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第二章 輝ける乙女
辺境10
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「るきあるきあ、もう、あさ」
起きて、と、愛くるしい声が耳元で囁かれる。
もともと朝に強いほうではない。ディグルに比べれば、それでも幾分ましではあるが、片翼程早起き鳥なわけではなく。
「ごめん、もう少し寝かせて頂戴」
マリサは、獣の皮をなめした掛け布を頭からかぶり、寝返りを打つ。
朝、というのは、アーシェルの民にとっての朝である。
マリサにとっては、まだ夜中であった。夜中、――いな、黎明か。うっすらと空に赤味が差し、星が恥ずかしげにその姿を消していく。夜から朝へと変わる、曖昧な時間。
「そらがきれい、るきあのめみたい」
暁の空を見上げて、リィルが声を上げる。
「空?」
道理で寒いと思った。リィルが窓を開け放っているのだ。彼女は冷たい朝の風に、乳白色の髪を躍らせている。空を見上げるのは、瑠璃の瞳。神聖帝国において、皇帝よりも高貴とされた巫女姫の瞳。こうしていると、リィルが真の巫女姫のように思えた。
サリカの元にいる巫女姫を名乗る少女は実は偽者で、リィルこそが巫女姫なのではないのか。
あらぬことを考えて、マリサは内心苦笑を浮かべる。
そんなことはない。
そんなことはないはずだ。
しかし。
浮世離れしたリィルの様子は、明らかに普通の娘とは違う。彼女は人ならざる力を持っているのではないか、それは確かだとマリサは思う。村に帰還した際も、村人たちは真っ先にリィルを出迎えに来た。
――リルカイン様
――リルカイン様
それこそ、城主の帰還とばかりに、その周囲に殺到し、皆が皆彼女の前に平伏する。
――リィルって、いったい、何者?
そっとティルに尋ねたが、彼は笑って応えなかった。そのうちに、ティルの周りにも人が集まり、彼も君主宜しく人々の祝福を受けながら、自宅と思しき家にマリサとルーラを招待したのだ。
――好きに使っていい。
言われたのは、家の離れにあたる部分であった。宮殿であれば、離宮だろうか。狭い村にあっても、ティルの家は比較的大きく立派であった。それは、彼の家が代々村長を務めてきたからだ、とティル自身が言っていたが、果たしてそれだけだろうか。飢えに苦しみ、飢饉に泣いたといっているが、彼の家はそれほど悲惨な思いをしていないように感じる。ティルは初めて会った折に、姉を殺してその肉を食べたといっていたが、それは本当だろうか。母屋に飾られた、古ぼけた肖像画、ティルの一族を描いたと思われるその絵の中に、彼の姉らしき女性の姿はなかった。あれは、アーシェルの悲劇を誇張して伝えるための、偽りだったのではないか。
「リィル」
マリサは半身を起こし、少女を呼んだ。リィルは「なあに?」と小首をかしげ、彼女の元に寄って来る。どうせなら、窓も閉めて欲しいと思ったが、あえてそれは口にしなかった。
「ティルは? ティルの家族は、もう起きてるの?」
問いかけに、リィルは頷いた。
リィルはティルと共に暮らしているようで、母屋で寝起きをしていた。夕べは、ルーラと一緒に寝ると騒いだのだが、ティルに説得されて母屋に戻った。この我侭な娘を良く手なずけていると、マリサはティルの手腕には感心する。
「ティルのご両親――ほかに、ティルに、おねえさまはいたの?」
子供ならば、無邪気に答えよう。そう思ったマリサの考えは、幾分甘かった。
「おねえさま? てぃるの? げぇる?」
「げぇる?」
なんだそれは。何の呪文だ。呪いだ。マリサは、顔を顰めた。それとも『げぇる』とは、こちらの方言なのだろうか。
「って、なに?」
「げぇる――げいる……げーる」
語句の活用形か。マリサは、額を押さえた。痣が出来るかと思うほど強く額を抑えていると、リィルがちょこちょこと近づき
「だいじょうぶ? あたま、いたい?」
無邪気に尋ねてくる。マリサは、かぶりを振った。
「げーる、いなくなった。みずうみにいって。みんなでおいのりした」
「リィル?」
やはり、ティルに姉はいたのか。湖に行って、いなくなって、皆で祈った。それはもしや。
「――遺書があったよ。自分の肉を役に立ててくれ、って」
「ティル」
