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第一章 さすらいの皇女
白銀の貴公子3
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「面白いことを言う」
――馬と剣がほしい。
幼い妃の言葉を、スタシアから伝え聞いたディグルは、そういって、わずかに口元を歪めた。これが彼の感情表現。心底おかしいと思ったときの表情であった。おそらくこの場にいるものは、彼のそんな微妙な表情の変化など感づくこともできなかったであろう。幼少のころより身近に仕えたスタシアですら。彼のこの笑みが、負の感情であるか否かをはかりかねているのだから。そんな気配を感じ取り、ディグルはまた、笑みを浮かべる。
「衣裳は、いらない。馬と剣がほしい。――骨のある娘だ」
「笑い事ではございません、殿下」
スタシアが面を青くしたまま、眉を吊り上げる。
「それというのも、殿下が長らくお渡りになられぬからでございますよ。寂しさにまぎれて、気がおかしくなられたのでしょう。わざと過激なことを仰って、きっと殿下のお心をご自分に向けられたかったのですわ」
それが、おなごというもの。妻というもの。
スタシアの言葉に、ディグルは肩をすくめた。
妃の性格は、正直言って知らない。わかろうともしない。性格など問題ではないのだ。世継ぎを生ませる道具。ただ、それだけの存在なのだから、そこに愛など必要はない。愛などなくとも、生殖行為はできる。行為を重ねれば、自然、子も生まれる。それだけだ。それだけの存在だ。
そんな相手に、何を求めるというのか。愛情がほしいのであれば、誰か愛人でも作ればよい。その男の子を孕みさえしなければ、何も問題はないのだ。多くの貴婦人たちがそうして、夫に省みられぬ寂しさを紛らわせている。それは公の秘密。上流社会では当たり前のことである。何を今更言うのだ。
「もとは、お前が勝手なことをしたのが悪いのだろう。俺は、あれに衣裳をやれ、とは命じていないぞ」
冷ややかな物言いに、スタシアの顔が更に青ざめる。彼女は気を利かせたつもりであろう。気を利かせたつもりで、藪をつついていらぬものを呼び出した。
「ほしければ、やればいいだろう。馬も、剣も。外出許可もな」
「殿下」
「離宮に閉じこもっているのがイヤなら、どこへなりと出かけるといい。俺が許可する。夫の許可だ。これ以上のものはないだろう」
「殿下!」
「国に帰りたいのなら、それも許す。まだ、生娘だ。他の誰に嫁ぐこともできるぞ。恋仲の男でもあれば、その相手の元に走ればよいのだ。俺は、あんな小娘に未練はないからな」
十歳近く歳の離れた娘。公用語を使わねば、言葉もろくに通じぬ娘。早くから嫁ぎ先が決まっていたこともあって、さぞや甘やかされて育ったのであろう。隣国とはいえ、フィラティノアは辺境の国。降嫁のつもりでやってきたに違いない。初めて逢った日の、あの、感情を宿さぬ瞳。笑いもしない、泣きもしない。ただ無言で型どおりの挨拶をし、自分の隣に座っていただけの娘だ。そのあとも、王太子妃のために用意された北の離宮にこもったまま。宴といっても姿を見せず、沈黙を守っていた娘。
後から知ったことではあるが、離宮から一歩も出なかったのは父の命だったという。国王である父が、花嫁の逃亡を恐れて、彼女を極力離宮に押し込めていたのだと。そんな話を重臣から漏れ聞いた。北の離宮は、王太子妃と、その侍女たちのみが住まう場所。男子の訪れは一切禁じられている。そこに足を踏み入れてよいのは、王太子のみだと。父が勝手に定めていたのだ。
「――おかわいそうな、妃殿下」
