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第二章 輝ける乙女
辺境8
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白亜宮へと足を運ぶのは久方ぶりのことであった。婚礼以来、三ヶ月近くも離宮にこもっていたような気がする。もともと、人前に出ることを好まず、さりとて人見知りをするなどと、子供じみたことを言っているわけではないのだが、できることなら辛気臭い役人どもや、うわべだけ飾り立てた宮廷人どもの姿を見ないに限る――ディグルは、そう思っていた。
しかし、父でもある国王からの召喚となれば、嫌でもその場所に足を向けねばならない。父に会う、ということは、とりもなおさず同席をしている継母にも会うことになる。それが、更に彼の神経を逆撫でする要因となっていた。
(レンティルグの女狐)
蜜色の髪と緑青の瞳を持つ、老いてなお妖艶なる魅力を放つ貴婦人。『帝国以前』といわれる由緒正しき血を持つ彼女は、しかしその血に反して浅ましい毒婦である。王妃の座ほしさに、ディグルの生母エリシアを陥れた女だ。そんな女性を、王妃だの母だの思えというほうがおかしいだろう。
父も父である。
恋焦がれて奪うようにして娶った女を、簡単に捨てるものだろうか。あからさまに解る姦計とはいえ、一時の感情に任せて愛するものを打ち捨てるとは。
(……)
着慣れぬ正装の襟元が、苦しかった。
「ご気分が、優れぬようですが」
大丈夫でしょうか、と。傍らに控えるスタシアが、気遣わしげな視線を寄越す。
「なんでもない」
気にするな、と短く答えて、ディグルは父の待つ彼の居室へと向かう。今回の召喚は、国王と王太子という事務的な対面ではなく、父と子としての会食だと取次ぎの侍女は言っていた。だからこそ、あえて側近を使わずに、女官長を使者として寄越したのだと、父は暗に告げているのだろう。
国王であろうと、父であろうと、『あの男』に興味はなかった。いずれ、遅かれ早かれ彼は他界し、自分がこの国を継ぐ。国王となる。統治者となる。そんなことにすら、関心はない。こんな国の王冠など、欲しいもの誰にでもくれてやる。望むのであれば、あの黒髪の小娘でも良い。生意気な、異国の皇女。彼女がこの国を欲しいというのなら、無条件で譲ってやる。
そうだ。あの女狐に奪われるくらいなら。レンティルグの毒蜘蛛の支配を受けるくらいなら、南方の魔女にこの首も添えて譲渡しよう。
それはそれで一興かもしれない。
他人にはわからぬ微かな笑みを浮かべたディグルは、しかし次の瞬間、表情を固くした。その僅かな変化に気づくのは、ルーラくらいなものであろう。幼い頃より手塩にかけた王太子の気配が揺らいだことを、スタシアですらまるで察していないのだから。
「王太子殿下」
纏わり付く、南国の闇。北の生まれのはずなのに、彼女の声は、噂に聞く南国の娼婦の声を思わせた。男の心を乱し、捉え、貪りつくす。暗殺者としても名高いドゥランディアの獣、かの一族の女は、全てが秘術に通じた娼婦であるという。
その身に毒を孕むという点では、彼女――ラウヴィーヌも同様であった。父をたぶらかし、母を放逐した、辺境の毒蜘蛛。重たく曇った空の下、仄かに光る燭台の灯りを受けて、王妃ラウヴィーヌはふたりの侍女を従えて、そこに佇んでいた。
この様子では、ディグルが現れるのを待っていたのだろう。
(ご苦労なことだ)
凍てつく青い瞳に更に冷たい色を浮かべ、ディグルは眼を細めた。よりによって、最も会いたくない人物と遭遇してしまった。感情を豊かに表すことが出来るならば、それこそ舌打ちのひとつも浴びせてやりたいくらいである。
