アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第一章 さすらいの皇女

巫女2

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 目を開いたとき、そこは見知らぬ部屋であった。イリアは額を指で押さえ、低く呻きながらそっと身を起こす。苦もなく動けるところを見ると、薬物を呑まされている気配もなく、また、縛められている様子もない。手足を軽く動かしてみたが、枷も鎖も何も見当たらなかった。
「お目覚めですか」
 間近に聞こえた声に、イリアは飛び上がらんばかりに驚いた。人がいたのだ。彼女は暴れる心臓を押さえ、声のしたほうに目を向ける。薄闇の向こう燭台を手に佇むのは、腰の曲がった老人である。アンディルエの、祖母と同じくらい齢を重ねているのだろうか。かさかさに乾いた肌に刻まれた皺に、細い炎が淡い影を落としている。
「いま、お飲み物等お持ちいたしましょう」
 丁寧に一礼して、老人は去っていく。イリアもこう相手に下手に出られては、なにも言うことが出来ない。ぺこりと頭を下げて、おとなしく彼の戻るのを待つ。その間に、闇に慣れ始めた目で周囲を見回してみたが。
「絵?」
 壁には、所狭しと絵がかけられていることに気付いた。
 絵。――肖像画である。
 どこぞの、貴族の一家のものだろう。描かれている人物は皆、一様に豪奢な服を纏い、その服に負けぬほどの華やかな雰囲気を醸し出している。かといって、成り上がりの如く野卑な部分はなく。品のよさを感じさせる。

 これが、ルカンド伯?
 野心家で、強欲で、粗野な貴族?

 イリアは、部屋の奥、壁の正面に飾られた一際大きな額に目を留める。そこに描かれているのは、やはり正装の男性。上背のある、なかなかの美丈夫で、口元には優しげな微笑を湛えていた。歌姫、舞姫たちの話から、ルカンド伯を下品な男だと想像していた自分が恥ずかしくなるような、人品卑しからぬ風情の男性である。
(こんなひとが、あたしを?)
 己の野望のために、カルノリア皇后へ献上しようとしているのか。
 人とは見かけぬよらぬものなのか。それとも、こちらの考えのほうが、下世話なのか。
 寝台から降りたイリアは、静かにその肖像画の前に佇んだ。黒髪に、黒い瞳――いな、よくよく見れば、瞳は黒くはなかった。灰色の、雪催いの空の色をしている。ダルシアといえば南方の国で、もとは異国と言っても、ルカンドも南方の領地である。黒髪なのは当然であるが、瞳の色が不思議であった。灰色の目は、もう少し北、カルノリアやその付近の民族の目ではないだろうか。
 イリアの瞳が滅びたアンディルエの一族の目であるように、大陸に住む人々は、己の出自をその瞳の色で判断するのであるから。
「失礼する」
 背後で扉が二度叩かれ、ひとが入室してくる気配がした。はっと振り返れば、そこには二人の人物の姿があった。ひとりは、上質の外套に身を包んだ偉丈夫。今一人は、彼と対照的な小柄な青年。いな、青年ではない。女性だ。騎士のなりをしている彼女は、豊かな亜麻色の髪をひとつに纏め上げ、頭頂部から左の耳の辺りへと垂らし、それを留めるように帽子を斜めに被っている。手にした燭台の灯りのせいで瞳の色はわからぬが、浮き上がる顔立ちは、若い娘のものであった。
「若い女性の寝室にひとりで訪問するのは、気が引けるものでな」
 男性は、低い声で笑う。どこかしら、少年のような照れが混ざっているように感じられるのは、イリアの気のせいかもしれない。
「ゆえあって、このような形で失礼する。貴殿には、占いをひとつ。頼みたいのだ」
「占い?」
 カルノリアに連行するのではないのか。イリアが怪訝そうに尋ねると。
「この場では、できぬか?」
 尊大な態度で、男性が問うて来る。イリアは小さくかぶりを振ったが。
「内容にもよりますが。どのようなことになりますでしょうか」
 すると男性は視線を動かし、連れの少女を見た。彼女は渋面を作り、
「申し上げるしかないでしょう」
 やや不貞腐れたように言葉を返す。男性は苦笑を浮かべ、
「相変わらず、厳しいことだ」
 と、呟いてから。イリアに向き直り。改めて依頼を口にした。