ポツリとスタシアが呟く。ディグルは視線だけを彼女に向けた。椅子に深く腰掛けたまま、手にした杯を弄んで、凍てついた海を思わせる双眸を、乳母に見せる。
「ここでは、殿下だけが頼りでしょうに。その殿下が、このように冷たいことを仰られては。このことを知られたら、どれほど悲しまれることか」
「悲しむ女が、馬や剣をほしがるか? あれは、そんな手弱女ではない」
鼻で笑うと、ディグルはゆっくり立ち上がった。
ほしいというなら、くれてやればいい。
もう一度同じ言葉を繰り返して。
「俺が子供のころに使った、剣技用の剣があったはずだ。それで満足しなければ、真剣を渡してやれ。馬は、厩舎から適当に見繕えといっておけ。――あとは、何か言っていたか?」
「その」
スタシアが口ごもった。視線を泳がせる彼女を見て、ディグルは成程と頷く。馬と剣とくれば。次に望むのは。
「相手か。競う相手がほしいと。そういったのか、あれは」
「――」
スタシアの沈黙が答えであった。
相手として、おそらくクラウディアはディグルを指名したのだろう。退屈しのぎの相手に、夫を剣術の稽古役として。恐れ気もなく妃は言ったのだ。
(おもしろい)
心の底から、笑いがこみ上げてきた。おもしろい。面白い娘だと、胸のうちで繰り返す。それほどまでに望むのであれば、相手になってやってもよい。そう思った。貴族の娘の剣術など、所詮護身用程度のもの。適当に痛めつけてそれで終わりだ。もしくは、勝たせて花を持たせるか。調子に乗ったところで、その誇りを潰してみるのも面白い。なににせよ、こちらも退屈せずに済みそうである。
「その望み、すべて叶えてやろう。これが俺からの、祝いの品だ」
◆
それから数刻後。マリサの元に、一振りの剣が届けられた。剣技用の、刃をつぶした剣である。手になじむ感触から、これは誰かがかなり使い込んだもので、わざわざ作らせてものではないことがわかった。想像するに、ディグルの使い古しといったところか。
「いやみな男ね」
ひとりごちても、聞く相手は誰もいない。侍女も知らぬふりをして、もうひとつの包みを開けている。そこから現れたのは、男性用の衣装であった。騎士階級の青年がまとうような、簡素な服装である。こちらはまだ新品で、誰も袖を通した形跡はない。
彼女の要望を受けて、急いで仕立てさせたのか。それを思うと少し心が疼いたが。
「あとは、馬ね」
それから外出許可。これは手に入れることができるのだろうか。その件に関しては、使いの侍女たちは何も言ってはいなかったが。とりあえず、これだけでも満足である。これで、今日の散策も少しは楽しいものになるであろう。
と。
「ルナリア様がお越しにございます。いかが致しましょうか」
次の間から、遠慮がちに侍女が声をかけてきた。
「ルナリア?」
マリサが訝しげに首を傾けると、侍女の一人がそっと彼女に耳打ちする。
「王太子殿下の、寵姫にございます」
あっ、と声を上げるところであった。ルナリア。ルーラ、としかその名を聞いていなかったせいか、一瞬誰のことかわからなかったが。ディグルには愛妾がいたのだ。白銀の貴婦人、オリアそのものが姿を現したような美女だという。ディグルと並ぶとそれは似合いの二人で、と言いかけて。侍女があわてて口をつぐんだのを鮮明に覚えている。
貴族たるもの、愛妾の一人や二人、おいてもおかしくはない。いないほうが珍しいくらいである。マリサも特にその存在は気にも留めていなかったのだが。
その、寵姫が、正妃の元を訪れるなど。
(まさか)
マリサの予感は的中した。
ルナリアの入室を認め、彼女を通してある控えの間に足を踏み入れたとき。マリサは、己の読みが正しかったことを実感することになる。
「お初におめもじ致します。ルナリアにございます」
椅子にかけず、扉のそばに佇む女性。近衛士官の礼を取ったその美女は。