「珍しいこと。国王陛下のお召しがあったのかしら」
ほほ、と扇で口元を隠す仕草が、わざとらしく鬱陶しい。彼女はディグルの後ろに控えるスタシアの姿を見やり、それから何かを――誰かを探すように視線を泳がせてから
「妃殿下は、ご一緒ではないようですね」
解りきったことを尋ねてくる。ラウヴィーヌとて、聞き及んでいるであろう。王太子妃が不在であることを。『巡察』の名目で首都を離れていること、そして
「ルナリア殿。寵姫殿のお姿も見受けられませんが、いかがされたのかしら」
ルーラが、彼女に同行していることも。知っていて、あえて問う。女性独特の、嫌な習性だ。
「ああ、妃殿下に同行されていらっしゃるのですね、そうでしたわ」
扇の下の笑みが、更に濃くなる。ラウヴィーヌは緑青の眼を細め、ディグルの姿を上から下までじっくり検分した。
「殿下もさぞご心境複雑でしょう、ご正室が愛妾を侍女のように扱われているなど。これも、若い娘特有の嫉妬心でしょうから」
お気になさいますな、と。彼女は小娘の如く小首をかしげる。世の男子の中には、彼女のこういった仕草に惹かれるものもあるのだろう。女性としての武器を全面に押し出し、色仕掛けで他者を思いのままに操ろうとする姑息な手口に、それと解っても簡単に乗ってしまう。父もそんな愚か者の一人だと、ディグルは心の中で嘆息した。
「ひとり、異国に嫁がれて、妃殿下も寂しい思いをされているのでしょう。そこを解って差し上げなくては」
解らないのは、おまえだ。
ディグルは、そう言いたかった。
女性は嫌いだ。殊に、異性に媚を売る女は許せない。しかし、クラウディアは違う。彼女は、媚びない。高飛車でもない。まるで女性の香りをさせることなく、クラウディアという一個の人間としてそこに存在している。彼女がルーラを傍に侍らせているのは事実だ。決して、嫉妬心やディグルの気を引きたいからではなく、ルーラという人間に魅力を感じているからである。もしも、ルーラが男性のままで――正室と寵姫としてではなく、夫の側近、侍従武官として対面したなら。クラウディアは、ルーラと恋に落ちるだろうか。
(馬鹿な)
それもない。クラウディアは、他者の性別を気にしない。男性であろうが女性であろうが、相手の表面だけではなく、常に内面を見つめている。
(馬鹿な)
彼はもう一度、心の中で呟いた。
いつの間にか、異国の皇女を庇っている自分がおかしかった。愚かしかった。
夜の闇を思わせる漆黒の髪と、暁の瞳を持つ皇女。思うほど、自分は妻を嫌ってはいないのだと気づいたとき、彼はそれこそ声を立てて笑い出したくなった。
「畏れながら、殿下」
スタシアが「お時間が迫っています」と、早口に囁きかけてきた。彼女なりの、助け舟のつもりなのだろう。事実、国王より指定された刻限は迫っている。もとより、かなり時間をつめてきたのだ。ここでのんびりと『雑談』をしている余裕はない。
「ああ、行く」
素っ気なく言い放ち、ディグルは継母を一瞥した。青い瞳と緑青の瞳、二つの視線が交錯する。
(いずれ、おまえを王妃の座から引き摺り下ろしてみせる)
心の奥底で捨て台詞を吐き、ディグルはその場を離れた。王妃に背を向け、靴音も高く回廊を進む。そして、ふと思い出した。この場所が、初めてラウヴィーヌと言葉を交わした場所であったことを。二十二年前、幼い彼の唇を、あの毒婦が無理やり奪った――あの夜のことを思い出し、ディグルは無意識のうちに己の口元を拭った。
◆
「して、首尾は?」
