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第一章 さすらいの皇女
姉妹5
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神殿の門前町というからには、もっと厳かな雰囲気が漂っているのかと思っていたが。蓋を開けてみれば、この街は違った。まさに、歓楽街。南方の不浄都市がそのまま移動してきたような、淫猥な雰囲気が漂う街である。
淑やかに表通りを練り歩くのは、おそらく神殿の裏巫女であろう。長髪をしどけなく垂らし、日に透ける薄物を纏っている。
「あれで寒くないの?」
そっと傍らのルーラに耳打ちすると、彼女は
「さあ」
と曖昧な答えを返す。聞かれたところで、本人ならぬものにはわからぬだろう。マリサは己の愚問を自嘲し、すれ違う裏巫女をそっと眼で追った。
オルネラの裏巫女、それは巫女という名の遊女だと幼い頃に聞いた。
南方では極当たり前のことだが、巫女はマレビトをもてなす道具である。ミアルシァでは、神殿に詣でたものは、必ず巫女と契りを結ぶ。こうすることで、少しでも現実の穢れを落とすと言うのだ。
「穢れを巫女に移し、浄化する。ていのいい言い訳に過ぎないと思うけど」
呟くマリサに、ルーラは苦笑を向ける。
ここは、神殿の門前町とは言うが、その実、もとは色町であり。起源は神聖帝国の時代にまでさかのぼる。かつての皇帝が寵愛したオルネラ、彼女の名をとって彼女の出身地にそのような街を建設したのは、皇帝の息子である。父に対する嫌がらせなのか、それとも別の意味があったのか。当の本人ははるか昔に崩御してしまっているので、聞くすべはない。のちに、遊女たちを守る意を込めてこちらに神殿を設けたのが、南方から嫁いだ妃の一人である。ミアルシァに征服されんとしていた小国から訪れた少女は、同時に南方の神殿も花嫁道具のひとつとして持ち込んだ。彼女の守護神と言われる太陽神、その神殿をこのオルネラに建設したのである。そして生涯、彼女はアンディルエに赴くことなくこの街で過ごした。
「女性が多く関わっているのに、裏巫女なんていうものが幅を利かせているって。なんだか不思議な話よね」
露店で値切りつつ購入したアリカの飴を齧りながら、マリサは辺りを見回す。昼間だと言うのに、裏巫女たちは堂々と通りを闊歩し、彼女らに声をかける旅人たちも少なくはない。不謹慎な、と眉をひそめても。自身が買い食いなどしていたのでは、まるで絵にならないと思い直し、マリサは再びルーラを見上げる。
「ルーラの知り合いって、ここにいるわけ?」
尋ねれば、そうだと簡潔な答えが返される。確かに人の入れ替わりが激しいこの街は、密偵の類が潜みやすそうだが。
(バディールもいたりしないでしょうね?)
