アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第二章 輝ける乙女

后妃5

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「わたしを人質にして、ディグルから何を要求するつもりなの?」
 金子きんすか、領地か、それとも仲間の解放か。どちらにしろ、相手は盗賊。ろくでもない要求に違いない。マリサは、頤を掴まれたままの姿ではあるが、余裕の表情でティルを見返した。内心の恐怖を悟られてはいけない。目に力を込めて、同じ暁の瞳を睨むように凝視する。太陽が今まさに昇らんとする、明けの空の色をした瞳の中に映りこんだ自身の姿は、けれども一介の小娘の如く、華奢で頼りなかった。
 これが、神聖皇帝の姉にして、フィラティノア王太子妃か。
 情けない。
 マリサは、自嘲した。わずかに歪んだ口元が、笑みの形につりあがると、ティルも呆れたような、諦めたような。乾いた笑い声を立てる。
「只者じゃないなあ、お嬢さん」
 いや、妃殿下、と。言い置いて、彼はマリサから手を放す。それを見たアウリールは、驚いたように主人を咎めた。
「長、なにを」
 彼がこのまま、マリサを解放すると言い出すのではないか――アウリールはそれを恐れたのだろう。しかし、ティルの思惑は違っていた。
「まあ、座りなよ」
 マリサに再び座を勧めると、自身も定位置と思しき場所にどっかりと腰を下ろした。
「酒もつまみもあることだし、ゆっくりと語ろうぜ、妃殿下――っていうのも堅苦しくて面倒だから、ルキアのままでいいか?」
 蝋燭の光にきらめく赤い瞳を見て、マリサは
「どちらでも。好きに呼んで頂戴」
 投げやりな答えを返す。それから、彼の勧めるままにその場に腰を下ろした。冷たい岩の上に敷かれた獣の皮は、それなりの温かさを提供してはくれるが、南国育ちの彼女にとっては、それだけではぬくもりが足りなかった。かすかに震えたマリサに
「寒いの?」
 にやりと含みのある笑みを向けて
「温めてやろうか?」
 差し出される手を、マリサは払った。
「結構よ」
 ティルは気にした風もなく、まだ、にやにやとマリサを見ている。その余裕の表情が、憎らしい。
「オレたちの故郷、ってのはさ」
 マリサの心中などお構い無しに話を始めるティルに、
「長」
 アウリールは渋い顔をするが、ティルは構わず先を続ける。
「『壁』の向こうなんだよね」
「『壁』?」
 そう言われても、ピンと来ない。壁――何の壁だろう。考えて、ふとあることを思い出す。神聖帝国の権勢が強かった頃、かの国の皇帝が