騎士のなりをしていたのである。
離宮の周囲には、こじんまりとした庭園が広がっている。マリサを迎えるために作らせたのであろう。北国にしては珍しく、鮮やかな花ばかりが生けられている。フィラティノアに生息するすべての種類の花が、そこに集められたのではないかと思われるほど、種類は豊富であった。冬が終わり、春になれば。ここも美しい花園と化す。それが異国の皇女の心を慰めるものだと、フィラティノア王は信じて疑わないのだ。
「こんな花なんて、手入れが面倒なだけなのに」
マリサの呟きは、おそらく誰の耳にも届かなかったであろう。
ことに、背後に着き従う女性――王太子の愛妾・ルナリアの耳には。
あれから。マリサはディグルより送られた服に着替え、剣を取ってルナリアとともにこの庭に出た。やはり、ディグルが送り込んだマリサの相手とは、ルナリアその人であったのだ。
「私では、力不足であると思われますが」
殊勝なことを言ってはいたが、ルナリアの態度は不遜であった。こびるところなど少しもない。それどころか、正室に対する礼も微塵もない。彼女には、謙譲の意というものが欠落しているのではないかと、そう思えるほどに無機質で無表情であった。
愛想笑いがほしいわけではないが。これではまるで、――まるで。
(ディグル・エルシェレオスにそっくり)
実は、愛妾とは嘘で。ルナリアはディグルの双子の妹なのではないか、と疑いたくなってしまう。それほどに、雰囲気が同じであったのだ。これなら、侍女が「似合いの二人」というのも頷ける。初めて逢った折の、ディグルの印象。それとまったく同じものをルナリアから受けたのだ。
「私のことは、どうぞルーラとお呼びください」
自己紹介の後、彼女はそう言った。マリサは、呼び方などどうでもよかったが。とりあえず本人の意向に従い、ルーラ、と声をかけた。
「じゃあ早速、お手合わせ願いましょうか」
結果、こうして二人、庭に出た。侍女たちは、正室と側室、二人の女性の対面を不安げに見守っていたようだが。人払いをするとそれ以上関ろうとするようなことはなかった。
「できれば、剣だけではなく、馬術のほうもお相手くださると嬉しいのだけど」
振り返らずに言うと、背後から端的な答えが返された。
「御意」
「手加減はしなくて結構。花を持たせるためにわざと負けるとか。そういうことはしないでほしいわ。失礼だから」
「御意」
「ところであなた、強いの?」
「それは、ご自分でご確認ください」
試してみればわかる、と。そっけなく言い放つ愛妾に、マリサは挑戦的な笑みを向けた。
人形のような、と形容される件の寵姫は、到底剣を振るえるようには見えなかった。舞踏会や手芸、娘同士での談話が似合うわけでもない。「そっけない」「愛想のない」、その言葉だけがぴたりと当てはまる、きれいなだけの女性に見えるのだ。それでも、人を見かけだけで判断してはならない。それは、幼少のころから聞かされ続けた言葉であり。また、己にも該当する言葉であった。現に、侍女たちも。この美少女対美女。正室と側室の手合わせを、ままごとのような剣技だと思っていることであろう。
(ちょうどいいのかもしれない)
ルーラの腕も確かなのであれば。こちらも手加減はしない。サリカとの手合わせと同じく、真剣で渡り合うのと同じく。本気でかかるまでだ。ただひとつ問題なのは。我を忘れて、ルーラを傷つけてしまうこと。そんなことをすれば、嫉妬に駆られた正室が、手合わせを口実に側室を痛めつけたことになってしまう。
ばからしい。そんな噂のネタにだけは、なりたくなかった。
「妃殿下は」
ここにしましょう、と立ち止まった箇所でマリサが振り返ると、ルーラは抑揚のない声で語りかけてきた。「妃殿下は、いずこで剣を習われたのですか」
「秘密」