彼のことだ。ないとは言い切れない。少しでも故国やミアルシァのためとなる情報を集めようと、躍起になっているに違いない。この街であれば、黒髪だろうが褐色の髪だろうが、珍しがられることなく溶け込むことが出来る。下手をすれば、裏巫女に化けて情報収集をしているのではないかと、いらぬ想像をしてしまうところであるが。
(洒落にならないわよね、それって)
自身の思い描いた乳兄弟の姿に吐き気を催しつつ、マリサは残った飴を口の中に放り込んだ。
「妃殿下は、私が密偵と接触している間は何処か安全なところでお休みください」
すぐに戻りますから、とルーラはいいおいて。神殿近くの茶店に彼女を案内した。そこは、いかがわしい店ではなく、純粋に神殿を訪れる参拝客のための店のようであった。一階は茶店、上階は宿になっているという、ごく一般的なつくりである。地階は居酒屋だと飲み物を運んできた亭主が、にこやかに二人に告げた。
「こちら、裏巫女さんも真っ青な美形ですね」
誉め言葉のつもりだろう。彼は、ルーラの顔を見ると感心したように呟いた。しかし、当のルーラはそれが気に入らなかったらしい。僅かだが、眉をひそめる。その変化に気付くのは、マリサ位のものであるが、裏巫女にたとえられては面白くないはずである。
「れっきとした淑女に、裏巫女みたいなんていわないで頂戴」
拗ねたようにマリサが唇を尖らせると、亭主は慌てて両手を振った。
「失礼致しました、お嬢様方。――おふたりは、お友達ですか?」
話の矛先を変えるためか、容貌も年齢もまるで異なる二人の取り合わせに対する疑問を口にする。それは、嘘ではないだろう。どう見ても南方出身と解かる黒髪のマリサと、生粋のフィラティノア人の容姿を持つルーラは、どういったつながりがあるのか。疑問に思われるのが当然である。
「彼女は、私の義理の姉よ」
「ひ……エリシュ」
マリサの説明に、亭主は納得したように頷いた。
「義理の。ああ、お兄さんのお嫁さんですね。お兄さんは幸せ者だ。綺麗な嫁さんと、妹さんに囲まれて」
持ち上げるつもりか、ことさらに「綺麗」を強調して、亭主は下がっていった。ルーラは幾分居心地悪そうにマリサを見、目の前に置かれた碗を指先で弄ぶ。
「――妃殿下。悪い冗談です」
拗ねた物言いに、マリサは「ごめんなさい」と軽く舌を出す。
「でも、半分本気よ。ルーラみたいな姉上、ほしいもの。双子じゃなかったら、そんな風になっていたのかなあ」
ふと、片翼のことを思い出す。いまは、遠い故郷にいる姉妹。アグネイヤを名乗る、大事な『分身』。彼女が双子ではなく歳の離れた姉だとしたら、ルーラのような女性になっていたかもしれない。なんとなく、そんな気がする。
「ルーラには、きょうだいはいるの?」
不意に話題を振られたからだろうか。ルーラは一瞬息を止めた――ように思えた。彼女は碗に視線を落とし、「いいえ」とかぶりを振る。
「わたしは、ひとりでした。生まれてから、ずっと」
「ごめんなさい。聞いたらいけなかった?」
マリサは決まりが悪くなって、ルーラ同様碗に視線を向ける。香草茶の中に浮かぶ自身の顔に、サリカのそれが重なり、ちくりと胸が痛んだ。
「妃殿下が気になさることはありません。わたしは、孤児でした。生まれてすぐに神殿に預けられて。そこで育てられました」
「そう、なの」
それで、平民の出だという割には、身のこなしが洗練されていたのだろうか。神殿に預けられた子供は、神官の候補となるか。巫女となるか。それとも神殿を守る騎士となるか。三つに分けられる。ルーラはおそらく騎士としての教育を受けたのではなかろうか。女性にしては剣筋がよく、これなら近衛としても活躍が出来るだろうと思われる。その腕を見込まれて、宮廷に上がって。ディグルの眼に留まった――そんな図式が見えてくる。
