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第一章 さすらいの皇女
皇帝1
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離宮の朝は、早い。使用人たちは、逗留中の主人たちが目覚める前に起床して、全ての支度を整えておかねばならぬ。台所を任されたもの、掃除に励むもの、馬の手入れに向かうもの、邸内はひととき騒がしくなる。
「いかなきゃ」
ジェリオの部屋で共に一夜を過ごした小間使いは、名残惜しそうに視線を揺らしながらも、するりと寝台から滑り降りる。彼女は確か王太子妃の部屋付であった。ここ数日は、新たな小間使いが主人に付き添っているために若干時間にゆとりがあるのだが、仲間の手前そうゆっくりはしていられないのだろう。手早く身支度を整える彼女の後姿を無遠慮に眺めていたジェリオは、ふと
「レネ」
呼びかけてみた。
「レーネ、よ」
少女は素早く振り返る。ムッとしたように唇を尖らせる姿は、ひどく幼い印象をあたえる。
「悪い」
短く詫びてから、ジェリオは何気ない問いを口にする。
「レーネ、は、幾つだ?」
「あたし? 十六よ」
答えに、少々面食らう。十六といえば、双子と同じ位の年齢ではないか。それなのに、この少女は。随分と、遊びなれているのだろうか。純朴そうに見えて、レーネは既に異性を知っていた。くるりと大きな瞳と、柔らかな銀糸の髪、紅を含んだようなふっくらとした唇を持つ彼女は、お世辞にも美人とはいえぬが、どことなく愛嬌があって親しみやすい。その分、異性に目をつけられることが多いのだろうか。
「妃殿下と同じ歳なのに、老けてるって言いたいんでしょ?」
両手を腰に当てて、彼女はジェリオを見下ろした。本気で怒っているようではないのだが、けれども少女特有の嫉妬めいた感情が、青い瞳の奥に揺れている。ジェリオは「違う」とだけ言い置いて。
「もう少し、寝るわ」
彼女に背を向け、毛布を被った。
「もう!」
ぼん、と布団の上から叩かれたが、ジェリオは反応しなかった。
「早く行けよ。あの煩ぇおばちゃんに文句言われるぞ」
『煩いおばちゃん』が、女中頭のことだと察したか、レーネは「いけない」と慌てた風に部屋を飛び出していった。扉の閉まる気配がすると、ジェリオは乱暴に掛布を跳ね除け身を起こす。彼女には悪いが、あの程度の身体で余韻に浸れるほど無垢ではない。生欠伸をひとつしてから、ジェリオは窓を細めにあける。清浄な朝の空気とともに、薄明の光が部屋に流れ込んでくる。穢れなき、朝の光。古代紫に煙る空を一瞥して、彼は鼻を鳴らした。
「――漸く、お出ましか」
呟きは、誰の耳にも届くことはなく。ジェリオは皮肉げに口元を歪めた。
「随分、遅かったな」
◆
部屋を飛び出したレーネは、まず、女中頭に朝の挨拶をしてから王太子妃の部屋に向かった。食事の支度は既に先輩に当たる小間使いが済ませており、あとは食器を下げるだけである。王太子妃は最近、傷を負ってから朝が早いらしく、いつもより早めに食事を摂るようになっていた。
(少し、寝過ごしたかも)
幸い、王太子妃は、時間に煩いほうではない。自身が気まぐれのせいか、他人に対しても厳しいことを特に言うこともない。それだけに、理想の主人と言えるのだが。行動に予測が付かない分、対応には苦労してしまう。
最近新しく王太子妃付の小間使いとなった娘、確かサリカと言っていたか――彼女は、異国の娘らしく、言葉が不自由な用であったが、粗相はしていないだろうか。王太子妃にはそれなりに気に入られているらしく、常に側近くに侍っているようだが。彼女がいるのだから、少々遅れても構わないだろう。要は、ジェリオとの密会を、他人に――特に女中頭に気付かれなければよいのだと、レーネは自身に言い聞かせた。
「おはようございます」
扉の前で挨拶をし、扉を叩いてから中へと入る。と、そこにいるはずのサリカの姿はなく。王太子妃がひとり、朝食を摂っていた。
「お給仕を、させていただきます」
サリカがいないのでは、王太子妃は自身で給仕をしていたのか。それだけはいけない、とレーネは慌てて彼女の元に駆け寄る。が、当の王太子妃は、
「別に、結構よ」
しれっと言ってのけ、
「もう、終わるから。下げて頂戴」
水菓子を平らげて、空になった皿にちらりと視線を走らせる。
「ああ、でもあとでおなかが空くと困るから、少し残しておいて」
麺麭を幾つか選び、そこに干し肉を詰めてから、レーネは、布巾をかけてそれを棚に乗せた。後は下げて宜しいのでしょうか、と尋ねれば、王太子妃は常の如く鷹揚に頷く。レーネは空になった食器を盆に乗せて、一礼してから部屋を出る。出てから、ふと、あることに気付いた。
(ルーラ様?)
