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第一章 さすらいの皇女
魔手4
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「時間があれば、お相手してやったんだけどな」
ちょっと勿体ないことをしたか――ジェリオは、彼女を寝台に横たえて、息を吐いた。しなやかな肢体、滑らかな肌。熟した果実を思わせる乳房。全てが、彼を誘っている。サリカは別として、なかなかこのような女性にめぐり会う機会はない。刺客などをやってはいるが、この女性、カイラもそれなりの階級の出なのだろう。
ジェリオは裂いた敷布で彼女の手首を縛り上げ、寝台の脚に固定した。さらにはその両足も同じように縛め、これは扉に括りつける。これで、簡単には戸を開けることは出来ぬだろう。
あまった布で、自身の患部の止血もすると、漸くここで人心地ついた。酒の一杯でも口に含みたいところだが、今はそんな悠長なことはしていられない。
「皇女さん」
彼女を探さなくては。
カイル、とカイラが呼んでいた青年。彼と共に逃走した、あの皇女はどこへ行ったのだろう。
「また、振り出しかよ」
呟いてみるが、不思議と絶望感はない。この大陸を出ない限り、彼女のことは探し出す自信がある。根拠もない自信ではあるが、なぜかそう思えるのだ。
「運命の、導きってヤツか?」
彼はそっと手の甲で自身の唇を押さえる。まだ、覚えている。サリカの唇の感触を。舌の味を。仄かに香る、彼女の肌の匂いと共に。これを忘れぬ限り、彼女との絆は切れてはいない。愚にもつかぬ事を考えて、ジェリオは口元を皮肉げに歪めた。
◆
どこまで走り続けるのだろう。
カイルの腕の中で、サリカはぼんやりと考えた。彼はあの部屋の高さをものともせず、巨大な体躯とは裏腹に軽やかに路地に降り立った。そのまま息もつかずに走り出し、今の今まで脚色は一向に衰えなかったのである。
「どこに行くんだ?」
時折そう尋ねてみたが、答えはなかった。理性が飛んでしまっているのか、それとも答える気がないのか。終始彼は無言であった。もっともありがちだと思えるのは、行き先を全く考えずに、ただカイラから、あの女性から逃げているということである。
しかしその逃避行も、やがて終わるときが来た。何のことはない。転んだのである。足がもつれたのだろう。地響きに近い音を立てて、カイルの巨体が地面に倒れこんだのだ。それでも、サリカを守るべく身体をひねったので、彼は奇妙な体勢でそこに転がってしまった。
「大丈夫か?」
打ち付けた尻をさすりながらサリカが立ち上がると、カイルは寂しそうに笑った。命が尽きる前の馬のようだと、なんとなくサリカが思ったとき。彼は、もぞもぞと身を起こした。彼女は慌てて、それに手を貸す。
重い。半端でなく重い。
「あ、ありがとう」
照れたように彼は首をすくめた。これが、彼の精一杯の感謝の意なのだろう。
「って。それ、僕の台詞だと思うけど」
サリカは苦笑する。彼があの場から彼女を連れ出してこなければ、彼女はカイラの餌食になっていたのだ。
(ジェリオは平気かな)
ふと、褐色の瞳の刺客を思い出す。彼のことだ。うまく切り抜けているとは思うのだが。そう考えて、彼女は顔をしかめた。なぜ、あんな男の心配などする必要がある? 彼は、もともと刺客なのだ。フィラティノアに依頼されて、彼女の命を狙う。
(フィラティノア?)