戸口に、赤い瞳の少年が佇んでいた。気配も無く、いつの間にやってきたのだろう。マリサは、眼を見開いた。
「悪趣味だね、こんな子供に聞くなんて。ゲィル――オレの姉貴の名前だよ、確かに」
「ゲィル?」
「そう。アヴィゲイル。お貴族様みたいな名前だろう?」
ティルが笑った。どこかしら、普段の彼とは異なる、空虚な笑みだった。
「うちは代々、ご大層な名前をつけられてきた。リィル――そいつも、本名はリルカイン。オレも……」
ティルが言いかけたときである。
「長」
廊下から、男性の声が聞こえた。アウリール――ティルの『側近』のような役割をしている男の声である。
「狩りの準備が整いました」
この時期、男たちは狩りに出て、女性は畑仕事に精を出す。極限の大地、といわれるアーシェルにも、作物はそれなりに育つのだ。寒さに強いといわれている薯類や雑穀を育て、北の大地でしか栽培できない薬草を栽培して、収穫したものを売りに出す。売れるものといえば、眼に良いといわれる紫色の果実『ブラゥエール』だけだが、その収益は村の重要な財源である。ブラゥエールの行商にと、首都へ赴こうとするアーシェルの民から法外な通行料をせしめていたのは、ラトウィス以下『関守』役人達であった。
「本当は、野生のブラゥエールのほうが良質なんですよ」
畑にマリサを案内したティルの母は、そう言って苦笑した。
「でも、需要に供給が追いつかなくて。なんとか人の手でもそれなりのものを栽培できるようにして。やっと、それが軌道に乗ったところなのです」
フローリア、と名乗った彼女は、ティルとは異なり、北方特有の色の薄い髪をしていた。銀髪とも違う、リィルのような乳白色の髪に、灰の瞳。淡い春の雪を思わせる色彩が、彼女の穏やかな容貌に良く似合っている。ティルは、髪と瞳の色はともかく、顔立ちは母に似たのだろう。フローリアも若い頃は、引く手数多の美人であったに違いない。
一方、ティルの父も、フローリアと同じ髪と瞳を持っていた。ティルは、本当に彼ら夫妻の実子なのかとマリサも疑問を持ったが、それは間違いないとティル自身が語った。なぜなら、彼の家系には、時折暁の瞳や黒髪を持つものが生まれるのだという。そういったものを持って生まれた者たちは、必ず村人たちから傅かれるのだ。
瑠璃の瞳を持つものも、同じく崇拝対象とされるのであれば、それは間違いなく
(神聖帝国)
その名残であろう。ティルは、かの皇帝の血を引いているのだ。その昔、北方に嫁がされた皇女、彼女の血が脈々と流れてこんにちまで繋がっているのかもしれない。本来であれば、宮殿で何不自由なく暮らせる立場であるのに、彼らはこの過酷な大地に追いやられた。
どこが、自分とティルたちを隔てる『壁』なのだろう。
(『壁』か)
マリサは、南に視線をめぐらせた。神聖帝国が築き、フィラティノアが継承した『壁』、それを切り崩すものがあるとしたら、自分であろう。だが、できるであろうか。まだ、何の権限も持たぬ、王太子妃でしかない自分に。公式の場で意見を述べる機会すら、与えてはくれぬだろうに。
(継承権も、権限も、なにもない小娘)
それが、自分。神聖皇帝の『姉』でしかない自分。
もしも、フィラティノアがかつての神聖帝国の権勢を得たいと思うのであれば。第二の神聖帝国として、大陸に君臨することを望むのであれば。マリサの扱いを変える必要がある。人質としてでも、同盟の道具としてでもなく――。
それがわかる国王であったら、エリシア妃の悲劇は生まれなかっただろう。
マリサは、自嘲と共に吐息を漏らした。
そこに、リィルが、とことこと駆け寄ってくる。
「るきあ」
満面の笑みを湛える彼女の傍に、なぜかルーラの姿はない。思ってから、またマリサは苦笑した。いつもリィルがルーラに纏わり付いているわけではないのだ。ことに、アーシェルに帰郷した頃から、彼女はルーラから離れている。特に何かがあったわけではないだろうが。
もしかしたら、気づいたのかもしれない。ルーラが、女性ではないことに。
(小さくても、警戒心だけはあるのね)
リィルの中に片翼の面影を見たような気がして、マリサは目を細めたが、
「リルカイン様」
フローリアが膝を折って彼女を迎える様を見て、奇異なる感情にとらわれた。リィルは、フローリアの血縁者、もしくはティルの血縁ではないのだろうか。ティルとリィル、このふたりの関係はどのようなものなのだろう。
