動かされる尻尾、柔らかい肉球の足裏まで。その間、暴れるかと思った栢は、意外にも尻尾以外は大人しく、小和にされるがままだった。顔は、盛大にふてくされていたが。

「……治ったら、ちゃんと出ていくよ」

 あらかた拭い終わって、小和が手拭いを絞っていると、ふてくされた顔のまま、栢が言った。

「へぇ、行く当てが?」

 栢が暴れないので、首元を優しく撫で始めていたりくが、首を傾げる。

「俺みたいなよそ者は、山に迷惑だろ」

 りくの質問には答えずに、つんとそっぽを向いた栢に、りくは、うぅん、と唸った。
 そうして、小和の方を向く。

「小和さん、どう思います?」
「えっ?」

 小和は、手拭いを絞る手を止める。どう思うとは、と、突然のことに戸惑いながら、それでも視線をぐるりと回して、小屋の外、開け放した戸口の向こうの、深い霧を見やる。

 りくの小屋は、山の気配の深いところにある。深く、静かで、湛湛たんたんとしている。こんな霧の多い日は、それがどこよりも深く、外は今に雪でも降りそうな冷たさだった。けれど風はない。穏やかで、蕩々としていて、まるで上等な絹の生地に包まれているような。

 離れたところから、渾々と溢れる清水の音がする。

「私には、お山に包まれているように感じます」

 小和の言葉に、そうですね、と、りくも頷いた。

「開かれてもいないけれど、拒んでもいない。と、僕も思います」

 出ていくかどうかは、怪我が治ってから決めても良いかも知れませんよ。
 そう言ってりくは、にこりと栢に笑った。栢が尻尾を揺らめかせる。

 そのひと月後、りくを訪ねた小和は、冬支度をするりくに文句を言いながら衣服の入れ替えを手伝っている栢を見て、ほ、と息をついたのだった。

 それから一年、また、雪の季節が来ようとしている。


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