短く問いかけたのは、艶を失った銀髪を丁寧に撫で付けた初老の紳士。彼は顔の半分を覆う仮面がはがれぬよう、酷く気を使いながら顔を寄せてくる。背後に控えた側近は、主人の気持ちを慮ってか、しきりと入り口のほうを気にしていた。白亜宮の外れ、専ら恋人達の密会場所に使用される古びた塔。その地階に設けられた一室に、彼らはこもっていた。彼ら――仮面の紳士とその側近、目深に鍔広の帽子をかぶった年齢不詳の男性、そして。
「遅くなりましたわ」
静かに扉が開き、辺りを憚るように入室してきたのは、誰あろう、王妃ラウヴィーヌその人であった。
「あら、オルウィス殿。この期に及んで仮面とは、小心者ですわね」
王妃は扇の羽根飾りを揺らしながら、妖艶に微笑む。彼女の言葉を受けて、仮面の紳士――オルウィス伯爵は、顔を赤らめて仮面を外した。幾分やつれた面持ちをしているのは、暗殺者として送り出した娘の、安否を気遣っているからなのか。
「やはり、こういったことには細心の注意を払う必要があるかと思いまして」
軽く咳払いをしながら、彼は言訳めいた言葉を口にする。
「あなたもですわ、テオバルト。なんですか、その帽子は。貴婦人のまえでは、帽子を取りなさい。それが礼儀というものです」
テオバルトと呼ばれた人物は、軽く肩をすくめただけで、王妃の言葉には従わなかった。ティノア人のそれよりもはるかに深く冷たい青い瞳を王妃に向けて、彼は胸元から小さく折りたたんだ紙片を取り出す。
「今までの報告はこちらに」
まるで愛想のない口調で言うと、彼はそのまま席を立つ。これさえ渡せば用はすんだとばかりの行動に、さすがの王妃も眉を寄せた。
「事務的ですのね、随分と」
「当然だ。もう、ここにいる意味はない」
それ以上は口を利く気もないらしい。彼は挨拶もせずに王妃の脇を通り抜け、伯爵の側近を乱暴に押しのけると、部屋を出て行った。
「いやはや、これですから、下賎のものは」
王妃の機嫌を取るつもりか、オルウィス伯爵も渋い顔を作る。ラウヴィーヌもオルウィスも、テオバルトとは長い付き合いである。それこそ二十年以上になるか。まだ、テオバルトが一介の人買いに過ぎぬ時代から、彼らはよしみを通じていた。テオバルトの背後にタティアン大公の姿が見えるようになったとき、ラウヴィーヌはオルウィスを通じて彼と接触したのである。彼女がテオバルトに与えた最初の仕事は、エリシアの売却だった。
どこでもいい、この世で最も下賎な歓楽街に彼女を売却しなさい。
そんな言葉であったろうか。テオバルトはラトウィスを通じ、ラウヴィーヌの願いを聞き届けた。異常にエリシアの身体に執着するラトウィスを追い払い、まだ小娘と称しても良い前王妃をタティアンへと連れ出し、そこで――
どういった経緯か、陸に上がっていた海賊に彼女を売った。相手が海賊であれば、エリシアの行く先などわからない。国王が罪の意識におののいて、彼女の行方を捜したとしてもそう簡単には見つけることなどできぬだろう。テオバルトはそう判断したそうである。
エリシア前妃を生かしておいたことには、深い意味はない。ただ、下手に殺害してしまい、そのことで国王の心にいつまでもその存在が残っても厄介である。もともと出自は卑しい歌姫、もとの鞘に納まったのだと言って聞かせれば、まだ、国王も納得するであろうと。
「そういうものでありましょうか」
ラウヴィーヌはいまひとつ解せなかったが、正妃の座を手に入れた今では、前妃のことなど、つゆほどにも思ってはいなかった。ただひとつ、気になることは、ディグルがエリシアの行方を密かに捜していること。彼の思惑がどこにあるのかは不明であるが、万が一ディグルがエリシアを発見することがあれば、彼はどうするつもりであろう。母の無実を証明し、ラウヴィーヌを糾弾するつもりであろうか。