サリカは、カイルを見下ろした。
「カイルは、誰に頼まれたの? 誰が、僕を殺せといった?」
彼は小首をかしげた。眉を寄せて、うぅーん、と低く唸る。
「カイラ」
ポツリと呟いてから。
「カイラが、頼まれた。俺は、ついてきただけ。よく、わからない」
どこか遠くを見るような、夢見がちな瞳で答える。
薬か何かで操られているのだろうか、この男は。そうとしか思えない反応をする。先ほどの残忍性も、今のどこか心を置き忘れたような言動も。薬物で精神を蝕まれた人間のそれである。医学の都であるミアルシァでは、薬で人の精神を操る術を知る医師が多く存在すると聞いているが。あの、カイラという女性も、その方法を知っているものの一人に違いない。
そうなると、彼らの雇い主はミアルシァか。また他に、敵が出来たのだろうか。
「俺、帰る。あんた、遠くに逃げてくれ。カイラが追ってこないところへ。追いかけそうになったら、俺が止める」
カイルは、持ったままであったサリカの短剣を差し出した。彼女がそれを受け取ると、ぎこちなく笑って立ち上がろうとする。が。すぐによろけてその場に座り込んでしまう。どうしたのかと思えば。彼の足首は、かなり腫れ上がっていた。おそらく、路上に飛び降りたときに捻ったのだろう。そのまま走り続けたので、悪化したのだ。これでは歩くことも出来まい。今までは気力で走ってきたのが、それを失った今は立ち上がることすら、ままならぬのだ。
かといって。サリカ一人の力では、どうすることも出来ない。誰か、人を呼んでこなければ。
「大丈夫だ。俺は、すぐ元気になる」
彼女を気遣わせまいとして、やわらかく微笑む巨漢。その、頭を。そっと抱きしめてから。
「待ってて。すぐ、戻るから」
言い置いて、彼女はその場を後にした。
常夜灯に照らされた街を、彼女は市街の中心部に向けて走った。
彼女たちがいたのは、街の外れ。宿を取っていた街の、隣の街に入ってしまったのだろう。目にする景色は、覚えのないものばかりである。この時代の街は、街自体が独立しているものが多く、その構図は市長の趣味が大きく反映しているのだ。ゆえに、近郊都市であってもひとつとして同じつくりの街はない。それぞれ、個性的に作られているのである。
セルニダのように、帝都としての役割を持つ街ならば他にも例を見られよう。しかし、このように辺境ともなれば。土地土地の産物、商業、工芸などに大きく左右される。
それでも、基本的には都市の中心部には貴族階級が住み着き、その周囲を同心円状に職人街・商人街が囲んでいくというのが一般的であったのだ。
さすがにこの時間帯となれば、街を歩く人物も限られている。酔っぱらいか、もしくは酔狂な夜遊び貴族。貴族であれば、大概は高貴なる義務のために、難渋しているものを助けることとなっているのだが。道端に止めてある馬車一つ一つに声を掛けても、御者や従者たちに悉く首を横に振られてしまった。ここには、崇高な精神は存在しないのかもしれない。サリカが諦めかけたとき、その目が、ひときわ目立つ馬車を捕らえた。
黒塗りの車体に、金の紋章が埋め込まれている高級馬車。かなり上の爵位のものの持ち物であろう。これならば、と彼女はそこに近づいた。
「すまない」
軽く声を掛けると、御者が何だというようにこちらに視線を向けた。彼は無遠慮にサリカの姿を眺めると、懐からなにやら取り出して。
「向こうにいけ」
野良犬でも追い払うように喉の奥で呟いた。同時に、ぽい、と路上に何かを投げ出す。ちゃりん、と高い音がしたところを見ると、硬貨らしい。サリカは驚いて、御者を見上げた。
「男娼に用はない。さっさと消えろ。目障りだ」
「男娼?」
いわれて、サリカは改めて己の姿を見下ろした。カイルに裂かれた服は、乳房こそ隠しているものの、艶かしくはだけていて、それが春をひさぐものを連想させるのだ。暗がりの上、帽子を被っているので、少女だとばれることはなかったが。今までもそういった目で見られてきたに違いない。サリカは憤りを覚え、御者を睨みつけた。
「違う! 怪我人がいるんだ。医者を呼んでくれないか?」
彼女の言葉に、しかし御者は冷淡だった。