「リルカイン様は、先代の末のお子様です」
先代とは前村長、その子供という意味なのか。では、ティルにとっては叔母に当たる存在なのだろう。
「いとこ、ですよ。先代は、主人の兄でしたの。――彼の子供です」
「そう。でも、なぜ彼女には敬語を使うの?」
「それは――代々の慣わしですから。それに、彼女、ではありませんよ」
フローリアはその名の通り、花の如き笑みを零す。彼女ではない、ということは、つまり。
「リィル――リルカイン、て」
「はい。このような姿はしておりますが、男子です」
そうか。そういうことか。
ルーラの中に同じ気配を感じて、リィルは彼女に興味を持ったのだ。さらに、マリサに対しては、別の感情を抱いているらしい。
「あかいめ。てぃるとおなじめ。るきあ、りぃるのはなよめ」
ぎゅっ、と足に抱きつくリィルは、愛らしいを通り越して少し怖かった。リィルは、自身の存在意義を知っているのだ。自身が瑠璃の瞳を持って生まれたことも、暁の――古代紫の瞳を持つものが『皇帝』であることも。
「ルキア様は、神聖帝国の血を引いていらっしゃる方なのですね」
フローリアの言葉に、マリサは頷くしかなかった。末裔も末裔、正真正銘エルメイヤ三世の、そしてアグネイヤ一世の直系の子孫なのだから。本来であれば、自分が皇帝として神聖帝国を継承するはずであった。現在、偽りの皇帝が君臨しているあの玉座は、自分のものであった。
(エリアス・リュディガ・アヤルカス・ティル・アグネイヤ)
自身の、真実の名。封印した本名、二度と名乗ることのない、名前。マリサは、クラウディアとして、今後フィラティノアで生涯を終えるのだ。
「――形式だけでも、ティルの花嫁に、と。女子の姿をさせておりましたが。やはり、逆らうことは歪みを生じることなのでしょうか」
フローリアの言葉が、マリサを現実に引き戻す。
アーシェルには、古代紫の瞳を持つものと、瑠璃の瞳を持つものを娶わせる習慣があるという。今回はたまたま双方とも男子であったので、リルカインを女子として育てたのである。その風習は、まさに神聖帝国の皇帝と巫女姫そのもの。巫女姫を正室とすることによって、皇帝は俗世の長たりえるのだ。
「あの子は、長ではなかったようですね」
呟く夫人の表情は、どこか清々しかった。
「ティルはただのティルとして、生涯を歩むことになるでしょう」
良かった、と、心底ほっとしたように、フローリアは顔を綻ばせる。息子が背負うであろう重責、それが取り除けたのだと、そう思っているのか、この女性は。運命の呪縛から放たれ、ただ一人の人間として、生きることを許される。それが、幸せだと思うのか。
マリサには、解らなかった。
「そういえば」
ふと、心に蘇った疑念を彼女は口にする。
「ティルが言っていました。彼の家系は、代々貴族のような名をつけるのだと。彼の姉上は、アヴィゲイル殿、この子は、リルカイン、では、ティルは? 彼は、なんという名なのでしょう?」
ある予感が、胸を過ぎる。マリサは先程聞きそびれたティルの真の名を、彼の母に問うた。フローリアは、一瞬躊躇うように視線を揺らしたが、
「アグネイヤ――エリアス・リュディガ・アヤルカス・ティル・アグネイヤと申します」
恐れ多いことです、と、聖者の名を語るかのように恐れ畏みながらその名を告げた。
マリサは、最早驚きもせず。やはり、と小さく頷いた。
ティル、と。
その名を聞いたせつな、心に浮かんだのはあの名前であった。まさか、と心の奥では否定しつつも、あるいはもしかしたらと怯えていた自分がいた。ここであの名を耳にするなど。しかも、目の前に瑠璃の瞳が存在するなど。
これでは、まるで。
(まるで――)
マリサに、『起て』と。皇帝として『立て』と。運命の女神が囁いているようではないか。
「ああ」
脳裏を掠めるのは、片翼の姿。重すぎる帝冠に押しつぶされそうになっている、脆い皇女。
マリサは、片翼を玉座から引き摺り下ろし、代わりに自分がそこに座る悪夢を、ここ数日繰り返し見た。悪夢――あるいは、それは悪夢ではないのかもしれない。
リルカインが見せた、予知夢、霊夢の類。
自身の理性を蝕む都合の良い解釈を、マリサは苦笑と共に振り払った。振り払った、つもりだった。
今までは。
起きて、と、愛くるしい声が耳元で囁かれる。