どちらにしろ、自分になびかないディグルは邪魔な存在でしかない。
「やはり、暗殺者を雇ったほうが賢明なのかしら」
ディグルの命を奪う――妃であるクラウディアを殺害した後に。先にディグルを殺害しては、クラウディアに継承権が移ってしまう可能性がある。そうなっては後々面倒なことになる。
「いまは、またとない好機。王宮を離れている間に、あの小娘を始末することができれば」
ラウヴィーヌは、高く音を立てて扇を閉じる。その音に、側近が眼を見張り、オルウィスは息を詰めた。
「オルウィス殿。あなたのご息女は使いものになるのかしら? いざというときになったら、しり込みするなどということは、ないでしょうね」
「それは」
「王太子妃が向かったのは、アダルバードの国境沿い。あの辺りは、ラトウィスが管理している土地でしょう」
「左様にございます」
「ラトウィスがわたくしに恨みを抱いていたとしたら、あの小娘を利用して、一矢報いんとするでしょうね。あのような小者は恐れる必要はないけれども、厄介な存在ですわ。彼は卑しすぎます。分不相応な報酬を望みすぎですわ」
かつて、不相応な野望を抱いたために、ラトウィスはオリアを追われた。横領の罪を着せられ、――実際、ラトウィスのことであるから不正は行っていただろうが――辺境の地に流された。そのことを彼が恨んでいないとは言えない。ラウヴィーヌを王妃とした、その最大の功労者は、他ならぬラトウィスである。彼は、虎視眈々と返り咲きの機会を狙っているはず。
「あの男と小娘が接触しないうちに、カタをつけてくれれば宜しいのですけどね」
王妃の言葉に、オルウィスは深く頷くだけであった。が、ふと思い出したように、テオバルトが残した書簡を手に取り、中を開いた。そこにしたためめられていたのは、簡単な結果報告。
クラウディアが、国境付近で盗賊と接触したこと。
その『盗賊』の中に、予めテオバルトの息のかかったものを紛れ込ませていたこと。
クラウディアに関する報告は、その二点のみで、特に王妃の気を惹くものではなかった。
更にオルウィスが読み進めると、
「まあ」
ある一文を耳にしたせつな、王妃の目が輝いたのである。
「丁度良い――丁度良い姫君が、出来たものですわ」
テオバルトの告げるところによれば、カルノリアの第三皇女の夫が死去したとのことであった。カルノリア四皇女のうち三人は嫁ぎ、残っているのは四女のアレクシアのみだったが、皇帝はなぜか、年頃になった娘を手放そうとはせず。ゆえに、次期皇帝は長男エルメイヤではなくアレクシア皇女なのだといった噂も飛び交っていた。さして美女ではないが、聡明と謳われるアレクシア皇女は、それでなくとも花嫁にと希望するものが少ない。三人の姉は揃いも揃って美女ばかりであったので引く手数多であり、皆、十代の半ばで嫁いでしまったのだが。
そのうちのひとり、三女のソフィアが寡婦になった、と。テオバルトは伝えている。
かの姫君の嫁ぎ先は、セグだった。嫡男ではない、第二公子の妃となった皇女は、それでもかの地で五年を過ごしたことになる。もともと病弱であったのか。公子は、皇女との間に子を儲けることもなくあっさりと夭折した――時に年齢は、三十歳と言われる。
ソフィア皇女は、二十二歳。
「年齢的にも、釣り合いが取れてよろしいのではなくて?」
ラウヴィーヌは眼を細める。
「早速、縁談を持ち込んでいただくよう、陛下にお願いしなくては。善いことは、早いうちがよいと東方の言葉にもありますしね」
嬉々として席を立とうとする王妃を、しかしオルウィスは押し止めた。