唇の前に指を立てて、娘たちがそうするように、マリサは小さく笑った。ルーラは落胆もせず、ただ頷き。自ら剣を引き抜いた。陽光を反射しない、つぶされた剣。棒に等しい、金属の塊。これでも、まともに当たればそれなりの傷を追うことになる。二人は、それぞれの切っ先を相手のそれに触れ合わせて。ゆっくりと礼をした。
「打ち込んでいただきたい」
ルーラの言葉に、マリサは先制攻撃を仕掛けた。命のやり取りでは、この一撃がものを言う。マリサは、はじめからルーラの急所を狙って剣を繰り出した。
「っ!」
予想通り、それはあっさりと交わされる。同時に、ルーラの剣が目の前を掠めた。本気だ。彼女も本気で打ち込んできている。マリサは、それを剣で抑え、更に鋭く打ち込んだ。金属のぶつかり合う、高い音が辺りに響く。衛兵たちが何事かと飛んできたようだが、その場の光景に、何も言うことができず。ただ、押し黙って二人の剣技を見守るしかなかった。
マリサが風ならば、ルーラは樹木だった。
風の繰り出す攻撃を、樹木が葉をそよがせて受け流す。マリサのほうが動きが多いことに対し、ルーラはその場をほとんど動いてはいなかった。無駄な力を使わない、というのか。いや、そういうことではなく。
(防御の剣)
同じだ。片翼と。サリカが教え込まれた剣と。
一瞬、そこに佇むのがルーラではなく、サリカであるかのような錯覚を覚える。
王族の剣は、基本的には防御の剣。マリサのように、攻撃を主とした剣技は、あまり教えられることはない。そして。防御の剣は、相手の隙を見て一気に攻撃に転じるのだ。
「――!」
長いこと練習を怠っていたせいだろう。疲れから、感覚がわずかに狂った。それをルーラが見逃すはずがない。マリサの剣を弾き飛ばすと、彼女の急所めがけて突きを繰り出した。
「甘い」
マリサは、紙一重でそれを交わす。そのまま地面を転がるようにして、剣を取り戻すと。切っ先をルーラの喉に向ける。が。それと同時に、ルーラの剣先もマリサの心臓に突きつけられていたのだ。
それから。二人とも動かなかった。微動だにしなかったのだ。
マリサは、剣を彼女に向けたまま、息を呑んだ。
(隙がない)
実戦であれば、ここで相打ちである。相打ちの可能性があったとしても、より有利に事を運ぶのが剣士の鉄則である。腕を一本やったとしても。生き残ったほうが勝ちなのだ。しかし、ルーラ相手にはそれもできなかった。もっとも、これは実戦ではないのだが。
(強い)
そう思った。ルーラの腕は確かだ。ルーラもいずこで剣を習い覚えたのか。女性にしては、かなりの剣客である。いや、女性でなくとも。そのまま近衛騎士団、もしくは王族の親衛隊となれる腕を持っている。ルーラの素性は知らないが、もしかしたら近衛士官の令嬢かもしれないと、ふと思った。それだけに、正確な剣術。少なくとも、ディグルがマリサを軽んじていないことはわかった。姫の相手は、側室で十分、そういった考えではないようだ。ルーラは、ディグルの名代。それを勤め上げる実力の持ち主である。
「続けますか?」
ルーラの問いに、マリサはかぶりを振った。
「続きは、明日の楽しみに取っておきます」
それは、ルーラの予想していなかった返答に違いない。ルーラは、冷めた瞳をわずかに揺らし、自分よりも遥かに幼い正室を見下ろした。
「殿下のお許しがなければ、私は妃殿下の元にお伺いすることは叶いません」
「じゃあ、許しをもらうまでです」
夫の持ち物は、妻のもの。その理論が通るとは思わぬが。夫の側室であれば、自分のものでもある。それで無理を通すのも面白いかもしれない。
側室を貸してほしい。
正室に、そういわれたならば。ディグルはどんな顔をするのだろうか。あの鉄面皮に少しは表情を与えられるのだろうか。もの扱いされるルーラには申し訳ないが。