「もっとましな嘘をつけ。早く消えろ。今すぐにだ」
蔑みの目を向け、こちらに向けて唾を吐く。それを身をひねってかわし、サリカは視線を鋭くした。なんということだ。これが貴族に仕えるものの実態か。高貴なる義務を怠るばかりか、庶民に対して侮蔑の目を向ける。こんな連中がいる限り、国がよくなることはないのだ。貴族と生まれたものに仕えているだけで、自分も権力を得たと錯覚しているのだろうか。
(クズが)
内心吐き捨てて、その場を去ろうとしたとき。ごん、と鈍い音が耳に響いた。
「え?」
見上げれば、馬車の窓に人影が見えた。どうやら、この馬車の主か。若い娘のようであるが。目を凝らせば、闇に溶け入るぬばたまの黒髪が揺らめいているのが解かる。白い面の中でもの言いたげに輝く瞳は、瑠璃。黄昏のはかなさを思わせる瞳だというのに、力強く見えるのは、何故だろう。
たすけて。
少女の瞳が訴えている。見れば、口元には猿轡がかまされていた。加えて、ゆっくりと持ち上げられた両手。細く華奢な手首はきつく縛められ、それを解こうともがいたのだろう。痛々しい傷が白い肌にいくつもついていた。
少女が、かどわかされているのだ。
咄嗟にそう思ったサリカは、馬車の踏み台に足をかけた。何事かと驚く御者には目もくれず、力任せに扉を引く。と、扉に凭れていたであろう人物が、一気に転がり落ちてきた。
「うわっ」
思わず相手を抱きしめる形となり。サリカは驚きを隠せないまま、正面からその少女を見た。
彼女の腕に身を投げ出す形となった少女。どこの貴族の令嬢か。上質にして華美な衣裳を纏った彼女は猿轡越しに低く唸った。馬車の屋根から下げられた、燈火の明かりに浮かび上がったのは、黄昏の瞳を持つ、美少女であった。
「君は、あのときの」
眩暈に似た既視感。サリカは知らず、彼女の身体を抱きしめた。その口を塞ぐ猿轡を手早くはずし、縛られた両手を自由にしてやると、少女もまた、強くサリカを抱き返した。
「やっと、お会いできた」
恋する乙女のように、彼女はサリカに甘い微笑を投げかける。
二人の視線が薄闇の中で交差したとき、その絆を断ち切るように、御者の手がサリカの腕を乱暴につかみ、彼女を引き摺り下ろした。
「男娼風情が。無礼な」
路面に引き倒されたサリカを庇うように、少女が御者の前に立ちはだかる。
「なによ、人攫いのくせして!」
甲高い声で彼の非を罵ると、サリカに手を差し伸べる。大丈夫、と問いかける瞳の向こう。サリカが頷く間もなく御者の手が伸びるのが見えた。
「危ない」
サリカが声をかけるのと、少女――占い師イリアが振り返るのは、ほぼ同時だった。ふたりの少女の眼に映るのは、迫る御者の手。それは無造作に、品物でも掴むようにイリアを抱えあげると、乱暴に馬車に押し戻した。
「いや!」
イリアの悲鳴を遮って、扉が閉められる。御者は馬車を出そうと、素早く一歩を踏み出したが。
「……?」
夜の闇にぶつかったのか。弾かれたようによろめき、サリカの傍らに派手に尻餅をついた。
「な、なにを」
慌てて起き上がろうとするところを、今度は胸の辺りを巨大な足に踏みつけられて。彼は裏返された亀の如く惨めに手足をばたつかせる。サリカは呆気にとられて、足の主を見上げた。褐色の肌の、心優しき巨漢は、いつの間にサリカに追いついたのか。それよりも、ケガのほうはもう完治したというのか。カイルは、どこもどうでもないというふうに、寧ろ、威風堂々とその場に佇んでいた。
かつて、セルニダの宮殿の中で、このような蛮族を倒す英雄の彫像を見たことがある、とサリカは、ぼんやりと考える。
「女を手荒に扱うのは、よくない」
巨漢は呟くように言い。足に力を込めた。同時に、ぼき、とベキの中間のような音が辺りに響く。御者の肋骨が折れたらしい。彼は断末魔のごとき悲鳴を上げて、意識を手放した。
「カイル」
無茶なことを、と。窘める意味も含んでサリカがその名を呼べば、カイルは嬉しそうに彼女の前に膝を付いた。
「俺のこと、呼んでくれた。ありがとう」