もともと朝に強いほうではない。ディグルに比べれば、それでも幾分ましではあるが、片翼程早起き鳥なわけではなく。
「ごめん、もう少し寝かせて頂戴」
マリサは、獣の皮をなめした掛け布を頭からかぶり、寝返りを打つ。
朝、というのは、アーシェルの民にとっての朝である。
マリサにとっては、まだ夜中であった。夜中、――いな、黎明か。うっすらと空に赤味が差し、星が恥ずかしげにその姿を消していく。夜から朝へと変わる、曖昧な時間。
「そらがきれい、るきあのめみたい」
暁の空を見上げて、リィルが声を上げる。
「空?」
道理で寒いと思った。リィルが窓を開け放っているのだ。彼女は冷たい朝の風に、乳白色の髪を躍らせている。空を見上げるのは、瑠璃の瞳。神聖帝国において、皇帝よりも高貴とされた巫女姫の瞳。こうしていると、リィルが真の巫女姫のように思えた。
サリカの元にいる巫女姫を名乗る少女は実は偽者で、リィルこそが巫女姫なのではないのか。
あらぬことを考えて、マリサは内心苦笑を浮かべる。
そんなことはない。
そんなことはないはずだ。
しかし。
浮世離れしたリィルの様子は、明らかに普通の娘とは違う。彼女は人ならざる力を持っているのではないか、それは確かだとマリサは思う。村に帰還した際も、村人たちは真っ先にリィルを出迎えに来た。
――リルカイン様
――リルカイン様
それこそ、城主の帰還とばかりに、その周囲に殺到し、皆が皆彼女の前に平伏する。
――リィルって、いったい、何者?
そっとティルに尋ねたが、彼は笑って応えなかった。そのうちに、ティルの周りにも人が集まり、彼も君主宜しく人々の祝福を受けながら、自宅と思しき家にマリサとルーラを招待したのだ。
――好きに使っていい。
言われたのは、家の離れにあたる部分であった。宮殿であれば、離宮だろうか。狭い村にあっても、ティルの家は比較的大きく立派であった。それは、彼の家が代々村長を務めてきたからだ、とティル自身が言っていたが、果たしてそれだけだろうか。飢えに苦しみ、飢饉に泣いたといっているが、彼の家はそれほど悲惨な思いをしていないように感じる。ティルは初めて会った折に、姉を殺してその肉を食べたといっていたが、それは本当だろうか。母屋に飾られた、古ぼけた肖像画、ティルの一族を描いたと思われるその絵の中に、彼の姉らしき女性の姿はなかった。あれは、アーシェルの悲劇を誇張して伝えるための、偽りだったのではないか。
「リィル」
マリサは半身を起こし、少女を呼んだ。リィルは「なあに?」と小首をかしげ、彼女の元に寄って来る。どうせなら、窓も閉めて欲しいと思ったが、あえてそれは口にしなかった。
「ティルは? ティルの家族は、もう起きてるの?」
問いかけに、リィルは頷いた。
リィルはティルと共に暮らしているようで、母屋で寝起きをしていた。夕べは、ルーラと一緒に寝ると騒いだのだが、ティルに説得されて母屋に戻った。この我侭な娘を良く手なずけていると、マリサはティルの手腕には感心する。
「ティルのご両親――ほかに、ティルに、おねえさまはいたの?」
子供ならば、無邪気に答えよう。そう思ったマリサの考えは、幾分甘かった。
「おねえさま? てぃるの? げぇる?」
「げぇる?」
なんだそれは。何の呪文だ。呪いだ。マリサは、顔を顰めた。それとも『げぇる』とは、こちらの方言なのだろうか。
「って、なに?」
「げぇる――げいる……げーる」
語句の活用形か。マリサは、額を押さえた。痣が出来るかと思うほど強く額を抑えていると、リィルがちょこちょこと近づき
「だいじょうぶ? あたま、いたい?」
無邪気に尋ねてくる。マリサは、かぶりを振った。
「げーる、いなくなった。みずうみにいって。みんなでおいのりした」
「リィル?」
やはり、ティルに姉はいたのか。湖に行って、いなくなって、皆で祈った。それはもしや。
「――遺書があったよ。自分の肉を役に立ててくれ、って」
「ティル」
戸口に、赤い瞳の少年が佇んでいた。気配も無く、いつの間にやってきたのだろう。マリサは、眼を見開いた。
「悪趣味だね、こんな子供に聞くなんて。ゲィル――オレの姉貴の名前だよ、確かに」
「ゲィル?」
「そう。アヴィゲイル。お貴族様みたいな名前だろう?」
ティルが笑った。どこかしら、普段の彼とは異なる、空虚な笑みだった。