(面白そう)
マリサは、久しぶりに覚えた精神の高揚に、酔い始めていた。
――馬と剣がほしい。
幼い妃の言葉を、スタシアから伝え聞いたディグルは、そういって、わずかに口元を歪めた。これが彼の感情表現。心底おかしいと思ったときの表情であった。おそらくこの場にいるものは、彼のそんな微妙な表情の変化など感づくこともできなかったであろう。幼少のころより身近に仕えたスタシアですら。彼のこの笑みが、負の感情であるか否かをはかりかねているのだから。そんな気配を感じ取り、ディグルはまた、笑みを浮かべる。
「衣裳は、いらない。馬と剣がほしい。――骨のある娘だ」
「笑い事ではございません、殿下」
スタシアが面を青くしたまま、眉を吊り上げる。
「それというのも、殿下が長らくお渡りになられぬからでございますよ。寂しさにまぎれて、気がおかしくなられたのでしょう。わざと過激なことを仰って、きっと殿下のお心をご自分に向けられたかったのですわ」
それが、おなごというもの。妻というもの。
スタシアの言葉に、ディグルは肩をすくめた。
妃の性格は、正直言って知らない。わかろうともしない。性格など問題ではないのだ。世継ぎを生ませる道具。ただ、それだけの存在なのだから、そこに愛など必要はない。愛などなくとも、生殖行為はできる。行為を重ねれば、自然、子も生まれる。それだけだ。それだけの存在だ。
そんな相手に、何を求めるというのか。愛情がほしいのであれば、誰か愛人でも作ればよい。その男の子を孕みさえしなければ、何も問題はないのだ。多くの貴婦人たちがそうして、夫に省みられぬ寂しさを紛らわせている。それは公の秘密。上流社会では当たり前のことである。何を今更言うのだ。
「もとは、お前が勝手なことをしたのが悪いのだろう。俺は、あれに衣裳をやれ、とは命じていないぞ」
冷ややかな物言いに、スタシアの顔が更に青ざめる。彼女は気を利かせたつもりであろう。気を利かせたつもりで、藪をつついていらぬものを呼び出した。
「ほしければ、やればいいだろう。馬も、剣も。外出許可もな」
「殿下」
「離宮に閉じこもっているのがイヤなら、どこへなりと出かけるといい。俺が許可する。夫の許可だ。これ以上のものはないだろう」
「殿下!」
「国に帰りたいのなら、それも許す。まだ、生娘だ。他の誰に嫁ぐこともできるぞ。恋仲の男でもあれば、その相手の元に走ればよいのだ。俺は、あんな小娘に未練はないからな」
十歳近く歳の離れた娘。公用語を使わねば、言葉もろくに通じぬ娘。早くから嫁ぎ先が決まっていたこともあって、さぞや甘やかされて育ったのであろう。隣国とはいえ、フィラティノアは辺境の国。降嫁のつもりでやってきたに違いない。初めて逢った日の、あの、感情を宿さぬ瞳。笑いもしない、泣きもしない。ただ無言で型どおりの挨拶をし、自分の隣に座っていただけの娘だ。そのあとも、王太子妃のために用意された北の離宮にこもったまま。宴といっても姿を見せず、沈黙を守っていた娘。
後から知ったことではあるが、離宮から一歩も出なかったのは父の命だったという。国王である父が、花嫁の逃亡を恐れて、彼女を極力離宮に押し込めていたのだと。そんな話を重臣から漏れ聞いた。北の離宮は、王太子妃と、その侍女たちのみが住まう場所。男子の訪れは一切禁じられている。そこに足を踏み入れてよいのは、王太子のみだと。父が勝手に定めていたのだ。
「――おかわいそうな、妃殿下」
ポツリとスタシアが呟く。ディグルは視線だけを彼女に向けた。椅子に深く腰掛けたまま、手にした杯を弄んで、凍てついた海を思わせる双眸を、乳母に見せる。
「ここでは、殿下だけが頼りでしょうに。その殿下が、このように冷たいことを仰られては。このことを知られたら、どれほど悲しまれることか」