大きな掌が、サリカの頬を包み込む。顔が近づけられ、ざらりとした舌が、サリカの唇を舐めた。これが、彼ら流の感情表現だということはなんとなくわかるのだが。あまり喜ばしいものではない。彼女は複雑な表情でカイルを見上げ、それから、イリアに視線を向けた。彼女は自力で馬車の扉を開けたらしく、身軽に路上に飛び降りてきた。観賞用の小鳥のごとき優雅さで、ぽんとサリカの側に降り立つと、彼女は小首をかしげてカイルを見上げる。
「アグネイヤの、従者の方?」
問いかけに、カイルは困惑したのか。どんぐり眼をくるくると動かして、助けを求めるようにサリカを見やる。サリカは苦笑を漏らし、小さくかぶりを振った。
「違う」
それ以上は、言えなかった。彼女を襲った刺客だが、何を思ったのか主旨がえをして助けてくれたことなど、言えるはずがない。
「ありがとう、カイル」
もう一度礼を述べれば、カイルはまたサリカを舐めるつもりか、ぺろりと舌を出してきた。それを遠慮がちに避けて、彼女は小さく微笑む。
「足は、もう大丈夫なのか?」
この通り、と言わんばかりに、彼はその場で足踏みを繰り返した。獣人の一族、といわれるだけに、その生命力も回復力も、常人のそれとは異なるのだろう。安堵の息を吐くサリカに、彼は今度は寂しげな目を向けた。
「ここで、さよならだ。俺、帰る」
帰る――カイラの元に。
「そう、か」
止めることは出来ない。名残惜しげにサリカに頬を摺り寄せ、抱きしめようとする彼の髪を優しく梳き。彼女は
「元気で」
短い別れの言葉を口にする。
次に逢ったときは、また、敵同士だ。彼はカイラと共にサリカの命を狙うのだろう。今夜のように、また気まぐれでサリカを助けるとは限らない。初対面の折の、あの肉食獣こそが彼の本来の姿かもしれないのだから。
去り行くカイルの後姿を見つめつつ。
「行こう。僕たちも」
サリカは、イリアの手を取った。
いつまでもここにいては危ない。イリアを捕らえた者たちが、いつ戻るか。それを考えると、落ち着いてはいられない。
「それなら、あのひとも――カイルも一緒に行けばいいじゃない?」
イリアの言葉に、サリカは、かぶりを振った。それはできない。それだけは。今のカイルが、どれほど善人であったとしても。
「彼には、行かなければ行けないところがあるんだ」
それだけを答えて、サリカは口を噤む。イリアは不思議そうにせわしく瞬きを繰り返したが。サリカに従って、夜の街を走り出した。
ちょっと勿体ないことをしたか――ジェリオは、彼女を寝台に横たえて、息を吐いた。しなやかな肢体、滑らかな肌。熟した果実を思わせる乳房。全てが、彼を誘っている。サリカは別として、なかなかこのような女性にめぐり会う機会はない。刺客などをやってはいるが、この女性、カイラもそれなりの階級の出なのだろう。
ジェリオは裂いた敷布で彼女の手首を縛り上げ、寝台の脚に固定した。さらにはその両足も同じように縛め、これは扉に括りつける。これで、簡単には戸を開けることは出来ぬだろう。
あまった布で、自身の患部の止血もすると、漸くここで人心地ついた。酒の一杯でも口に含みたいところだが、今はそんな悠長なことはしていられない。
「皇女さん」
彼女を探さなくては。
カイル、とカイラが呼んでいた青年。彼と共に逃走した、あの皇女はどこへ行ったのだろう。
「また、振り出しかよ」
呟いてみるが、不思議と絶望感はない。この大陸を出ない限り、彼女のことは探し出す自信がある。根拠もない自信ではあるが、なぜかそう思えるのだ。
「運命の、導きってヤツか?」
彼はそっと手の甲で自身の唇を押さえる。まだ、覚えている。サリカの唇の感触を。舌の味を。仄かに香る、彼女の肌の匂いと共に。これを忘れぬ限り、彼女との絆は切れてはいない。愚にもつかぬ事を考えて、ジェリオは口元を皮肉げに歪めた。
◆
どこまで走り続けるのだろう。
カイルの腕の中で、サリカはぼんやりと考えた。彼はあの部屋の高さをものともせず、巨大な体躯とは裏腹に軽やかに路地に降り立った。そのまま息もつかずに走り出し、今の今まで脚色は一向に衰えなかったのである。
「どこに行くんだ?」