「陛下。『計画』に必要なのは、大国の姫ではありません。コマとして、いつでも斬り捨てられる、娘で良いのです。国内もしくは、アダルバードか、エランヴィアの貴族など」
伯爵の声は、淡々と事実だけを告げていた。ラウヴィーヌは強く眉を引き絞り、何事かを考えるように目を閉じる。
しかし、父でもある国王からの召喚となれば、嫌でもその場所に足を向けねばならない。父に会う、ということは、とりもなおさず同席をしている継母にも会うことになる。それが、更に彼の神経を逆撫でする要因となっていた。
(レンティルグの女狐)
蜜色の髪と緑青の瞳を持つ、老いてなお妖艶なる魅力を放つ貴婦人。『帝国以前』といわれる由緒正しき血を持つ彼女は、しかしその血に反して浅ましい毒婦である。王妃の座ほしさに、ディグルの生母エリシアを陥れた女だ。そんな女性を、王妃だの母だの思えというほうがおかしいだろう。
父も父である。
恋焦がれて奪うようにして娶った女を、簡単に捨てるものだろうか。あからさまに解る姦計とはいえ、一時の感情に任せて愛するものを打ち捨てるとは。
(……)
着慣れぬ正装の襟元が、苦しかった。
「ご気分が、優れぬようですが」
大丈夫でしょうか、と。傍らに控えるスタシアが、気遣わしげな視線を寄越す。
「なんでもない」
気にするな、と短く答えて、ディグルは父の待つ彼の居室へと向かう。今回の召喚は、国王と王太子という事務的な対面ではなく、父と子としての会食だと取次ぎの侍女は言っていた。だからこそ、あえて側近を使わずに、女官長を使者として寄越したのだと、父は暗に告げているのだろう。
国王であろうと、父であろうと、『あの男』に興味はなかった。いずれ、遅かれ早かれ彼は他界し、自分がこの国を継ぐ。国王となる。統治者となる。そんなことにすら、関心はない。こんな国の王冠など、欲しいもの誰にでもくれてやる。望むのであれば、あの黒髪の小娘でも良い。生意気な、異国の皇女。彼女がこの国を欲しいというのなら、無条件で譲ってやる。
そうだ。あの女狐に奪われるくらいなら。レンティルグの毒蜘蛛の支配を受けるくらいなら、南方の魔女にこの首も添えて譲渡しよう。
それはそれで一興かもしれない。
他人にはわからぬ微かな笑みを浮かべたディグルは、しかし次の瞬間、表情を固くした。その僅かな変化に気づくのは、ルーラくらいなものであろう。幼い頃より手塩にかけた王太子の気配が揺らいだことを、スタシアですらまるで察していないのだから。
「王太子殿下」
纏わり付く、南国の闇。北の生まれのはずなのに、彼女の声は、噂に聞く南国の娼婦の声を思わせた。男の心を乱し、捉え、貪りつくす。暗殺者としても名高いドゥランディアの獣、かの一族の女は、全てが秘術に通じた娼婦であるという。
その身に毒を孕むという点では、彼女――ラウヴィーヌも同様であった。父をたぶらかし、母を放逐した、辺境の毒蜘蛛。重たく曇った空の下、仄かに光る燭台の灯りを受けて、王妃ラウヴィーヌはふたりの侍女を従えて、そこに佇んでいた。
この様子では、ディグルが現れるのを待っていたのだろう。
(ご苦労なことだ)
凍てつく青い瞳に更に冷たい色を浮かべ、ディグルは眼を細めた。よりによって、最も会いたくない人物と遭遇してしまった。感情を豊かに表すことが出来るならば、それこそ舌打ちのひとつも浴びせてやりたいくらいである。
「珍しいこと。国王陛下のお召しがあったのかしら」
ほほ、と扇で口元を隠す仕草が、わざとらしく鬱陶しい。彼女はディグルの後ろに控えるスタシアの姿を見やり、それから何かを――誰かを探すように視線を泳がせてから
「妃殿下は、ご一緒ではないようですね」