「悲しむ女が、馬や剣をほしがるか? あれは、そんな手弱女ではない」
鼻で笑うと、ディグルはゆっくり立ち上がった。
ほしいというなら、くれてやればいい。
もう一度同じ言葉を繰り返して。
「俺が子供のころに使った、剣技用の剣があったはずだ。それで満足しなければ、真剣を渡してやれ。馬は、厩舎から適当に見繕えといっておけ。――あとは、何か言っていたか?」
「その」
スタシアが口ごもった。視線を泳がせる彼女を見て、ディグルは成程と頷く。馬と剣とくれば。次に望むのは。
「相手か。競う相手がほしいと。そういったのか、あれは」
「――」
スタシアの沈黙が答えであった。
相手として、おそらくクラウディアはディグルを指名したのだろう。退屈しのぎの相手に、夫を剣術の稽古役として。恐れ気もなく妃は言ったのだ。
(おもしろい)
心の底から、笑いがこみ上げてきた。おもしろい。面白い娘だと、胸のうちで繰り返す。それほどまでに望むのであれば、相手になってやってもよい。そう思った。貴族の娘の剣術など、所詮護身用程度のもの。適当に痛めつけてそれで終わりだ。もしくは、勝たせて花を持たせるか。調子に乗ったところで、その誇りを潰してみるのも面白い。なににせよ、こちらも退屈せずに済みそうである。
「その望み、すべて叶えてやろう。これが俺からの、祝いの品だ」
◆
それから数刻後。マリサの元に、一振りの剣が届けられた。剣技用の、刃をつぶした剣である。手になじむ感触から、これは誰かがかなり使い込んだもので、わざわざ作らせてものではないことがわかった。想像するに、ディグルの使い古しといったところか。
「いやみな男ね」
ひとりごちても、聞く相手は誰もいない。侍女も知らぬふりをして、もうひとつの包みを開けている。そこから現れたのは、男性用の衣装であった。騎士階級の青年がまとうような、簡素な服装である。こちらはまだ新品で、誰も袖を通した形跡はない。
彼女の要望を受けて、急いで仕立てさせたのか。それを思うと少し心が疼いたが。
「あとは、馬ね」
それから外出許可。これは手に入れることができるのだろうか。その件に関しては、使いの侍女たちは何も言ってはいなかったが。とりあえず、これだけでも満足である。これで、今日の散策も少しは楽しいものになるであろう。
と。
「ルナリア様がお越しにございます。いかが致しましょうか」
次の間から、遠慮がちに侍女が声をかけてきた。
「ルナリア?」
マリサが訝しげに首を傾けると、侍女の一人がそっと彼女に耳打ちする。
「王太子殿下の、寵姫にございます」
あっ、と声を上げるところであった。ルナリア。ルーラ、としかその名を聞いていなかったせいか、一瞬誰のことかわからなかったが。ディグルには愛妾がいたのだ。白銀の貴婦人、オリアそのものが姿を現したような美女だという。ディグルと並ぶとそれは似合いの二人で、と言いかけて。侍女があわてて口をつぐんだのを鮮明に覚えている。
貴族たるもの、愛妾の一人や二人、おいてもおかしくはない。いないほうが珍しいくらいである。マリサも特にその存在は気にも留めていなかったのだが。
その、寵姫が、正妃の元を訪れるなど。
(まさか)
マリサの予感は的中した。
ルナリアの入室を認め、彼女を通してある控えの間に足を踏み入れたとき。マリサは、己の読みが正しかったことを実感することになる。
「お初におめもじ致します。ルナリアにございます」
椅子にかけず、扉のそばに佇む女性。近衛士官の礼を取ったその美女は。
騎士のなりをしていたのである。