彼女の姿がなかった。ここ数日は、王太子妃の身を気遣ってか、看護はサリカに任せきりで部屋に引きこもってはいるが、食事は共に摂っているはずだった。今朝は、どうしたことだろう。二人分の食事は、一人分しか平らげておらず。それ以上に頼まれた料理も、殆ど手をつけられていない。
首を傾げるレーネの横を、「おはよう」と声をかけながら、別の小間使いがすり抜けていく。彼女の持つ盆の上には、二人分の朝食が乗せられていた。その向かう先は、ルーラの部屋である。
「……?」
食の細いルーラが、あの料理を全て食べるというのだろうか。
レーネは、ますます不可解な気持ちになり、目を細めて同僚の後姿を見送った。
と。
「おはよう」
また、別の声が彼女にかけられる。顔を上げれば、いつの間に現れたのだろう、目の前に小間使のなりをした女性が佇んでいた。見慣れない顔である。最近勤め始めたのだろうか。しげしげと顔を見つめると、女性ははにかんだように顔を瞳を揺らした。
「妃殿下は、まだお部屋かしら?」
とってつけたような質問ではあったが。レーネは「はい」とだけ答えた。そのまま女性を観察して、妙な違和感を覚える。フィラティノアには珍しい、黒髪の女性――それだけで、目立つというのに。彼女は、小間使にしておくのが惜しいくらいの美貌を持っていた。どちらかといえば、歌姫か舞姫。宴席に侍り、華やかに笑っているほうが似つかわしい。黒目がちの大きな瞳は、じっと見つめると吸い込まれるような気がして。恐ろしくなって目を逸らしたくても、逆に魅入られたように視線を外すことが出来ない。
「あの」
なにか、言葉を発しなければ。本能が鳴らす警鐘のままに、レーネは女性に声をかける。彼女はうっすらと唇に笑みを含み、
「なんでしょう?」
魅惑の低音で尋ねてくる。
「おなまえ、は?」
年長者に向かって、問うてよいことではなかった。けれども、レーネの口をついて出た言葉はそれだった。女性はさらに深く微笑み、そっとレーネに顔を近づけて。
「カイラ」
耳元に囁いた。
「カイラ、さま?」
「そう。――あなたは? 可愛らしい仔ウサギさん?」
「レーネ。レーネ、と申します」
自身の名も、思わず答えてしまったのである。カイラは「いい子」と彼女の頭を抱きしめて、その青い瞳を覗き込みながら
「じゃあ、あなたの恋人の名前も、教えてくれるかしら?」
意味深長な問いかけを投げる。恋人、という言葉にレーネは一瞬身を硬くした。ジェリオの面影が脳裏を掠め、同時に密会を見られたのだと気が遠くなった。
「あっ、あの、それは」
「さっきまで、一緒にいたでしょう? おとといは、厩舎で過ごしていたわね」
「いっ、いえっ」
かぶりを振るが、カイラは許さない。レーネの頤に手をかけて、やんわりと、だが強引に仰向かせる。唇が触れ合うかと思うほど間近に迫り、彼女の口元から漂う甘い香りが脳を痺れさせた。
「彼の名前は?」
夢の中の声のように。幾重にも反響した声が耳朶を打つ。レーネは僅かに唇を震わせ、
「――ジェリオ」
彼の名を、褐色の瞳の異邦人の名を答えた。
「そう、ジェリオ」
カイラの口角が、三日月の如く吊り上がる。彼女は、そっとレーネの唇に己のそれを重ねた。
「素敵な、名前ね」
カイラが離れると同時に、レーネはくたりとその場に座り込む。盆から皿が零れ落ち、静かな廊下に陶磁器の割れる耳障りな音が木魂した。
「あっ」
我に返った彼女が、慌てて散乱した皿を拾い、面を上げたときには。既にカイラの姿はなく。精霊にでも化かされたのかと、レーネはだらしなく口をあけて周囲を見回した。