「早くしなければ、日暮れまでに離宮に戻れませんね」
山端に隠れんとする太陽を見上げて、ルーラが呟く。さすがに異郷の地に王太子妃が外泊するとなると、ルーラの立場も危うくなるだろう。失脚することはないと思うが、ディグルとの仲がこじれては申し訳がない。そんなことを考えて、マリサは頷いた。
「こちらに部屋を取って、休んでいてください。すぐに戻りますから」
くれぐれも、勝手に動き回らないように。
子供を窘める親のように、マリサに言い含めて。ルーラは席を立った。残されたマリサは、香草茶の香りを楽しみつつ。更に別の飲み物を注文していた。
「え? リシャ?」
南方の、果実酒である。純度がかなり高いため、普通は湯か水で割るものだが。
「そのままで。氷入れてくれると嬉しいかな」
組んだ指の上に顎を乗せて、マリサはくすりと笑う。若い娘が、しかも楚々とした令嬢がそのようなものを頼むなど。――亭主は自身の眼と耳を疑いつつ、注文の品をとりに行くべく奥へと消えた。
(あれ飲むのは、久しぶりかな)
下町への外出のときは必ずと言っていいほど、マリサは酒を嗜んだ。宮廷でも口にすることはあったが、上品にもとの味がわからぬくらいに薄められた果実酒は、彼女の口には合わなかった。そんなマリサにとって、下町の居酒屋で人夫たちに混ざって開けるリシャは、何にも増して美味であった。双子である妹とは、この点が大きく異なる。サリカはあまり酒に強いほうではない。殆ど嗜む程度である。そのあたり、女性らしくていいと思うのだが。
酔いつぶれたサリカを介抱するのはマリサの役目であった。
――殿下が飲ませたんですからね。クラウディア姫をちゃんと面倒見てくださいよ。
バディールの渋い顔が脳裏に蘇る。
そうだ。あのころはまだ、自分がアグネイヤと呼ばれていたのだと思うと、ふいに笑いがこみ上げてきた。アグネイヤとクラウディア。まさかふたりが入れ替わることになるとは。いな、どちらがアグネイヤでもクラウディアでもよいといわれていた時代が終わって。それぞれに歩むべき道を指し示されるときがくるとは。あのことはふたりとも考えてはいなかった。
いつからだろう。
自分がアグネイヤと呼ばれるようになったのは。アグネイヤ、という呼称が、ほぼ自分をさしていることが多いと気付いたのは。
――あなたこそ、未来の皇帝。アグネイヤ四世陛下です。
バディールが彼女の足元に跪いたのは、十四歳の誕生日であったか。
その頃だ。自分に向けられて刺客が放たれたのは。
アグネイヤを討てと、はっきり命を受けた刺客が宮殿に入り込んだのは。
「……」
マリサは、そっと自身の背に指を触れた。背に残るのは、そのときの傷。あのとき、片翼は血に染まる彼女を、同じ顔の『妹』を『視』て、まるで断末魔のごとき悲鳴を上げたのだ。
現実ではないその声に支えられるようにして、彼女は剣を取り、刺客を返り討ちにした。
後の記憶はない。
目覚めたとき、そこにいたのは自身と同じ顔の『姉』だった。
――僕が、アグネイヤになる。僕が、皇帝になる。マリサに、こんな思いはさせられない。
彼女の手を握りながら。『姉』はそのとき『妹』に、アグネイヤになったのだ。
『妹』は、人の痛みがわかる子だ。人の痛みで、自身が傷つく。それだけに、今も重い心を抱えて、宮殿の奥で涙を流し続けているだろう。母后が本当にフィラティノア王太子妃暗殺を命令したのであれば。それを知った彼女は、是が非でも止めさせようとするに違いない。そうでなければ。