 我が子の運命を占ってほしい。

 父であれば、当然の思いであろう。息子の立身出世を願うのか。それとも、他に何か思惑があるのだろうか。カルノリアの有力貴族から正室を迎えたという長男の、その後を知りたいというのであれば。このように無体なことをせずとも、初めからそうやって尋ねればよいのだ。
「承知しました」
 イリアは手に馴染んだ札を取り出し、調度のひとつ、丈の低い卓子テーブルを引き寄せた。その上に札を並べ、
「こちらにお座りください」
 前に座るよう、男性を促す。素直に言葉に従い、イリアの前に行こうとする男性を、
「伯父上」
 少女が鋭く制する。
 この少女は、ルカンド伯の姪なのか。イリアは観察を怠らなかった。
 少女は、貴族が平民――それも、どこの馬の骨ともわからぬ風の民の側に赴くことが許せないのか。頑なに、伯父を引き止めた。
「危険はないぞ、シェラ。占ってもらうだけだ」
「しかし」
 シェラと呼ばれた娘は、イリアを睨みつける。日々命を狙われ続ける貴族であれば、当然の警戒であろうが。胡乱のものに思われるほうとしては、気分が悪い。しかも、イリアはかどわかされてこちらに連れて来られたのである。この場合、警戒するのはイリアのほうではないか。
「来ないなら来ないでいいです。占いは致しません。すぐに、帰りますので」
 失礼致します、と。イリアが腰を浮かせば。男性は驚いた風にこちらに歩み寄ってくる。シェラの制止も聞かず、彼はイリアの前に腰を降ろす。
「気に障られたのなら、許してくれ。幼き術師殿。――わけあって、私は身元を伏せねばならぬ。それで」
「解かりました。細かいことをお尋ねするのは、やめておきます。そのまえに、占いの代償をお支払い願いたいのですが。支払うことは、可能ですか?」
「代価、か」
 不躾なことを言う娘だと思ったのだろう。男性の表情が強張った。けれども、それが金子きんすのことだと気付いたらしく、彼は、ほっと安堵の息を漏らす。
「いや、占いの代価といえば、神話に聞くではないか。目の玉のひとつを寄越せとか。舌を、もしくは、指を。果ては命を、魂を、と」
 苦笑する男性に、イリアは冷ややかな視線を送る。
「わたしは、魔物ではありませんから」
 言いながら、彼女は札を切り始めた。いつものごとく、それを並べ、一枚だけを自身の手元に引き寄せる。
「お名前を、いただけますか?」
「わたしの、か?」
 明らかに困惑した様子で、男性が尋ねる。
「あなたさまの、もしくは、ご子息の。姓は構いません。お名前だけで結構です」
 すると、男性は逡巡したのち。
「――シェルキス」
 はっきりと答えたのである。
「ご子息のお名前ですね」
 更に札を切るイリア。が、男性はゆるゆるとかぶりを振って。
「私の名だ。愚息は、エルメイヤという」
「エルメイヤさま」
 名を口の奥で繰り返す。エルメイヤ――名目上最後の神聖皇帝となった青年と同じ名を、幾度か胸のうちに呟いて。イリアは揃えた札をシェルキスの前に押し出した。この中から一枚、どれでも選んでほしいと。申し出れば、彼は迷うことなく中の一枚を手に取った。
「それを、こちらに向けてください」
 使い込まれ、角が丸くなってしまった木の札。それをゆっくりとシェルキスはイリアに差し出す。受け取った彼女は、伏せられていた表に視線を走らせた。泉――泉にて、水を汲む乙女。
「これは」
 イリアは、先に手元に残した札を見た。表に描かれた絵は、両の掌から星屑を零す少年。実際は少年ではなく、両性を備えた人物なのだが。それを説明したところで、シェルキスにはわかるまい。彼の――星屑を零す少年が意味するもの。それは。
「ご子息は、何処かお悪いのですか?」
 胸の辺り。心の臓、もしくは、肺。その辺りに疾患を持っているはずである。そして、その病が命を削る。そう、遠くない未来に。
 けれども、それは告げてはならぬ結果である。占い師は、常に曖昧なことを答えねばならない。確たる事実を伝えることは禁じられている。ことに、不幸な結果が導き出された場合。ことばを包んで包んで、真実を隠すのだ。
 イリアの見立てでは、シェルキスの子息、エルメイヤという人物はもう長くはなかった。病に冒され、それとともに、身内になにやら縛られている節がある。当主に次ぐ地位を持ってはいるが、残念ながら当主にはなれない。
「跡を、継げぬと申すか」
 答えを聞いたシェルキスは、どこかほっとした様子であった。彼は徐にイリアの手をとり、「ありがとう」と幾度も例の言葉を口にする。綺麗な公用語であったが、どこかしら訛りがあるのは否めなかった。それも、ルカンド伯であれば南方の訛りのはずなのに、不思議と北の響きを持つように聞こえる。そういえば、彼の姪という件の女性も、亜麻色の髪をしていた。あれは、どう考えてもセグより北の血を引いている証ではないか。
(それに)
 間近に見て、解かった。シェルキスの瞳は、灰色であった。穏やかな、雪景色を思わせる灰の瞳。慈愛に溢れたその双眸は、息子を思う父のそれであった。あの肖像画に描かれている人物が、シェルキスであるならば。その近くに飾られた一家の肖像のなか、中央で夫人と思しき女性に抱かれている子供が、エルメイヤなのだろう。
「ありがとう、術師殿。おかげで、心を固めることが出来た。礼を言おう」
 シェルキスは、シェラを振り向くと小さく頷く。シェラは手にしていた小箱を捧げ持つようにして、彼に渡した。
「これで、代価は支払えるか?」
 箱の中身は、耳飾であった。星を宿すといわれる、青い宝石。ややくすんだ色のそれが、綺麗に二つ、並べられている。イリアの瞳よりは色が薄く、青空よりは深みがあった。
「田舎職人の手ではあるが、宝石自体には、それなりの価値があるはずだ」
 彼の言葉に嘘はなかった。星石、とも呼ばれるこの宝石は、小指の爪ほどの大きさでもかなりの価値を持っている。無論、から受け取ったオルトルートの指輪、それには少し及ばぬが。それでも、代価としては十二分な値打ちの品である。
「充分です。ありがとうございます」
 礼を述べるイリアに、シェルキスはかぶりを振った。
「無体なことをしてすまなかった。一座の者どもにも良しなに伝えてくれ。これは、僅かではあるが詫びの品だ」
 とっておいてほしい、と。彼はまた別の箱を取り出す。両の掌に余るその箱には、ぎっしりと宝石の原石が詰め込まれていた。研いてしかるべき職人の手にかかれば、さぞや美しく生まれ変わるであろう。思わず声を上げそうになるイリアを、優しく見つめるシェルキスだったが。思いだしたように姪に声をかける。
「遅くならないうちに、送って差し上げなさい」
 承知した、とばかりにシェラは目礼し、イリアを促した。イリアはぺこりと頭を下げると、二つの箱を手に、部屋を出る。
「解かっているとは思うが」
 ここで見たことは、内密に。
 シェラが念を押すように語気を強めた。イリアは頷き、一度部屋を振り返る。重厚な扉の向こう、肖像画に囲まれた部屋には、まだシェルキスが留まっているはずであった。彼は、占いの結果に何を思ったのだろうか。
 子息の命が長くないことを告げなかったことに、いささか良心がとがめるが。跡目を告げぬ、といえば聡明なる人物であれば察することが出来るだろう。子息の病気は、両親、家族の知るところなのだから。