「どうしたの?」
薄く扉が開き、王太子妃が顔を覗かせる。レーネは激しくかぶりをふり、「なんでもありません」を繰り返すが。この惨状に、「なんでもない」はないだろう。王太子妃は溜息をつき、レーネの前に屈みこんだ。間近で見る古代紫の瞳に、レーネが再び意識を奪われそうになったとき。
「怪我、してるじゃない」
王太子妃の細い指がレーネの手を捕らえていた。ふと視線をそちらに移せば、指先から血が流れている。皿の欠片を集めたときに、傷つけたのだろう。
「大丈夫?」
止める間もなく王太子妃が、彼女の指をぱくりと口に含んだ。滑らかな舌が優しく指を包み込み、労わるように傷口を舐めるのが解かる。
「ひ、妃殿下」
上ずった声を上げてレーネが身を引くと、王太子妃はあっさりと彼女を離し、懐から手巾を取り出した。それを歯で裂いてから、レーネの傷口に巻きつける。
「あとで、きちんと手当てしないと駄目だよ」
にこりと笑う王太子妃は、どことなく少年めいて見えて。レーネはつい、赤面してしまう。どくりと跳ねた心臓の音を聞かれはしなかったかと、そっと彼女の様子を窺ったが、そのような音は他人には聞こえるはずもなく。けれども、レーネは耳まで赤くなった顔を隠そうとして不躾にも俯いてしまった。
「あっ、ありがとうございますっ」
礼を述べる声が、上ずってしまう。ジェリオに見つめられたときよりも、王太子妃の視線を間近に感じたときのほうが、ときめきを覚えるなど。自分は、危ないのではないか。少女らしい不安を抱いて、レーネはこくりと唾を飲む。と。
「立てる?」
王太子妃は、そんな彼女を覗き込みつつ尋ねてきた。そして、怪我を気遣うように両の手首を軽く持ち、まるで舞踏でもするかのごとく優雅にふわりと彼女を立ち上がらせたのである。
「ひ、妃殿下っ」
勿体ない、と焦るレーネをよそに、王太子妃は、ぱんぱんと彼女の身体に付いた埃を払った。それから、他にも怪我がないか丹念にあちらこちらを調べていたようだが、他は無事だと確認するとほっとしたように笑みを浮かべる。先程の、カイラの笑みとは程遠い、陽だまりを思わせる眩しい笑顔だった。
「ごめんね。僕が、無理をさせたから」
一人で食器を下げるよう、言い渡したのがいけなかったのだと王太子妃が詫びた。それに対して、レーネはとんでもありませんと大仰に否定して、それから思いだしたように皿を拾おうとして足をかがめると。
「痛っ」
足に鈍い痛みが走った。捻挫をしたのか。眉を寄せる彼女に王太子妃は、再び手を伸ばし、あろうことか、今度は肩を貸したのである。一国の王太子妃が、小間使いに肩を貸すなどありえぬことである。レーネは恐縮したが、まさか王太子妃の手を払うことも出来ず、ただどぎまぎして、白黒する目を彼女に向ける。
「ここは、あとで片付けてもらうから。早く、部屋に行って休んだほうがいい」
王太子妃は、幾分暗い面持ちでそう言うと、レーネを促して歩き始めた。
「部屋は、どこ?」
尋ねられるままに、レーネは自身の部屋を王太子妃に告げる。けれども、それは屋根裏に等しい使用人部屋で、とても貴人を迎え入れる場所ではない。どうしよう、と悩んだ挙句、レーネは
「大丈夫です、ひとりで歩けます」
丁重に詫びて王太子妃の手を解こうとしたのだが。
「レーネ! どうしたの?」
ルーラの部屋から出てきた同僚が、彼女のただならぬ様子に思わず声を上げてこちらに駆け寄ってきたのである。
「妃殿下、レーネが何か粗相を?」
青ざめる同僚に、王太子妃は苦笑を向けた。