時折そう尋ねてみたが、答えはなかった。理性が飛んでしまっているのか、それとも答える気がないのか。終始彼は無言であった。もっともありがちだと思えるのは、行き先を全く考えずに、ただカイラから、あの女性から逃げているということである。
しかしその逃避行も、やがて終わるときが来た。何のことはない。転んだのである。足がもつれたのだろう。地響きに近い音を立てて、カイルの巨体が地面に倒れこんだのだ。それでも、サリカを守るべく身体をひねったので、彼は奇妙な体勢でそこに転がってしまった。
「大丈夫か?」
打ち付けた尻をさすりながらサリカが立ち上がると、カイルは寂しそうに笑った。命が尽きる前の馬のようだと、なんとなくサリカが思ったとき。彼は、もぞもぞと身を起こした。彼女は慌てて、それに手を貸す。
重い。半端でなく重い。
「あ、ありがとう」
照れたように彼は首をすくめた。これが、彼の精一杯の感謝の意なのだろう。
「って。それ、僕の台詞だと思うけど」
サリカは苦笑する。彼があの場から彼女を連れ出してこなければ、彼女はカイラの餌食になっていたのだ。
(ジェリオは平気かな)
ふと、褐色の瞳の刺客を思い出す。彼のことだ。うまく切り抜けているとは思うのだが。そう考えて、彼女は顔をしかめた。なぜ、あんな男の心配などする必要がある? 彼は、もともと刺客なのだ。フィラティノアに依頼されて、彼女の命を狙う。
(フィラティノア?)
サリカは、カイルを見下ろした。
「カイルは、誰に頼まれたの? 誰が、僕を殺せといった?」
彼は小首をかしげた。眉を寄せて、うぅーん、と低く唸る。
「カイラ」
ポツリと呟いてから。
「カイラが、頼まれた。俺は、ついてきただけ。よく、わからない」
どこか遠くを見るような、夢見がちな瞳で答える。
薬か何かで操られているのだろうか、この男は。そうとしか思えない反応をする。先ほどの残忍性も、今のどこか心を置き忘れたような言動も。薬物で精神を蝕まれた人間のそれである。医学の都であるミアルシァでは、薬で人の精神を操る術を知る医師が多く存在すると聞いているが。あの、カイラという女性も、その方法を知っているものの一人に違いない。
そうなると、彼らの雇い主はミアルシァか。また他に、敵が出来たのだろうか。
「俺、帰る。あんた、遠くに逃げてくれ。カイラが追ってこないところへ。追いかけそうになったら、俺が止める」
カイルは、持ったままであったサリカの短剣を差し出した。彼女がそれを受け取ると、ぎこちなく笑って立ち上がろうとする。が。すぐによろけてその場に座り込んでしまう。どうしたのかと思えば。彼の足首は、かなり腫れ上がっていた。おそらく、路上に飛び降りたときに捻ったのだろう。そのまま走り続けたので、悪化したのだ。これでは歩くことも出来まい。今までは気力で走ってきたのが、それを失った今は立ち上がることすら、ままならぬのだ。
かといって。サリカ一人の力では、どうすることも出来ない。誰か、人を呼んでこなければ。
「大丈夫だ。俺は、すぐ元気になる」
彼女を気遣わせまいとして、やわらかく微笑む巨漢。その、頭を。そっと抱きしめてから。
「待ってて。すぐ、戻るから」
言い置いて、彼女はその場を後にした。
常夜灯に照らされた街を、彼女は市街の中心部に向けて走った。
彼女たちがいたのは、街の外れ。宿を取っていた街の、隣の街に入ってしまったのだろう。目にする景色は、覚えのないものばかりである。この時代の街は、街自体が独立しているものが多く、その構図は市長の趣味が大きく反映しているのだ。ゆえに、近郊都市であってもひとつとして同じつくりの街はない。それぞれ、個性的に作られているのである。
セルニダのように、帝都としての役割を持つ街ならば他にも例を見られよう。しかし、このように辺境ともなれば。土地土地の産物、商業、工芸などに大きく左右される。
それでも、基本的には都市の中心部には貴族階級が住み着き、その周囲を同心円状に職人街・商人街が囲んでいくというのが一般的であったのだ。