 迷路のごとき屋敷うちを抜けて、ふたりは漸く裏口まで辿り着いた。門扉の向こうには、二頭立ての馬車が闇の中に控えている。操る御者は当然のことながら、先の男性とは違う人物だろう。ルカンド伯がこれほど紳士的な人物であるならば、あの御者には悪いことをしたと、僅かに胸が痛む。けれども、わけも話さず無礼を働いたのは先方なのだ。こちらには非はないはずである。
(アグネイヤも、心配していると思うし)
 暴漢に傷を負わされたのだ。彼女のことであるから、大丈夫だとは思うが。それでも、不安が心を締め付ける。
「妙だな」
 シェラの声に、イリアは我に返った。視線を動かすと、傍らのシェラが洋燈を掲げて、首をかしげている。か細き灯りが御者台を照らしているが、なぜかそこに人の姿はなかった。待ちくたびれて、何処かに行ってしまったのだろうか。
「帰してはなりませんぞ」
 彼女の疑問に答えるかのように、絶妙の間を以て答えが返ってきた。門扉のこちらと、向こうと。馬車の前に立つ二人を取り囲むように、数人の人影が現れる。イリアは、既視感を覚えて目を見開いた。
 先程、かどわかされたとき。
 やはり、このようにして暴漢が現れたではないか。
「帰してはなりませんぞ」
 今一度、言葉を発するのは、中央に立つ人物だった。彼は威圧的にこちらに歩み寄ると、すらりと剣を抜き放ち。
「もはやその娘、我らが所有。勝手なる持ち出しは遠慮願いたい」
 切っ先を、シェラの喉元に向けたのである。
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