「僕――わたしが、無理なことをさせたから。そこで転んでしまったようなの。手を、貸して頂戴」
頼まれた同僚は、頷くと同時に王太子妃の手からレーネを受け取った。あとは私が、と答えてから王太子妃に深々と頭を下げる。そのあと、小声でレーネに向かって。
「妃殿下の前で、みっともないことをしないでよ」
叱咤したのである。レーネはしゅんと頭を下げ、王太子妃にもう一度詫びた。
「お大事に」
気遣いを見せてくれる主人に、レーネは複雑な気持ちで背を向ける。これほどまでに細やかな心配りをしてくれる主人の客分――命の恩人たる相手を、自分は成り行きとは言え誘惑してしまったのだ。無論、誘ってきたのはジェリオのほうであるが。断ることも出来たのに、自分はそれをしなかった。後ろめたさと、申し訳なさと。双方入り混じった心を抱いてレーネは王太子妃の元を辞した。
「逢引なんてして、浮かれているから転んだりするのよ」
部屋に引き上げた後、同僚は渋い顔でレーネに忠告する。レーネは同僚にまで見られていたのだと、返す言葉を失った。
「見たのが、私だけだったからよかったけど。他の人に見られたら、大変よ。それこそ、ここにいられなくなってしまうから」
レーネの足に湿布を貼りながら、同僚は口を尖らせる。彼女の気持ちを嬉しく思うと同時に、レーネは湧き上がる不安を抑えることが出来なかった。
「あなただけじゃないのよ、ハンナ。他にも、見られてしまったの」
どうしよう、と涙の盛り上がる顔を両手で押さえ、レーネは肩を震わせた。新しく入ったであろう、女性。彼女に密会の現場を見られてしまっている――しかも、夕べも、おとといも。もしかしたら、今朝、ジェリオの部屋から出てきたところも見られていたのかもしれない。
「誰? 口止めしておいてあげる」
視線を鋭くするハンナに、レーネはしゃくりあげながら今朝の出来事を語った。妖艶な、カイラと名乗る美女に出会ったこと。彼女に「見られていた」こと。するとハンナは、不思議そうに首をかしげた。
「カイラ? そんなひとは、いないはずよ?」
ここ数日、離宮を訪れたものはなく。新しい顔といえば、王太子妃の元に侍るサリカという娘だけだという。
「サリカじゃないの?」
訝るハンナに、レーネはかぶりを振る。サリカの顔をはっきりと見たことはないが、彼女はもっと若いはずであった。自分と同じ、もしくはもっと下。常に帽子を深く被り、前髪を長くたらしているせいか、人相もはっきりとしないが。身長もカイラに比べればかなり低い。
「――じゃあ、あの方は、誰?」
レーネは、悪寒を覚えた。自身の肩をぎゅっと抱き締めると、立て続けに唾を飲み込む。口の中が、ひどく乾いた。水が、水が欲しい。
「ハンナ」
彼女は同僚の肩をつかみ、掠れた声で訴える。
「ルーラ様に、お伝えして。なんだか、怖い――怖いの」
「いかなきゃ」
ジェリオの部屋で共に一夜を過ごした小間使いは、名残惜しそうに視線を揺らしながらも、するりと寝台から滑り降りる。彼女は確か王太子妃の部屋付であった。ここ数日は、新たな小間使いが主人に付き添っているために若干時間にゆとりがあるのだが、仲間の手前そうゆっくりはしていられないのだろう。手早く身支度を整える彼女の後姿を無遠慮に眺めていたジェリオは、ふと
「レネ」
呼びかけてみた。
「レーネ、よ」
少女は素早く振り返る。ムッとしたように唇を尖らせる姿は、ひどく幼い印象をあたえる。
「悪い」
短く詫びてから、ジェリオは何気ない問いを口にする。
「レーネ、は、幾つだ?」
「あたし? 十六よ」