自分が身代わりとなって。フィラティノア王太子妃として、刺客の刃に倒れる覚悟だろう。
(馬鹿な子)
バディールは、サリカがマリサを暗殺するためにフィラティノアに入ったと言った。それが本当であれば。彼女は死ぬつもりだ。自らの命を賭けて、クラウディアとなった片翼を守りるつもりだ。
(そんなことをしても、私が許さないのを知っているくせに)
解かっていても、やめることが出来ない。それも片翼の性分である。どこまで彼女は甘く出来ているのだろう。
「お待ち」
ことん、と目の前に碗が置かれた。リシャのきつい香りが立ち上り、鼻腔をくすぐる。酒を飲んだことがばれれば、ルーラに大目玉を食らうだろうが。こういうものでも飲まなければ、時間を持て余してしまう。
苦笑しながら持ち上げた碗は、しかし口元に運ぶ前に取り上げられてしまった。
「ルーラ?」
彼女がもう用を済ませて帰ってきたのだろうか。だが。軽く眼を見開いて視線を上げた彼女の前に佇んでいるのは。
「部屋にいろって言ったろうが。何こんなところで酒喰らってるんだ、あんたは」
見知らぬ青年であった。
明らかに南方の血を受けていると思われる、褐色の髪と瞳。浅黒く日に焼けた肌。精悍と言える顔立ちのその青年は、眼を吊り上げてマリサを見下ろしていた。
淑やかに表通りを練り歩くのは、おそらく神殿の裏巫女であろう。長髪をしどけなく垂らし、日に透ける薄物を纏っている。
「あれで寒くないの?」
そっと傍らのルーラに耳打ちすると、彼女は
「さあ」
と曖昧な答えを返す。聞かれたところで、本人ならぬものにはわからぬだろう。マリサは己の愚問を自嘲し、すれ違う裏巫女をそっと眼で追った。
オルネラの裏巫女、それは巫女という名の遊女だと幼い頃に聞いた。
南方では極当たり前のことだが、巫女はマレビトをもてなす道具である。ミアルシァでは、神殿に詣でたものは、必ず巫女と契りを結ぶ。こうすることで、少しでも現実の穢れを落とすと言うのだ。
「穢れを巫女に移し、浄化する。ていのいい言い訳に過ぎないと思うけど」
呟くマリサに、ルーラは苦笑を向ける。
ここは、神殿の門前町とは言うが、その実、もとは色町であり。起源は神聖帝国の時代にまでさかのぼる。かつての皇帝が寵愛したオルネラ、彼女の名をとって彼女の出身地にそのような街を建設したのは、皇帝の息子である。父に対する嫌がらせなのか、それとも別の意味があったのか。当の本人ははるか昔に崩御してしまっているので、聞くすべはない。のちに、遊女たちを守る意を込めてこちらに神殿を設けたのが、南方から嫁いだ妃の一人である。ミアルシァに征服されんとしていた小国から訪れた少女は、同時に南方の神殿も花嫁道具のひとつとして持ち込んだ。彼女の守護神と言われる太陽神、その神殿をこのオルネラに建設したのである。そして生涯、彼女はアンディルエに赴くことなくこの街で過ごした。
「女性が多く関わっているのに、裏巫女なんていうものが幅を利かせているって。なんだか不思議な話よね」
露店で値切りつつ購入したアリカの飴を齧りながら、マリサは辺りを見回す。昼間だと言うのに、裏巫女たちは堂々と通りを闊歩し、彼女らに声をかける旅人たちも少なくはない。不謹慎な、と眉をひそめても。自身が買い食いなどしていたのでは、まるで絵にならないと思い直し、マリサは再びルーラを見上げる。
「ルーラの知り合いって、ここにいるわけ?」
尋ねれば、そうだと簡潔な答えが返される。確かに人の入れ替わりが激しいこの街は、密偵の類が潜みやすそうだが。
(バディールもいたりしないでしょうね?)