 ――北方蛮族の侵入を防ぐ。

 その目的で、帝国最北端の街に長き壁を建造したことを。当初の目的は、それまでたびたび帝国に侵入して狼藉を働いてきた北方蛮族の侵入阻止であったが、いつの間にかそれは皇帝の権力誇示のために用いられ、気がつけば代々の皇帝が自身の役割とばかりに壁を築くことを生涯の課題として行っていた、という、非常に笑えない状況に陥っていたのである。一説にはその資金の捻出のために税を増加し、人民の心が皇帝から離れていったと言われているくらい、間の抜けた事業であった。尤も、最北の町に住む、収入無き民衆にとっては、壁の建造で得られる収入は何よりの喜びであったが。
「『壁』のできる前は、自由に交易も出来た。けど、『壁』が出来てからは違う」
 ふっ、と。ティルの瞳に影が走る。
「交易が出来なくなったオレたちは、ただ、死を待つしかなかった」
「――どういうこと?」
「解らないだろうね、お嬢さんには」
 赤い瞳に、嘲りの色が浮かぶ。
「交易が出来ない、ということが、どういうことか」
「解らないわね」
 即座に答えるマリサを、アウリールが睨みつける。マリサは、その視線を撥ね退けて、つんと顎を逸らした。負けられない。こんな辺境の盗賊どもに。
「食料が、得られない。物が食えないってことが、どれだけ辛いか。お姫様には解らないだろうな」
 かつては、飢饉に襲われたとき、北方の民族は所有している家畜を売って金に変え、帝国から食料を得ていた。けれども、壁が出来てからはそれが出来なくなってしまったのだ。壁のこちら側にも向こう側にも、帝国の役人が構えており、自由な貿易が不可能となった。それゆえ、北方が日照不足で不作であったとき、――もしくは日常的に不足している野菜や果物、といった菜食を得ようとするとき。彼らは非常に難儀をしたのだ。今までは容易に得られたものが手に入れられなくなる。その事実は、体験したものでなければわからない。
 数年前、未曾有の飢饉に襲われた北方は、ついに人肉まで手をつけ始めたのである。
 誰か一人、犠牲となって、肉を提供する。
 そこまで堕ちてしまったのだ。
 堕としてしまったのは、神聖帝国。彼らが、いな、かの国の皇帝がその権威の象徴として築いた『壁』が、罪無き人々の命を奪ったのである。
「なかには、自分の娘や女房を役人に抱かせて、食料を貰っていた奴らもいたよ」
 ティルの表情に、暗い影が走る。
 マリサは、無言で彼を見つめていた。
 ティルもそうやって、生き延びてきた人物の一人なのだ。言葉の中に、苦悶と苦渋と後悔が滲み出ている。食料を得る、ただそれだけのために、大事な誰かを犠牲にする――そんなことは、マリサの人生には、ないことであった。
「オレは、自分の姉貴を食った。親父が姉貴を解体して、お袋が料理して。一族全員で、姉貴を骨の欠片一つ残さず、食い尽くした」
「そう」
「うちだけの話じゃない。アウリールもそうだ。女房の腹から子供を取り出して、そいつを食って生きながらえた。それが当たり前の世界だった」
 草も木も、犬も猫も家畜も。全て食い尽くした後の行為だった。
「でも、だからって人を殺す言い訳にはならないわね」
 マリサの言葉に、アウリールが立ち上がり、ティルは視線を鋭くする。
「盗人にも、それなりの理屈があるらしいけれども。ほかにも、出来ることがあるのではなくて?」
 言い切ったマリサの頬を、アウリールが張った。ぱん、と小気味良い音が洞窟内に響く。口の中を切ったらしく、唇の端から血が零れている。マリサは手の甲でそれを拭うと、腫れた頬を押さえもせずに、ティルを睨みえすえた。
「だから、同情してくれ? 甘いわよ。他に出来ることを考えずに、安易な手段に走るなんて。愚の骨頂だわ」
「黙れ」
 再び、アウリールがマリサを打った。今度は、剣の鞘が彼女の鳩尾を抉る。それでもマリサは、倒れなかった。ゆるぎない眼差しをティルに――ティルだけに向けて、言葉を続ける。
「それで結局、盗みに走ったんでしょう? 盗賊になったのでしょう? 馬鹿よ、ただの馬鹿だわ、それは」
「貴様」
 アウリールが剣を抜き放つ。蝋燭の光を受けた銀の刀身が紅に輝き、マリサの横顔を映し出す。彼の怒りからすれば、そのまま勢いでマリサを斬首してもおかしくなかった。ティルとて、同じ考えだったかもしれない。そう、マリサを『人質』として考えていなければ。
「やめろ、アウリール」
 ティルの制止に、アウリールは我に返ったようであった。それでもマリサを見つめる瞳から、憎悪は消えない。にっくき貴族の娘――それも、彼女は王太子妃である。権力をかさに、庶民から税を貪り、涼しい顔で贅沢をしているものたちの、頂点に立つ存在である。アウリールから見れば、彼女の意見など聞く耳持たぬだろう。それはまるで、