答えに、少々面食らう。十六といえば、双子と同じ位の年齢ではないか。それなのに、この少女は。随分と、遊びなれているのだろうか。純朴そうに見えて、レーネは既に異性を知っていた。くるりと大きな瞳と、柔らかな銀糸の髪、紅を含んだようなふっくらとした唇を持つ彼女は、お世辞にも美人とはいえぬが、どことなく愛嬌があって親しみやすい。その分、異性に目をつけられることが多いのだろうか。
「妃殿下と同じ歳なのに、老けてるって言いたいんでしょ?」
両手を腰に当てて、彼女はジェリオを見下ろした。本気で怒っているようではないのだが、けれども少女特有の嫉妬めいた感情が、青い瞳の奥に揺れている。ジェリオは「違う」とだけ言い置いて。
「もう少し、寝るわ」
彼女に背を向け、毛布を被った。
「もう!」
ぼん、と布団の上から叩かれたが、ジェリオは反応しなかった。
「早く行けよ。あの煩ぇおばちゃんに文句言われるぞ」
『煩いおばちゃん』が、女中頭のことだと察したか、レーネは「いけない」と慌てた風に部屋を飛び出していった。扉の閉まる気配がすると、ジェリオは乱暴に掛布を跳ね除け身を起こす。彼女には悪いが、あの程度の身体で余韻に浸れるほど無垢ではない。生欠伸をひとつしてから、ジェリオは窓を細めにあける。清浄な朝の空気とともに、薄明の光が部屋に流れ込んでくる。穢れなき、朝の光。古代紫に煙る空を一瞥して、彼は鼻を鳴らした。
「――漸く、お出ましか」
呟きは、誰の耳にも届くことはなく。ジェリオは皮肉げに口元を歪めた。
「随分、遅かったな」
◆
部屋を飛び出したレーネは、まず、女中頭に朝の挨拶をしてから王太子妃の部屋に向かった。食事の支度は既に先輩に当たる小間使いが済ませており、あとは食器を下げるだけである。王太子妃は最近、傷を負ってから朝が早いらしく、いつもより早めに食事を摂るようになっていた。
(少し、寝過ごしたかも)
幸い、王太子妃は、時間に煩いほうではない。自身が気まぐれのせいか、他人に対しても厳しいことを特に言うこともない。それだけに、理想の主人と言えるのだが。行動に予測が付かない分、対応には苦労してしまう。
最近新しく王太子妃付の小間使いとなった娘、確かサリカと言っていたか――彼女は、異国の娘らしく、言葉が不自由な用であったが、粗相はしていないだろうか。王太子妃にはそれなりに気に入られているらしく、常に側近くに侍っているようだが。彼女がいるのだから、少々遅れても構わないだろう。要は、ジェリオとの密会を、他人に――特に女中頭に気付かれなければよいのだと、レーネは自身に言い聞かせた。
「おはようございます」
扉の前で挨拶をし、扉を叩いてから中へと入る。と、そこにいるはずのサリカの姿はなく。王太子妃がひとり、朝食を摂っていた。
「お給仕を、させていただきます」
サリカがいないのでは、王太子妃は自身で給仕をしていたのか。それだけはいけない、とレーネは慌てて彼女の元に駆け寄る。が、当の王太子妃は、
「別に、結構よ」
しれっと言ってのけ、
「もう、終わるから。下げて頂戴」
水菓子を平らげて、空になった皿にちらりと視線を走らせる。
「ああ、でもあとでおなかが空くと困るから、少し残しておいて」
麺麭を幾つか選び、そこに干し肉を詰めてから、レーネは、布巾をかけてそれを棚に乗せた。後は下げて宜しいのでしょうか、と尋ねれば、王太子妃は常の如く鷹揚に頷く。レーネは空になった食器を盆に乗せて、一礼してから部屋を出る。出てから、ふと、あることに気付いた。
(ルーラ様?)