彼のことだ。ないとは言い切れない。少しでも故国やミアルシァのためとなる情報を集めようと、躍起になっているに違いない。この街であれば、黒髪だろうが褐色の髪だろうが、珍しがられることなく溶け込むことが出来る。下手をすれば、裏巫女に化けて情報収集をしているのではないかと、いらぬ想像をしてしまうところであるが。
(洒落にならないわよね、それって)
自身の思い描いた乳兄弟の姿に吐き気を催しつつ、マリサは残った飴を口の中に放り込んだ。
「妃殿下は、私が密偵と接触している間は何処か安全なところでお休みください」
すぐに戻りますから、とルーラはいいおいて。神殿近くの茶店に彼女を案内した。そこは、いかがわしい店ではなく、純粋に神殿を訪れる参拝客のための店のようであった。一階は茶店、上階は宿になっているという、ごく一般的なつくりである。地階は居酒屋だと飲み物を運んできた亭主が、にこやかに二人に告げた。
「こちら、裏巫女さんも真っ青な美形ですね」
誉め言葉のつもりだろう。彼は、ルーラの顔を見ると感心したように呟いた。しかし、当のルーラはそれが気に入らなかったらしい。僅かだが、眉をひそめる。その変化に気付くのは、マリサ位のものであるが、裏巫女にたとえられては面白くないはずである。
「れっきとした淑女に、裏巫女みたいなんていわないで頂戴」
拗ねたようにマリサが唇を尖らせると、亭主は慌てて両手を振った。
「失礼致しました、お嬢様方。――おふたりは、お友達ですか?」
話の矛先を変えるためか、容貌も年齢もまるで異なる二人の取り合わせに対する疑問を口にする。それは、嘘ではないだろう。どう見ても南方出身と解かる黒髪のマリサと、生粋のフィラティノア人の容姿を持つルーラは、どういったつながりがあるのか。疑問に思われるのが当然である。
「彼女は、私の義理の姉よ」
「ひ……エリシュ」
マリサの説明に、亭主は納得したように頷いた。
「義理の。ああ、お兄さんのお嫁さんですね。お兄さんは幸せ者だ。綺麗な嫁さんと、妹さんに囲まれて」
持ち上げるつもりか、ことさらに「綺麗」を強調して、亭主は下がっていった。ルーラは幾分居心地悪そうにマリサを見、目の前に置かれた碗を指先で弄ぶ。
「――妃殿下。悪い冗談です」
拗ねた物言いに、マリサは「ごめんなさい」と軽く舌を出す。
「でも、半分本気よ。ルーラみたいな姉上、ほしいもの。双子じゃなかったら、そんな風になっていたのかなあ」
ふと、片翼のことを思い出す。いまは、遠い故郷にいる姉妹。アグネイヤを名乗る、大事な『分身』。彼女が双子ではなく歳の離れた姉だとしたら、ルーラのような女性になっていたかもしれない。なんとなく、そんな気がする。
「ルーラには、きょうだいはいるの?」
不意に話題を振られたからだろうか。ルーラは一瞬息を止めた――ように思えた。彼女は碗に視線を落とし、「いいえ」とかぶりを振る。
「わたしは、ひとりでした。生まれてから、ずっと」
「ごめんなさい。聞いたらいけなかった?」
マリサは決まりが悪くなって、ルーラ同様碗に視線を向ける。香草茶の中に浮かぶ自身の顔に、サリカのそれが重なり、ちくりと胸が痛んだ。
「妃殿下が気になさることはありません。わたしは、孤児でした。生まれてすぐに神殿に預けられて。そこで育てられました」
「そう、なの」
それで、平民の出だという割には、身のこなしが洗練されていたのだろうか。神殿に預けられた子供は、神官の候補となるか。巫女となるか。それとも神殿を守る騎士となるか。三つに分けられる。ルーラはおそらく騎士としての教育を受けたのではなかろうか。女性にしては剣筋がよく、これなら近衛としても活躍が出来るだろうと思われる。その腕を見込まれて、宮廷に上がって。ディグルの眼に留まった――そんな図式が見えてくる。
「早くしなければ、日暮れまでに離宮に戻れませんね」
山端に隠れんとする太陽を見上げて、ルーラが呟く。さすがに異郷の地に王太子妃が外泊するとなると、ルーラの立場も危うくなるだろう。失脚することはないと思うが、ディグルとの仲がこじれては申し訳がない。そんなことを考えて、マリサは頷いた。
「こちらに部屋を取って、休んでいてください。すぐに戻りますから」
くれぐれも、勝手に動き回らないように。