解りきったことを尋ねてくる。ラウヴィーヌとて、聞き及んでいるであろう。王太子妃が不在であることを。『巡察』の名目で首都を離れていること、そして
「ルナリア殿。寵姫殿のお姿も見受けられませんが、いかがされたのかしら」
ルーラが、彼女に同行していることも。知っていて、あえて問う。女性独特の、嫌な習性だ。
「ああ、妃殿下に同行されていらっしゃるのですね、そうでしたわ」
扇の下の笑みが、更に濃くなる。ラウヴィーヌは緑青の眼を細め、ディグルの姿を上から下までじっくり検分した。
「殿下もさぞご心境複雑でしょう、ご正室が愛妾を侍女のように扱われているなど。これも、若い娘特有の嫉妬心でしょうから」
お気になさいますな、と。彼女は小娘の如く小首をかしげる。世の男子の中には、彼女のこういった仕草に惹かれるものもあるのだろう。女性としての武器を全面に押し出し、色仕掛けで他者を思いのままに操ろうとする姑息な手口に、それと解っても簡単に乗ってしまう。父もそんな愚か者の一人だと、ディグルは心の中で嘆息した。
「ひとり、異国に嫁がれて、妃殿下も寂しい思いをされているのでしょう。そこを解って差し上げなくては」
解らないのは、おまえだ。
ディグルは、そう言いたかった。
女性は嫌いだ。殊に、異性に媚を売る女は許せない。しかし、クラウディアは違う。彼女は、媚びない。高飛車でもない。まるで女性の香りをさせることなく、クラウディアという一個の人間としてそこに存在している。彼女がルーラを傍に侍らせているのは事実だ。決して、嫉妬心やディグルの気を引きたいからではなく、ルーラという人間に魅力を感じているからである。もしも、ルーラが男性のままで――正室と寵姫としてではなく、夫の側近、侍従武官として対面したなら。クラウディアは、ルーラと恋に落ちるだろうか。
(馬鹿な)
それもない。クラウディアは、他者の性別を気にしない。男性であろうが女性であろうが、相手の表面だけではなく、常に内面を見つめている。
(馬鹿な)
彼はもう一度、心の中で呟いた。
いつの間にか、異国の皇女を庇っている自分がおかしかった。愚かしかった。
夜の闇を思わせる漆黒の髪と、暁の瞳を持つ皇女。思うほど、自分は妻を嫌ってはいないのだと気づいたとき、彼はそれこそ声を立てて笑い出したくなった。
「畏れながら、殿下」
スタシアが「お時間が迫っています」と、早口に囁きかけてきた。彼女なりの、助け舟のつもりなのだろう。事実、国王より指定された刻限は迫っている。もとより、かなり時間をつめてきたのだ。ここでのんびりと『雑談』をしている余裕はない。
「ああ、行く」
素っ気なく言い放ち、ディグルは継母を一瞥した。青い瞳と緑青の瞳、二つの視線が交錯する。
(いずれ、おまえを王妃の座から引き摺り下ろしてみせる)
心の奥底で捨て台詞を吐き、ディグルはその場を離れた。王妃に背を向け、靴音も高く回廊を進む。そして、ふと思い出した。この場所が、初めてラウヴィーヌと言葉を交わした場所であったことを。二十二年前、幼い彼の唇を、あの毒婦が無理やり奪った――あの夜のことを思い出し、ディグルは無意識のうちに己の口元を拭った。
◆
「して、首尾は?」
短く問いかけたのは、艶を失った銀髪を丁寧に撫で付けた初老の紳士。彼は顔の半分を覆う仮面がはがれぬよう、酷く気を使いながら顔を寄せてくる。背後に控えた側近は、主人の気持ちを慮ってか、しきりと入り口のほうを気にしていた。白亜宮の外れ、専ら恋人達の密会場所に使用される古びた塔。その地階に設けられた一室に、彼らはこもっていた。彼ら――仮面の紳士とその側近、目深に鍔広の帽子をかぶった年齢不詳の男性、そして。
「遅くなりましたわ」