彼女の姿がなかった。ここ数日は、王太子妃の身を気遣ってか、看護はサリカに任せきりで部屋に引きこもってはいるが、食事は共に摂っているはずだった。今朝は、どうしたことだろう。二人分の食事は、一人分しか平らげておらず。それ以上に頼まれた料理も、殆ど手をつけられていない。
首を傾げるレーネの横を、「おはよう」と声をかけながら、別の小間使いがすり抜けていく。彼女の持つ盆の上には、二人分の朝食が乗せられていた。その向かう先は、ルーラの部屋である。
「……?」
食の細いルーラが、あの料理を全て食べるというのだろうか。
レーネは、ますます不可解な気持ちになり、目を細めて同僚の後姿を見送った。
と。
「おはよう」
また、別の声が彼女にかけられる。顔を上げれば、いつの間に現れたのだろう、目の前に小間使のなりをした女性が佇んでいた。見慣れない顔である。最近勤め始めたのだろうか。しげしげと顔を見つめると、女性ははにかんだように顔を瞳を揺らした。
「妃殿下は、まだお部屋かしら?」
とってつけたような質問ではあったが。レーネは「はい」とだけ答えた。そのまま女性を観察して、妙な違和感を覚える。フィラティノアには珍しい、黒髪の女性――それだけで、目立つというのに。彼女は、小間使にしておくのが惜しいくらいの美貌を持っていた。どちらかといえば、歌姫か舞姫。宴席に侍り、華やかに笑っているほうが似つかわしい。黒目がちの大きな瞳は、じっと見つめると吸い込まれるような気がして。恐ろしくなって目を逸らしたくても、逆に魅入られたように視線を外すことが出来ない。
「あの」
なにか、言葉を発しなければ。本能が鳴らす警鐘のままに、レーネは女性に声をかける。彼女はうっすらと唇に笑みを含み、
「なんでしょう?」
魅惑の低音で尋ねてくる。
「おなまえ、は?」
年長者に向かって、問うてよいことではなかった。けれども、レーネの口をついて出た言葉はそれだった。女性はさらに深く微笑み、そっとレーネに顔を近づけて。
「カイラ」
耳元に囁いた。
「カイラ、さま?」
「そう。――あなたは? 可愛らしい仔ウサギさん?」
「レーネ。レーネ、と申します」
自身の名も、思わず答えてしまったのである。カイラは「いい子」と彼女の頭を抱きしめて、その青い瞳を覗き込みながら
「じゃあ、あなたの恋人の名前も、教えてくれるかしら?」
意味深長な問いかけを投げる。恋人、という言葉にレーネは一瞬身を硬くした。ジェリオの面影が脳裏を掠め、同時に密会を見られたのだと気が遠くなった。
「あっ、あの、それは」
「さっきまで、一緒にいたでしょう? おとといは、厩舎で過ごしていたわね」
「いっ、いえっ」
かぶりを振るが、カイラは許さない。レーネの頤に手をかけて、やんわりと、だが強引に仰向かせる。唇が触れ合うかと思うほど間近に迫り、彼女の口元から漂う甘い香りが脳を痺れさせた。
「彼の名前は?」
夢の中の声のように。幾重にも反響した声が耳朶を打つ。レーネは僅かに唇を震わせ、
「――ジェリオ」
彼の名を、褐色の瞳の異邦人の名を答えた。
「そう、ジェリオ」
カイラの口角が、三日月の如く吊り上がる。彼女は、そっとレーネの唇に己のそれを重ねた。
「素敵な、名前ね」
カイラが離れると同時に、レーネはくたりとその場に座り込む。盆から皿が零れ落ち、静かな廊下に陶磁器の割れる耳障りな音が木魂した。