さすがにこの時間帯となれば、街を歩く人物も限られている。酔っぱらいか、もしくは酔狂な夜遊び貴族。貴族であれば、大概は高貴なる義務のために、難渋しているものを助けることとなっているのだが。道端に止めてある馬車一つ一つに声を掛けても、御者や従者たちに悉く首を横に振られてしまった。ここには、崇高な精神は存在しないのかもしれない。サリカが諦めかけたとき、その目が、ひときわ目立つ馬車を捕らえた。
黒塗りの車体に、金の紋章が埋め込まれている高級馬車。かなり上の爵位のものの持ち物であろう。これならば、と彼女はそこに近づいた。
「すまない」
軽く声を掛けると、御者が何だというようにこちらに視線を向けた。彼は無遠慮にサリカの姿を眺めると、懐からなにやら取り出して。
「向こうにいけ」
野良犬でも追い払うように喉の奥で呟いた。同時に、ぽい、と路上に何かを投げ出す。ちゃりん、と高い音がしたところを見ると、硬貨らしい。サリカは驚いて、御者を見上げた。
「男娼に用はない。さっさと消えろ。目障りだ」
「男娼?」
いわれて、サリカは改めて己の姿を見下ろした。カイルに裂かれた服は、乳房こそ隠しているものの、艶かしくはだけていて、それが春をひさぐものを連想させるのだ。暗がりの上、帽子を被っているので、少女だとばれることはなかったが。今までもそういった目で見られてきたに違いない。サリカは憤りを覚え、御者を睨みつけた。
「違う! 怪我人がいるんだ。医者を呼んでくれないか?」
彼女の言葉に、しかし御者は冷淡だった。
「もっとましな嘘をつけ。早く消えろ。今すぐにだ」
蔑みの目を向け、こちらに向けて唾を吐く。それを身をひねってかわし、サリカは視線を鋭くした。なんということだ。これが貴族に仕えるものの実態か。高貴なる義務を怠るばかりか、庶民に対して侮蔑の目を向ける。こんな連中がいる限り、国がよくなることはないのだ。貴族と生まれたものに仕えているだけで、自分も権力を得たと錯覚しているのだろうか。
(クズが)
内心吐き捨てて、その場を去ろうとしたとき。ごん、と鈍い音が耳に響いた。
「え?」
見上げれば、馬車の窓に人影が見えた。どうやら、この馬車の主か。若い娘のようであるが。目を凝らせば、闇に溶け入るぬばたまの黒髪が揺らめいているのが解かる。白い面の中でもの言いたげに輝く瞳は、瑠璃。黄昏のはかなさを思わせる瞳だというのに、力強く見えるのは、何故だろう。
たすけて。
少女の瞳が訴えている。見れば、口元には猿轡がかまされていた。加えて、ゆっくりと持ち上げられた両手。細く華奢な手首はきつく縛められ、それを解こうともがいたのだろう。痛々しい傷が白い肌にいくつもついていた。
少女が、かどわかされているのだ。
咄嗟にそう思ったサリカは、馬車の踏み台に足をかけた。何事かと驚く御者には目もくれず、力任せに扉を引く。と、扉に凭れていたであろう人物が、一気に転がり落ちてきた。
「うわっ」
思わず相手を抱きしめる形となり。サリカは驚きを隠せないまま、正面からその少女を見た。
彼女の腕に身を投げ出す形となった少女。どこの貴族の令嬢か。上質にして華美な衣裳を纏った彼女は猿轡越しに低く唸った。馬車の屋根から下げられた、燈火の明かりに浮かび上がったのは、黄昏の瞳を持つ、美少女であった。
「君は、あのときの」
眩暈に似た既視感。サリカは知らず、彼女の身体を抱きしめた。その口を塞ぐ猿轡を手早くはずし、縛られた両手を自由にしてやると、少女もまた、強くサリカを抱き返した。
「やっと、お会いできた」
恋する乙女のように、彼女はサリカに甘い微笑を投げかける。
二人の視線が薄闇の中で交差したとき、その絆を断ち切るように、御者の手がサリカの腕を乱暴につかみ、彼女を引き摺り下ろした。
「男娼風情が。無礼な」
路面に引き倒されたサリカを庇うように、少女が御者の前に立ちはだかる。
「なによ、人攫いのくせして!」
甲高い声で彼の非を罵ると、サリカに手を差し伸べる。大丈夫、と問いかける瞳の向こう。サリカが頷く間もなく御者の手が伸びるのが見えた。
「危ない」
サリカが声をかけるのと、少女――占い師イリアが振り返るのは、ほぼ同時だった。ふたりの少女の眼に映るのは、迫る御者の手。それは無造作に、品物でも掴むようにイリアを抱えあげると、乱暴に馬車に押し戻した。