「うちは代々、ご大層な名前をつけられてきた。リィル――そいつも、本名はリルカイン。オレも……」
ティルが言いかけたときである。
「長」
廊下から、男性の声が聞こえた。アウリール――ティルの『側近』のような役割をしている男の声である。
「狩りの準備が整いました」
この時期、男たちは狩りに出て、女性は畑仕事に精を出す。極限の大地、といわれるアーシェルにも、作物はそれなりに育つのだ。寒さに強いといわれている薯類や雑穀を育て、北の大地でしか栽培できない薬草を栽培して、収穫したものを売りに出す。売れるものといえば、眼に良いといわれる紫色の果実『ブラゥエール』だけだが、その収益は村の重要な財源である。ブラゥエールの行商にと、首都へ赴こうとするアーシェルの民から法外な通行料をせしめていたのは、ラトウィス以下『関守』役人達であった。
「本当は、野生のブラゥエールのほうが良質なんですよ」
畑にマリサを案内したティルの母は、そう言って苦笑した。
「でも、需要に供給が追いつかなくて。なんとか人の手でもそれなりのものを栽培できるようにして。やっと、それが軌道に乗ったところなのです」
フローリア、と名乗った彼女は、ティルとは異なり、北方特有の色の薄い髪をしていた。銀髪とも違う、リィルのような乳白色の髪に、灰の瞳。淡い春の雪を思わせる色彩が、彼女の穏やかな容貌に良く似合っている。ティルは、髪と瞳の色はともかく、顔立ちは母に似たのだろう。フローリアも若い頃は、引く手数多の美人であったに違いない。
一方、ティルの父も、フローリアと同じ髪と瞳を持っていた。ティルは、本当に彼ら夫妻の実子なのかとマリサも疑問を持ったが、それは間違いないとティル自身が語った。なぜなら、彼の家系には、時折暁の瞳や黒髪を持つものが生まれるのだという。そういったものを持って生まれた者たちは、必ず村人たちから傅かれるのだ。
瑠璃の瞳を持つものも、同じく崇拝対象とされるのであれば、それは間違いなく
(神聖帝国)
その名残であろう。ティルは、かの皇帝の血を引いているのだ。その昔、北方に嫁がされた皇女、彼女の血が脈々と流れてこんにちまで繋がっているのかもしれない。本来であれば、宮殿で何不自由なく暮らせる立場であるのに、彼らはこの過酷な大地に追いやられた。
どこが、自分とティルたちを隔てる『壁』なのだろう。
(『壁』か)
マリサは、南に視線をめぐらせた。神聖帝国が築き、フィラティノアが継承した『壁』、それを切り崩すものがあるとしたら、自分であろう。だが、できるであろうか。まだ、何の権限も持たぬ、王太子妃でしかない自分に。公式の場で意見を述べる機会すら、与えてはくれぬだろうに。
(継承権も、権限も、なにもない小娘)
それが、自分。神聖皇帝の『姉』でしかない自分。
もしも、フィラティノアがかつての神聖帝国の権勢を得たいと思うのであれば。第二の神聖帝国として、大陸に君臨することを望むのであれば。マリサの扱いを変える必要がある。人質としてでも、同盟の道具としてでもなく――。
それがわかる国王であったら、エリシア妃の悲劇は生まれなかっただろう。
マリサは、自嘲と共に吐息を漏らした。
そこに、リィルが、とことこと駆け寄ってくる。
「るきあ」
満面の笑みを湛える彼女の傍に、なぜかルーラの姿はない。思ってから、またマリサは苦笑した。いつもリィルがルーラに纏わり付いているわけではないのだ。ことに、アーシェルに帰郷した頃から、彼女はルーラから離れている。特に何かがあったわけではないだろうが。
もしかしたら、気づいたのかもしれない。ルーラが、女性ではないことに。
(小さくても、警戒心だけはあるのね)
リィルの中に片翼の面影を見たような気がして、マリサは目を細めたが、
「リルカイン様」
フローリアが膝を折って彼女を迎える様を見て、奇異なる感情にとらわれた。リィルは、フローリアの血縁者、もしくはティルの血縁ではないのだろうか。ティルとリィル、このふたりの関係はどのようなものなのだろう。
「リルカイン様は、先代の末のお子様です」
先代とは前村長、その子供という意味なのか。では、ティルにとっては叔母に当たる存在なのだろう。
「いとこ、ですよ。先代は、主人の兄でしたの。――彼の子供です」
「そう。でも、なぜ彼女には敬語を使うの?」