「あっ」
我に返った彼女が、慌てて散乱した皿を拾い、面を上げたときには。既にカイラの姿はなく。精霊にでも化かされたのかと、レーネはだらしなく口をあけて周囲を見回した。
「どうしたの?」
薄く扉が開き、王太子妃が顔を覗かせる。レーネは激しくかぶりをふり、「なんでもありません」を繰り返すが。この惨状に、「なんでもない」はないだろう。王太子妃は溜息をつき、レーネの前に屈みこんだ。間近で見る古代紫の瞳に、レーネが再び意識を奪われそうになったとき。
「怪我、してるじゃない」
王太子妃の細い指がレーネの手を捕らえていた。ふと視線をそちらに移せば、指先から血が流れている。皿の欠片を集めたときに、傷つけたのだろう。
「大丈夫?」
止める間もなく王太子妃が、彼女の指をぱくりと口に含んだ。滑らかな舌が優しく指を包み込み、労わるように傷口を舐めるのが解かる。
「ひ、妃殿下」
上ずった声を上げてレーネが身を引くと、王太子妃はあっさりと彼女を離し、懐から手巾を取り出した。それを歯で裂いてから、レーネの傷口に巻きつける。
「あとで、きちんと手当てしないと駄目だよ」
にこりと笑う王太子妃は、どことなく少年めいて見えて。レーネはつい、赤面してしまう。どくりと跳ねた心臓の音を聞かれはしなかったかと、そっと彼女の様子を窺ったが、そのような音は他人には聞こえるはずもなく。けれども、レーネは耳まで赤くなった顔を隠そうとして不躾にも俯いてしまった。
「あっ、ありがとうございますっ」
礼を述べる声が、上ずってしまう。ジェリオに見つめられたときよりも、王太子妃の視線を間近に感じたときのほうが、ときめきを覚えるなど。自分は、危ないのではないか。少女らしい不安を抱いて、レーネはこくりと唾を飲む。と。
「立てる?」
王太子妃は、そんな彼女を覗き込みつつ尋ねてきた。そして、怪我を気遣うように両の手首を軽く持ち、まるで舞踏でもするかのごとく優雅にふわりと彼女を立ち上がらせたのである。
「ひ、妃殿下っ」
勿体ない、と焦るレーネをよそに、王太子妃は、ぱんぱんと彼女の身体に付いた埃を払った。それから、他にも怪我がないか丹念にあちらこちらを調べていたようだが、他は無事だと確認するとほっとしたように笑みを浮かべる。先程の、カイラの笑みとは程遠い、陽だまりを思わせる眩しい笑顔だった。
「ごめんね。僕が、無理をさせたから」
一人で食器を下げるよう、言い渡したのがいけなかったのだと王太子妃が詫びた。それに対して、レーネはとんでもありませんと大仰に否定して、それから思いだしたように皿を拾おうとして足をかがめると。
「痛っ」
足に鈍い痛みが走った。捻挫をしたのか。眉を寄せる彼女に王太子妃は、再び手を伸ばし、あろうことか、今度は肩を貸したのである。一国の王太子妃が、小間使いに肩を貸すなどありえぬことである。レーネは恐縮したが、まさか王太子妃の手を払うことも出来ず、ただどぎまぎして、白黒する目を彼女に向ける。
「ここは、あとで片付けてもらうから。早く、部屋に行って休んだほうがいい」
王太子妃は、幾分暗い面持ちでそう言うと、レーネを促して歩き始めた。
「部屋は、どこ?」
尋ねられるままに、レーネは自身の部屋を王太子妃に告げる。けれども、それは屋根裏に等しい使用人部屋で、とても貴人を迎え入れる場所ではない。どうしよう、と悩んだ挙句、レーネは