 ――水がなければ、酒を呑みなさい。

 旱魃の際にそう言い切った、愚かな皇妃の言葉と同じである。
「言ってくれるね、お嬢さん」
 ティルの瞳が、異様な熱を帯びる。彼はアウリールほど直情型ではないと思うが、それでも感情に任せてマリサを暴行して気を晴らさないとも限らない。今更ながらマリサは、彼らの感情を逆撫でしすぎたと反省せざるを得なかった。
(逆撫で――逆撫で、ね)
 ふ、と再び自嘲の笑みを漏らす。逆撫でとは、立場の違う相手との間に用いるものだ。少なくともマリサは、そう考えている。自身の持論から行けば、これは逆撫でではない。挑発だ。いい気になって正義を振りかざしている盗賊どもに、真実を突きつけた。それに他ならない。
「どこまでそんな口が叩けるのか、見てみたいものだよ」
 嘲笑混じりに呟くティルに、マリサは
「無条件で、あなたたちの願いを聞き届けてあげてよ、盗賊さん」
 更に挑発的な言葉を投げかける。
「剣を貸して頂戴。あなたが、わたしを負かすことが出来たら――いいえ、わたしがあなたから一本も取れなかったら。何でも言うことを聞くわ」
「へえ?」
 盗賊の目が煌いた。ティルは面白い、といった表情で口笛を吹く。アウリールは視線で「やめたほうがいい」と上司に制止をかけているが、ティルの心は決まったようである。
「じゃあ、三本勝負、いきますか」
 そのかわり、と。彼はマリサの耳元に唇を近づける。
「あんたが負けたら、一晩、オレの女になってもらうぜ?」
「いいわね。好きにして頂戴」
 予想された賭けの対象だった。マリサは、表情を変えずに言い切ったのだが。
「いけません、妃殿下――、いえ、ルキア」
 いつの間に現れたのか、入り口に佇む銀髪の女性が、鋭く口を挟む。彼女は青い瞳に憎悪の色を煌かせ、腕に抱いた少女の首に掌を押し当てた。
「この娘の命が惜しくば、ルキアを解放しろ。すぐにだ」
 命令口調で二人の盗賊に声をかければ、瞬く間にティルの表情が変わった。彼はルーラに抱かれた白髪の娘――リィルを凝視し、腰を浮かせる。