「それは――代々の慣わしですから。それに、彼女、ではありませんよ」
フローリアはその名の通り、花の如き笑みを零す。彼女ではない、ということは、つまり。
「リィル――リルカイン、て」
「はい。このような姿はしておりますが、男子です」
そうか。そういうことか。
ルーラの中に同じ気配を感じて、リィルは彼女に興味を持ったのだ。さらに、マリサに対しては、別の感情を抱いているらしい。
「あかいめ。てぃるとおなじめ。るきあ、りぃるのはなよめ」
ぎゅっ、と足に抱きつくリィルは、愛らしいを通り越して少し怖かった。リィルは、自身の存在意義を知っているのだ。自身が瑠璃の瞳を持って生まれたことも、暁の――古代紫の瞳を持つものが『皇帝』であることも。
「ルキア様は、神聖帝国の血を引いていらっしゃる方なのですね」
フローリアの言葉に、マリサは頷くしかなかった。末裔も末裔、正真正銘エルメイヤ三世の、そしてアグネイヤ一世の直系の子孫なのだから。本来であれば、自分が皇帝として神聖帝国を継承するはずであった。現在、偽りの皇帝が君臨しているあの玉座は、自分のものであった。
(エリアス・リュディガ・アヤルカス・ティル・アグネイヤ)
自身の、真実の名。封印した本名、二度と名乗ることのない、名前。マリサは、クラウディアとして、今後フィラティノアで生涯を終えるのだ。
「――形式だけでも、ティルの花嫁に、と。女子の姿をさせておりましたが。やはり、逆らうことは歪みを生じることなのでしょうか」
フローリアの言葉が、マリサを現実に引き戻す。
アーシェルには、古代紫の瞳を持つものと、瑠璃の瞳を持つものを娶わせる習慣があるという。今回はたまたま双方とも男子であったので、リルカインを女子として育てたのである。その風習は、まさに神聖帝国の皇帝と巫女姫そのもの。巫女姫を正室とすることによって、皇帝は俗世の長たりえるのだ。
「あの子は、長ではなかったようですね」
呟く夫人の表情は、どこか清々しかった。
「ティルはただのティルとして、生涯を歩むことになるでしょう」
良かった、と、心底ほっとしたように、フローリアは顔を綻ばせる。息子が背負うであろう重責、それが取り除けたのだと、そう思っているのか、この女性は。運命の呪縛から放たれ、ただ一人の人間として、生きることを許される。それが、幸せだと思うのか。
マリサには、解らなかった。
「そういえば」
ふと、心に蘇った疑念を彼女は口にする。
「ティルが言っていました。彼の家系は、代々貴族のような名をつけるのだと。彼の姉上は、アヴィゲイル殿、この子は、リルカイン、では、ティルは? 彼は、なんという名なのでしょう?」
ある予感が、胸を過ぎる。マリサは先程聞きそびれたティルの真の名を、彼の母に問うた。フローリアは、一瞬躊躇うように視線を揺らしたが、
「アグネイヤ――エリアス・リュディガ・アヤルカス・ティル・アグネイヤと申します」
恐れ多いことです、と、聖者の名を語るかのように恐れ畏みながらその名を告げた。
マリサは、最早驚きもせず。やはり、と小さく頷いた。
ティル、と。
その名を聞いたせつな、心に浮かんだのはあの名前であった。まさか、と心の奥では否定しつつも、あるいはもしかしたらと怯えていた自分がいた。ここであの名を耳にするなど。しかも、目の前に瑠璃の瞳が存在するなど。
これでは、まるで。
(まるで――)
マリサに、『起て』と。皇帝として『立て』と。運命の女神が囁いているようではないか。
「ああ」
脳裏を掠めるのは、片翼の姿。重すぎる帝冠に押しつぶされそうになっている、脆い皇女。
マリサは、片翼を玉座から引き摺り下ろし、代わりに自分がそこに座る悪夢を、ここ数日繰り返し見た。悪夢――あるいは、それは悪夢ではないのかもしれない。
リルカインが見せた、予知夢、霊夢の類。
自身の理性を蝕む都合の良い解釈を、マリサは苦笑と共に振り払った。振り払った、つもりだった。
今までは。
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そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
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