「大丈夫です、ひとりで歩けます」
丁重に詫びて王太子妃の手を解こうとしたのだが。
「レーネ! どうしたの?」
ルーラの部屋から出てきた同僚が、彼女のただならぬ様子に思わず声を上げてこちらに駆け寄ってきたのである。
「妃殿下、レーネが何か粗相を?」
青ざめる同僚に、王太子妃は苦笑を向けた。
「僕――わたしが、無理なことをさせたから。そこで転んでしまったようなの。手を、貸して頂戴」
頼まれた同僚は、頷くと同時に王太子妃の手からレーネを受け取った。あとは私が、と答えてから王太子妃に深々と頭を下げる。そのあと、小声でレーネに向かって。
「妃殿下の前で、みっともないことをしないでよ」
叱咤したのである。レーネはしゅんと頭を下げ、王太子妃にもう一度詫びた。
「お大事に」
気遣いを見せてくれる主人に、レーネは複雑な気持ちで背を向ける。これほどまでに細やかな心配りをしてくれる主人の客分――命の恩人たる相手を、自分は成り行きとは言え誘惑してしまったのだ。無論、誘ってきたのはジェリオのほうであるが。断ることも出来たのに、自分はそれをしなかった。後ろめたさと、申し訳なさと。双方入り混じった心を抱いてレーネは王太子妃の元を辞した。
「逢引なんてして、浮かれているから転んだりするのよ」
部屋に引き上げた後、同僚は渋い顔でレーネに忠告する。レーネは同僚にまで見られていたのだと、返す言葉を失った。
「見たのが、私だけだったからよかったけど。他の人に見られたら、大変よ。それこそ、ここにいられなくなってしまうから」
レーネの足に湿布を貼りながら、同僚は口を尖らせる。彼女の気持ちを嬉しく思うと同時に、レーネは湧き上がる不安を抑えることが出来なかった。
「あなただけじゃないのよ、ハンナ。他にも、見られてしまったの」
どうしよう、と涙の盛り上がる顔を両手で押さえ、レーネは肩を震わせた。新しく入ったであろう、女性。彼女に密会の現場を見られてしまっている――しかも、夕べも、おとといも。もしかしたら、今朝、ジェリオの部屋から出てきたところも見られていたのかもしれない。
「誰? 口止めしておいてあげる」
視線を鋭くするハンナに、レーネはしゃくりあげながら今朝の出来事を語った。妖艶な、カイラと名乗る美女に出会ったこと。彼女に「見られていた」こと。するとハンナは、不思議そうに首をかしげた。
「カイラ? そんなひとは、いないはずよ?」
ここ数日、離宮を訪れたものはなく。新しい顔といえば、王太子妃の元に侍るサリカという娘だけだという。
「サリカじゃないの?」
訝るハンナに、レーネはかぶりを振る。サリカの顔をはっきりと見たことはないが、彼女はもっと若いはずであった。自分と同じ、もしくはもっと下。常に帽子を深く被り、前髪を長くたらしているせいか、人相もはっきりとしないが。身長もカイラに比べればかなり低い。
「――じゃあ、あの方は、誰?」
レーネは、悪寒を覚えた。自身の肩をぎゅっと抱き締めると、立て続けに唾を飲み込む。口の中が、ひどく乾いた。水が、水が欲しい。
「ハンナ」
彼女は同僚の肩をつかみ、掠れた声で訴える。
「ルーラ様に、お伝えして。なんだか、怖い――怖いの」
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