「リルカイン――リィル!」

 その場にいる五人の間に、緊迫した空気が流れた。ルーラはリィルを人質として、一歩も動かない。アウリールもティルも、そのせいかルーラにはまるで手を出せないでいる。
「あの子、あなたの子供?」
 マリサは、揶揄するような視線をリィルに向ける。と、ティルは僅かに顔をしかめ、
「んなわけないでしょ」
 即答した。
「思わぬ弱点ね。形勢逆転じゃない?」
 立ち上がるマリサを目で追いながら、ティルもアウリールも、何も出来ない。リィルは状況がわかっていないのか、無邪気にルーラにしがみついている。彼女は、ルーラのことを女性と信じて疑わないらしい。それどころか、敵ではないと認識してしまったようである。
「賭けの方法を変えましょうか、盗賊さん」
 マリサは、ルーラの傍らに立ち、微笑を浮かべる。
「わたしが勝ったら、わたし達を無傷でここから帰す。あなたが勝ったら、この子を返してあげる。それで、どうかしら?」
「卑怯な」
 すかさず叫ぶアウリールを、ルーラが睨みつける。
「卑怯なのはどちらだ。盗賊風情が」
「なに」
 険悪になる二人の間に割って入ったマリサは、余裕の表情でアウリールを見下ろした。王者の風格をもって、尊大な態度で。
「さあ、リオラも返して頂戴。彼女も、大事な私の侍女なのだから」
 彼女の『命令』に、アウリールはティルを振り返る。ティルもこれには降参といったところなのか。リィルとは、ティルにとって特別な存在なのだとマリサが思った刹那、当のリィルがマリサに向かい、
「る、き、あ?」
 呼びかけたのである。
 そう名乗った覚えは一度もない。クラウディアとも、ルクレツィアとも言った覚えはない。けれども、なぜ、彼女はマリサを『ルキア』と呼ぶのだろう。驚きのあまり見開かれた古代紫の双眸を見て、瑠璃の瞳の娘はあどけなく笑った。
「るきあ、やっとあえた」
「なに――なに、言っているの?」
 初めてティルに瞳を覗き込まれたときと同じ悪寒が、マリサを襲った。なんなのだ、この娘は。リルカイン、とそう呼ばれたティルにとって必要な――かけがいのない存在。巫女の証である瑠璃の瞳と、この世ならぬ不可思議な乳白色の髪を持った、謎の娘。マリサは、薄気味悪いものを彼らに感じながら、それでも毅然とした態度を崩さなかった。
「ルキア、って、あなた」
 クラウディアが呟くと、少女はにこりと笑う。
「るきあ、るーらがいった」
「ルーラ? あ……」
 そうだ。先程、ルーラが「ルキアから離れろ」と言った様な気もする。それでも、なぜか彼女に――リィルというこの巫女姫もどきの容姿を持つ少女に名を呼ばれるのは気分の良いものではなかった。名をとられることは、命を取られるのと同じこと――はるか昔、異国の占い師に言われたことを思い出す。
 ひんやりと冷たく変化していく掌で、腕をおし包み、マリサは、ルーラに抱かれたままのリィルを見やる。
「そうね。わたしに会いたかったのかしら、あなたは。だとしたら、ねえ、盗賊さん」
 振り返らずにティルを呼ぶ。背後から固唾を呑む気配が伝わってきたが、あえて彼女はそれを無視した。
「賭けは、承知してくれるのよね?」
 有無を言わさぬ問いかけであった。彼女はティルの答えを元から聞く気もない。先程とは、状況が一変したのだ。有利な札はこちらにある。リィルがこちらの手元にある限り、ティルは強気には出られぬだろう。
「ああ、わかった。わかったよ、お嬢さん」
 ティルはあっさりと負けを認めた。アウリールが何か言いたそうに口を挟む前に、ティルはマリサの元に歩み寄る。
「けどさ、チビを人質に取ったら、そのまま逃げたほうがいいんじゃないの?」
 なぜ、あえて剣を交えようとするのか――ティルの問いかけに、マリサは微笑んだ。
「あなたの実力を、見てみたかったのよ。盗賊さん」
 くく、と喉を鳴らすと、ティルは驚いたように目を見開いた。それから、ぷっと吹き出し、さもおかしそうに腹を抱えて笑い出す。「コイツは最高だ」と、幾度も繰り返しながら。
「ホント、惜しいな、お嬢さん。人妻じゃなけりゃ、ぜひオレの嫁さんになって欲しいところよ」

「長」
「この、盗賊風情が」

 アウリールとルーラが同時に声を上げる。彼らは互いの顔を見やると、各々鋭く舌打ちした。余程彼らは相性が悪いのだろう。それぞれに、主君第一の忠臣であることも影響しているのかもしれない。マリサは、その様子を楽しげに見ていたが、
「さっさとかたをつけましょう。リオラをつれてきてね。もう、盗賊たちの餌食にされてしまっているかもしれないけれども。傷は浅いうちに連れ出して頂戴」
 きつい口調で言い放つ。
 リオラは、既に純潔を奪われているかもしれない。あれから、かなり時間がたっている。性急な盗賊どものこと、時間をかけてリオラを懐柔するような、まどろっこしい真似はしないだろう。泣こうがわめこうが、押さえつけて力ずくでものにする――それが、辺境の下衆どものやり口だ。
「アウリール」
 ティルは部下に顎をしゃくる。彼は仕方なく、部屋を後にした。出る間際、すれ違いざまにルーラを鋭く睨みつけ、舌打ちを残して去っていく。その後姿を見送ったティルは。
「さて。オレたちも外に行くか」
 陽気な声でマリサを促した。
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