「いや!」
イリアの悲鳴を遮って、扉が閉められる。御者は馬車を出そうと、素早く一歩を踏み出したが。
「……?」
夜の闇にぶつかったのか。弾かれたようによろめき、サリカの傍らに派手に尻餅をついた。
「な、なにを」
慌てて起き上がろうとするところを、今度は胸の辺りを巨大な足に踏みつけられて。彼は裏返された亀の如く惨めに手足をばたつかせる。サリカは呆気にとられて、足の主を見上げた。褐色の肌の、心優しき巨漢は、いつの間にサリカに追いついたのか。それよりも、ケガのほうはもう完治したというのか。カイルは、どこもどうでもないというふうに、寧ろ、威風堂々とその場に佇んでいた。
かつて、セルニダの宮殿の中で、このような蛮族を倒す英雄の彫像を見たことがある、とサリカは、ぼんやりと考える。
「女を手荒に扱うのは、よくない」
巨漢は呟くように言い。足に力を込めた。同時に、ぼき、とベキの中間のような音が辺りに響く。御者の肋骨が折れたらしい。彼は断末魔のごとき悲鳴を上げて、意識を手放した。
「カイル」
無茶なことを、と。窘める意味も含んでサリカがその名を呼べば、カイルは嬉しそうに彼女の前に膝を付いた。
「俺のこと、呼んでくれた。ありがとう」
大きな掌が、サリカの頬を包み込む。顔が近づけられ、ざらりとした舌が、サリカの唇を舐めた。これが、彼ら流の感情表現だということはなんとなくわかるのだが。あまり喜ばしいものではない。彼女は複雑な表情でカイルを見上げ、それから、イリアに視線を向けた。彼女は自力で馬車の扉を開けたらしく、身軽に路上に飛び降りてきた。観賞用の小鳥のごとき優雅さで、ぽんとサリカの側に降り立つと、彼女は小首をかしげてカイルを見上げる。
「アグネイヤの、従者の方?」
問いかけに、カイルは困惑したのか。どんぐり眼をくるくると動かして、助けを求めるようにサリカを見やる。サリカは苦笑を漏らし、小さくかぶりを振った。
「違う」
それ以上は、言えなかった。彼女を襲った刺客だが、何を思ったのか主旨がえをして助けてくれたことなど、言えるはずがない。
「ありがとう、カイル」
もう一度礼を述べれば、カイルはまたサリカを舐めるつもりか、ぺろりと舌を出してきた。それを遠慮がちに避けて、彼女は小さく微笑む。
「足は、もう大丈夫なのか?」
この通り、と言わんばかりに、彼はその場で足踏みを繰り返した。獣人の一族、といわれるだけに、その生命力も回復力も、常人のそれとは異なるのだろう。安堵の息を吐くサリカに、彼は今度は寂しげな目を向けた。
「ここで、さよならだ。俺、帰る」
帰る――カイラの元に。
「そう、か」
止めることは出来ない。名残惜しげにサリカに頬を摺り寄せ、抱きしめようとする彼の髪を優しく梳き。彼女は
「元気で」
短い別れの言葉を口にする。
次に逢ったときは、また、敵同士だ。彼はカイラと共にサリカの命を狙うのだろう。今夜のように、また気まぐれでサリカを助けるとは限らない。初対面の折の、あの肉食獣こそが彼の本来の姿かもしれないのだから。
去り行くカイルの後姿を見つめつつ。
「行こう。僕たちも」
サリカは、イリアの手を取った。
いつまでもここにいては危ない。イリアを捕らえた者たちが、いつ戻るか。それを考えると、落ち着いてはいられない。
「それなら、あのひとも――カイルも一緒に行けばいいじゃない?」
イリアの言葉に、サリカは、かぶりを振った。それはできない。それだけは。今のカイルが、どれほど善人であったとしても。
「彼には、行かなければ行けないところがあるんだ」
それだけを答えて、サリカは口を噤む。イリアは不思議そうにせわしく瞬きを繰り返したが。サリカに従って、夜の街を走り出した。
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◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。
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