離宮の周囲には、こじんまりとした庭園が広がっている。マリサを迎えるために作らせたのであろう。北国にしては珍しく、鮮やかな花ばかりが生けられている。フィラティノアに生息するすべての種類の花が、そこに集められたのではないかと思われるほど、種類は豊富であった。冬が終わり、春になれば。ここも美しい花園と化す。それが異国の皇女の心を慰めるものだと、フィラティノア王は信じて疑わないのだ。
「こんな花なんて、手入れが面倒なだけなのに」
マリサの呟きは、おそらく誰の耳にも届かなかったであろう。
ことに、背後に着き従う女性――王太子の愛妾・ルナリアの耳には。
あれから。マリサはディグルより送られた服に着替え、剣を取ってルナリアとともにこの庭に出た。やはり、ディグルが送り込んだマリサの相手とは、ルナリアその人であったのだ。
「私では、力不足であると思われますが」
殊勝なことを言ってはいたが、ルナリアの態度は不遜であった。こびるところなど少しもない。それどころか、正室に対する礼も微塵もない。彼女には、謙譲の意というものが欠落しているのではないかと、そう思えるほどに無機質で無表情であった。
愛想笑いがほしいわけではないが。これではまるで、――まるで。
(ディグル・エルシェレオスにそっくり)
実は、愛妾とは嘘で。ルナリアはディグルの双子の妹なのではないか、と疑いたくなってしまう。それほどに、雰囲気が同じであったのだ。これなら、侍女が「似合いの二人」というのも頷ける。初めて逢った折の、ディグルの印象。それとまったく同じものをルナリアから受けたのだ。
「私のことは、どうぞルーラとお呼びください」
自己紹介の後、彼女はそう言った。マリサは、呼び方などどうでもよかったが。とりあえず本人の意向に従い、ルーラ、と声をかけた。
「じゃあ早速、お手合わせ願いましょうか」
結果、こうして二人、庭に出た。侍女たちは、正室と側室、二人の女性の対面を不安げに見守っていたようだが。人払いをするとそれ以上関ろうとするようなことはなかった。
「できれば、剣だけではなく、馬術のほうもお相手くださると嬉しいのだけど」
振り返らずに言うと、背後から端的な答えが返された。
「御意」
「手加減はしなくて結構。花を持たせるためにわざと負けるとか。そういうことはしないでほしいわ。失礼だから」
「御意」
「ところであなた、強いの?」
「それは、ご自分でご確認ください」
試してみればわかる、と。そっけなく言い放つ愛妾に、マリサは挑戦的な笑みを向けた。
人形のような、と形容される件の寵姫は、到底剣を振るえるようには見えなかった。舞踏会や手芸、娘同士での談話が似合うわけでもない。「そっけない」「愛想のない」、その言葉だけがぴたりと当てはまる、きれいなだけの女性に見えるのだ。それでも、人を見かけだけで判断してはならない。それは、幼少のころから聞かされ続けた言葉であり。また、己にも該当する言葉であった。現に、侍女たちも。この美少女対美女。正室と側室の手合わせを、ままごとのような剣技だと思っていることであろう。
(ちょうどいいのかもしれない)
ルーラの腕も確かなのであれば。こちらも手加減はしない。サリカとの手合わせと同じく、真剣で渡り合うのと同じく。本気でかかるまでだ。ただひとつ問題なのは。我を忘れて、ルーラを傷つけてしまうこと。そんなことをすれば、嫉妬に駆られた正室が、手合わせを口実に側室を痛めつけたことになってしまう。
ばからしい。そんな噂のネタにだけは、なりたくなかった。
「妃殿下は」
ここにしましょう、と立ち止まった箇所でマリサが振り返ると、ルーラは抑揚のない声で語りかけてきた。「妃殿下は、いずこで剣を習われたのですか」
「秘密」
唇の前に指を立てて、娘たちがそうするように、マリサは小さく笑った。ルーラは落胆もせず、ただ頷き。自ら剣を引き抜いた。陽光を反射しない、つぶされた剣。棒に等しい、金属の塊。これでも、まともに当たればそれなりの傷を追うことになる。二人は、それぞれの切っ先を相手のそれに触れ合わせて。ゆっくりと礼をした。