静かに扉が開き、辺りを憚るように入室してきたのは、誰あろう、王妃ラウヴィーヌその人であった。
「あら、オルウィス殿。この期に及んで仮面とは、小心者ですわね」
王妃は扇の羽根飾りを揺らしながら、妖艶に微笑む。彼女の言葉を受けて、仮面の紳士――オルウィス伯爵は、顔を赤らめて仮面を外した。幾分やつれた面持ちをしているのは、暗殺者として送り出した娘の、安否を気遣っているからなのか。
「やはり、こういったことには細心の注意を払う必要があるかと思いまして」
軽く咳払いをしながら、彼は言訳めいた言葉を口にする。
「あなたもですわ、テオバルト。なんですか、その帽子は。貴婦人のまえでは、帽子を取りなさい。それが礼儀というものです」
テオバルトと呼ばれた人物は、軽く肩をすくめただけで、王妃の言葉には従わなかった。ティノア人のそれよりもはるかに深く冷たい青い瞳を王妃に向けて、彼は胸元から小さく折りたたんだ紙片を取り出す。
「今までの報告はこちらに」
まるで愛想のない口調で言うと、彼はそのまま席を立つ。これさえ渡せば用はすんだとばかりの行動に、さすがの王妃も眉を寄せた。
「事務的ですのね、随分と」
「当然だ。もう、ここにいる意味はない」
それ以上は口を利く気もないらしい。彼は挨拶もせずに王妃の脇を通り抜け、伯爵の側近を乱暴に押しのけると、部屋を出て行った。
「いやはや、これですから、下賎のものは」
王妃の機嫌を取るつもりか、オルウィス伯爵も渋い顔を作る。ラウヴィーヌもオルウィスも、テオバルトとは長い付き合いである。それこそ二十年以上になるか。まだ、テオバルトが一介の人買いに過ぎぬ時代から、彼らはよしみを通じていた。テオバルトの背後にタティアン大公の姿が見えるようになったとき、ラウヴィーヌはオルウィスを通じて彼と接触したのである。彼女がテオバルトに与えた最初の仕事は、エリシアの売却だった。
どこでもいい、この世で最も下賎な歓楽街に彼女を売却しなさい。
そんな言葉であったろうか。テオバルトはラトウィスを通じ、ラウヴィーヌの願いを聞き届けた。異常にエリシアの身体に執着するラトウィスを追い払い、まだ小娘と称しても良い前王妃をタティアンへと連れ出し、そこで――
どういった経緯か、陸に上がっていた海賊に彼女を売った。相手が海賊であれば、エリシアの行く先などわからない。国王が罪の意識におののいて、彼女の行方を捜したとしてもそう簡単には見つけることなどできぬだろう。テオバルトはそう判断したそうである。
エリシア前妃を生かしておいたことには、深い意味はない。ただ、下手に殺害してしまい、そのことで国王の心にいつまでもその存在が残っても厄介である。もともと出自は卑しい歌姫、もとの鞘に納まったのだと言って聞かせれば、まだ、国王も納得するであろうと。
「そういうものでありましょうか」
ラウヴィーヌはいまひとつ解せなかったが、正妃の座を手に入れた今では、前妃のことなど、つゆほどにも思ってはいなかった。ただひとつ、気になることは、ディグルがエリシアの行方を密かに捜していること。彼の思惑がどこにあるのかは不明であるが、万が一ディグルがエリシアを発見することがあれば、彼はどうするつもりであろう。母の無実を証明し、ラウヴィーヌを糾弾するつもりであろうか。
どちらにしろ、自分になびかないディグルは邪魔な存在でしかない。
「やはり、暗殺者を雇ったほうが賢明なのかしら」
ディグルの命を奪う――妃であるクラウディアを殺害した後に。先にディグルを殺害しては、クラウディアに継承権が移ってしまう可能性がある。そうなっては後々面倒なことになる。