子供を窘める親のように、マリサに言い含めて。ルーラは席を立った。残されたマリサは、香草茶の香りを楽しみつつ。更に別の飲み物を注文していた。
「え? リシャ?」
南方の、果実酒である。純度がかなり高いため、普通は湯か水で割るものだが。
「そのままで。氷入れてくれると嬉しいかな」
組んだ指の上に顎を乗せて、マリサはくすりと笑う。若い娘が、しかも楚々とした令嬢がそのようなものを頼むなど。――亭主は自身の眼と耳を疑いつつ、注文の品をとりに行くべく奥へと消えた。
(あれ飲むのは、久しぶりかな)
下町への外出のときは必ずと言っていいほど、マリサは酒を嗜んだ。宮廷でも口にすることはあったが、上品にもとの味がわからぬくらいに薄められた果実酒は、彼女の口には合わなかった。そんなマリサにとって、下町の居酒屋で人夫たちに混ざって開けるリシャは、何にも増して美味であった。双子である妹とは、この点が大きく異なる。サリカはあまり酒に強いほうではない。殆ど嗜む程度である。そのあたり、女性らしくていいと思うのだが。
酔いつぶれたサリカを介抱するのはマリサの役目であった。
――殿下が飲ませたんですからね。クラウディア姫をちゃんと面倒見てくださいよ。
バディールの渋い顔が脳裏に蘇る。
そうだ。あのころはまだ、自分がアグネイヤと呼ばれていたのだと思うと、ふいに笑いがこみ上げてきた。アグネイヤとクラウディア。まさかふたりが入れ替わることになるとは。いな、どちらがアグネイヤでもクラウディアでもよいといわれていた時代が終わって。それぞれに歩むべき道を指し示されるときがくるとは。あのことはふたりとも考えてはいなかった。
いつからだろう。
自分がアグネイヤと呼ばれるようになったのは。アグネイヤ、という呼称が、ほぼ自分をさしていることが多いと気付いたのは。
――あなたこそ、未来の皇帝。アグネイヤ四世陛下です。
バディールが彼女の足元に跪いたのは、十四歳の誕生日であったか。
その頃だ。自分に向けられて刺客が放たれたのは。
アグネイヤを討てと、はっきり命を受けた刺客が宮殿に入り込んだのは。
「……」
マリサは、そっと自身の背に指を触れた。背に残るのは、そのときの傷。あのとき、片翼は血に染まる彼女を、同じ顔の『妹』を『視』て、まるで断末魔のごとき悲鳴を上げたのだ。
現実ではないその声に支えられるようにして、彼女は剣を取り、刺客を返り討ちにした。
後の記憶はない。
目覚めたとき、そこにいたのは自身と同じ顔の『姉』だった。
――僕が、アグネイヤになる。僕が、皇帝になる。マリサに、こんな思いはさせられない。
彼女の手を握りながら。『姉』はそのとき『妹』に、アグネイヤになったのだ。
『妹』は、人の痛みがわかる子だ。人の痛みで、自身が傷つく。それだけに、今も重い心を抱えて、宮殿の奥で涙を流し続けているだろう。母后が本当にフィラティノア王太子妃暗殺を命令したのであれば。それを知った彼女は、是が非でも止めさせようとするに違いない。そうでなければ。
自分が身代わりとなって。フィラティノア王太子妃として、刺客の刃に倒れる覚悟だろう。
(馬鹿な子)
バディールは、サリカがマリサを暗殺するためにフィラティノアに入ったと言った。それが本当であれば。彼女は死ぬつもりだ。自らの命を賭けて、クラウディアとなった片翼を守りるつもりだ。
(そんなことをしても、私が許さないのを知っているくせに)
解かっていても、やめることが出来ない。それも片翼の性分である。どこまで彼女は甘く出来ているのだろう。
「お待ち」
ことん、と目の前に碗が置かれた。リシャのきつい香りが立ち上り、鼻腔をくすぐる。酒を飲んだことがばれれば、ルーラに大目玉を食らうだろうが。こういうものでも飲まなければ、時間を持て余してしまう。
苦笑しながら持ち上げた碗は、しかし口元に運ぶ前に取り上げられてしまった。
「ルーラ?」
彼女がもう用を済ませて帰ってきたのだろうか。だが。軽く眼を見開いて視線を上げた彼女の前に佇んでいるのは。
「部屋にいろって言ったろうが。何こんなところで酒喰らってるんだ、あんたは」
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