「打ち込んでいただきたい」
ルーラの言葉に、マリサは先制攻撃を仕掛けた。命のやり取りでは、この一撃がものを言う。マリサは、はじめからルーラの急所を狙って剣を繰り出した。
「っ!」
予想通り、それはあっさりと交わされる。同時に、ルーラの剣が目の前を掠めた。本気だ。彼女も本気で打ち込んできている。マリサは、それを剣で抑え、更に鋭く打ち込んだ。金属のぶつかり合う、高い音が辺りに響く。衛兵たちが何事かと飛んできたようだが、その場の光景に、何も言うことができず。ただ、押し黙って二人の剣技を見守るしかなかった。
マリサが風ならば、ルーラは樹木だった。
風の繰り出す攻撃を、樹木が葉をそよがせて受け流す。マリサのほうが動きが多いことに対し、ルーラはその場をほとんど動いてはいなかった。無駄な力を使わない、というのか。いや、そういうことではなく。
(防御の剣)
同じだ。片翼と。サリカが教え込まれた剣と。
一瞬、そこに佇むのがルーラではなく、サリカであるかのような錯覚を覚える。
王族の剣は、基本的には防御の剣。マリサのように、攻撃を主とした剣技は、あまり教えられることはない。そして。防御の剣は、相手の隙を見て一気に攻撃に転じるのだ。
「――!」
長いこと練習を怠っていたせいだろう。疲れから、感覚がわずかに狂った。それをルーラが見逃すはずがない。マリサの剣を弾き飛ばすと、彼女の急所めがけて突きを繰り出した。
「甘い」
マリサは、紙一重でそれを交わす。そのまま地面を転がるようにして、剣を取り戻すと。切っ先をルーラの喉に向ける。が。それと同時に、ルーラの剣先もマリサの心臓に突きつけられていたのだ。
それから。二人とも動かなかった。微動だにしなかったのだ。
マリサは、剣を彼女に向けたまま、息を呑んだ。
(隙がない)
実戦であれば、ここで相打ちである。相打ちの可能性があったとしても、より有利に事を運ぶのが剣士の鉄則である。腕を一本やったとしても。生き残ったほうが勝ちなのだ。しかし、ルーラ相手にはそれもできなかった。もっとも、これは実戦ではないのだが。
(強い)
そう思った。ルーラの腕は確かだ。ルーラもいずこで剣を習い覚えたのか。女性にしては、かなりの剣客である。いや、女性でなくとも。そのまま近衛騎士団、もしくは王族の親衛隊となれる腕を持っている。ルーラの素性は知らないが、もしかしたら近衛士官の令嬢かもしれないと、ふと思った。それだけに、正確な剣術。少なくとも、ディグルがマリサを軽んじていないことはわかった。姫の相手は、側室で十分、そういった考えではないようだ。ルーラは、ディグルの名代。それを勤め上げる実力の持ち主である。
「続けますか?」
ルーラの問いに、マリサはかぶりを振った。
「続きは、明日の楽しみに取っておきます」
それは、ルーラの予想していなかった返答に違いない。ルーラは、冷めた瞳をわずかに揺らし、自分よりも遥かに幼い正室を見下ろした。
「殿下のお許しがなければ、私は妃殿下の元にお伺いすることは叶いません」
「じゃあ、許しをもらうまでです」
夫の持ち物は、妻のもの。その理論が通るとは思わぬが。夫の側室であれば、自分のものでもある。それで無理を通すのも面白いかもしれない。
側室を貸してほしい。
正室に、そういわれたならば。ディグルはどんな顔をするのだろうか。あの鉄面皮に少しは表情を与えられるのだろうか。もの扱いされるルーラには申し訳ないが。
(面白そう)
マリサは、久しぶりに覚えた精神の高揚に、酔い始めていた。
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