「いまは、またとない好機。王宮を離れている間に、あの小娘を始末することができれば」
ラウヴィーヌは、高く音を立てて扇を閉じる。その音に、側近が眼を見張り、オルウィスは息を詰めた。
「オルウィス殿。あなたのご息女は使いものになるのかしら? いざというときになったら、しり込みするなどということは、ないでしょうね」
「それは」
「王太子妃が向かったのは、アダルバードの国境沿い。あの辺りは、ラトウィスが管理している土地でしょう」
「左様にございます」
「ラトウィスがわたくしに恨みを抱いていたとしたら、あの小娘を利用して、一矢報いんとするでしょうね。あのような小者は恐れる必要はないけれども、厄介な存在ですわ。彼は卑しすぎます。分不相応な報酬を望みすぎですわ」
かつて、不相応な野望を抱いたために、ラトウィスはオリアを追われた。横領の罪を着せられ、――実際、ラトウィスのことであるから不正は行っていただろうが――辺境の地に流された。そのことを彼が恨んでいないとは言えない。ラウヴィーヌを王妃とした、その最大の功労者は、他ならぬラトウィスである。彼は、虎視眈々と返り咲きの機会を狙っているはず。
「あの男と小娘が接触しないうちに、カタをつけてくれれば宜しいのですけどね」
王妃の言葉に、オルウィスは深く頷くだけであった。が、ふと思い出したように、テオバルトが残した書簡を手に取り、中を開いた。そこにしたためめられていたのは、簡単な結果報告。
クラウディアが、国境付近で盗賊と接触したこと。
その『盗賊』の中に、予めテオバルトの息のかかったものを紛れ込ませていたこと。
クラウディアに関する報告は、その二点のみで、特に王妃の気を惹くものではなかった。
更にオルウィスが読み進めると、
「まあ」
ある一文を耳にしたせつな、王妃の目が輝いたのである。
「丁度良い――丁度良い姫君が、出来たものですわ」
テオバルトの告げるところによれば、カルノリアの第三皇女の夫が死去したとのことであった。カルノリア四皇女のうち三人は嫁ぎ、残っているのは四女のアレクシアのみだったが、皇帝はなぜか、年頃になった娘を手放そうとはせず。ゆえに、次期皇帝は長男エルメイヤではなくアレクシア皇女なのだといった噂も飛び交っていた。さして美女ではないが、聡明と謳われるアレクシア皇女は、それでなくとも花嫁にと希望するものが少ない。三人の姉は揃いも揃って美女ばかりであったので引く手数多であり、皆、十代の半ばで嫁いでしまったのだが。
そのうちのひとり、三女のソフィアが寡婦になった、と。テオバルトは伝えている。
かの姫君の嫁ぎ先は、セグだった。嫡男ではない、第二公子の妃となった皇女は、それでもかの地で五年を過ごしたことになる。もともと病弱であったのか。公子は、皇女との間に子を儲けることもなくあっさりと夭折した――時に年齢は、三十歳と言われる。
ソフィア皇女は、二十二歳。
「年齢的にも、釣り合いが取れてよろしいのではなくて?」
ラウヴィーヌは眼を細める。
「早速、縁談を持ち込んでいただくよう、陛下にお願いしなくては。善いことは、早いうちがよいと東方の言葉にもありますしね」
嬉々として席を立とうとする王妃を、しかしオルウィスは押し止めた。
「陛下。『計画』に必要なのは、大国の姫ではありません。コマとして、いつでも斬り捨てられる、娘で良いのです。国内もしくは、アダルバードか、エランヴィアの貴族など」
伯爵の声は、淡々と事実だけを告げていた。ラウヴィーヌは強く眉を引き絞り、何事かを考えるように目を閉じる。
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