アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第二章 輝ける乙女

暗殺8

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 話せ、といわれて、「はい、そうですか」と語りだす愚か者は、この世には存在しないだろう。これが、機密事項ではなく、恋の秘め事や房事に関する猥談であれば、輝かしい戦歴を語ってやっても良いのだろうが。無論、目の前の小倅が尋ねているのはそのようなことではなく。
 ジェリオとミアルシァの関連性だった。
 とはいえ、記憶の大半を失っているこの状態では、どれだけ責められようが語ることは出来ない。第一、ミアルシァとの関連性を問われても、そんなことを知るわけがない。逆にこちらが聞きたいくらいだ。
(俺が、誰なのか)
 彼は――対峙する少年は、知っていると思っていた。彼の様子から見て、皇帝とはかなり親しい人物であろう。側近、いや、それよりももっと近しい。高貴な人物にありがちな、乳兄弟という存在だろうか。皇帝の全てを知っているような口ぶりであるにも拘らず、つまらぬことで嫉妬をむき出しにする。見かけ通りの子供だった。年齢は、皇帝と同じくらい。いって、十七か、八か。それくらいなものだろう。
 しかし。記憶を失う前、皇女時代のアグネイヤのもとで、暗殺者として行動していたジェリオを、この少年が知らないというのは妙である。皇帝の側近なれば、当然ジェリオの顔も存在もわかっているはずだろうに。それとも、ジェリオの存在は、隠されていたのか。
 ジェリオは、少年の黒い瞳を見つめる。澄んだ、きれいな瞳だった。汚れたことなど何一つしたことのない、無垢なるものの瞳。己の道が正義であることを微塵も疑うことのない者の目である。その双眸が怒りに染まり、ジェリオを力の限り殴打したのは、つい先程のことであった。
「カイラとは、どういう関係だ? 貴様は、カイラのヒモか?」
 ヒモ、の正確な意味さえ知らぬくせに。ジェリオは少年を嘲笑う。その顔が彼の怒りを煽ったのか、彼は握り締めた鞭を振り上げる。また、だ。また、彼は感情の赴くままに鞭を叩きつけるのだ。
 いっそのこと、痛みで気がおかしくなって、その衝撃で記憶が戻らないかと幼稚なことを考えてしまう。
 実母であるセシリアのことこそ思い出したものの、断片的に脳裏に浮かぶ情報は、まだ、極端に少ない。母の歌う、異国の歌。窓越しに舞い散る雪。ユリシエル、という街の名前と、母の旧友である――
「シェルキス?」
 なぜか、唐突にその名前が閃いた。顔は思い出せない。けれども、大きな温かい掌と、ジェリオを呼ぶ深みのある声が蘇ってきたのだ。
「シェルキス?」
 少年は不意に動きを止めた。その瞳が大きく見開かれ、信じられぬものを見たというようにジェリオを見つめている。
「シェルキス二世陛下……? 馬鹿な」
 何に動揺したのか、少年は青ざめた顔でかの人の名を呟いた。シェルキス二世なる人物が、どういった立場にあるかは知らぬが、どうやらこの少年もシェルキスを知っている模様である。否、ジェリオの知る『シェルキス』と、この少年が言う『シェルキス二世』が、同一人物であるとは限らない。
「貴様、本当はカルノリアの手のものか?」
 今度は、カルノリアか。先程はミアルシァとの関係を問いただしていたというのに。彼はいったいジェリオからどのような情報を引き出そうとしているのだ。まるでめちゃめちゃで統一性がないではないか。逆に鞭を奪ってその一貫性のなさを責めてやりたい気分であったが、両手を縛められていてはそれも適わない。ジェリオは血の混じった唾を吐き捨て、冷ややかに少年を見下ろした。
「聞く必要はないだろう? お坊ちゃん。てめえのほうが、実際俺よりも俺のことを知っているんじゃないのか?」
 静かな、だが、威圧的な声に、少年は眉を吊り上げる。何を愚かなことを――言いかけて、彼は更に怪訝そうに眼を細める。
「どういうことだ?」
「俺は以前、皇帝陛下の子飼の殺し屋だったって話だぜ? 奴が皇帝になるために、目障りな奴を片端から俺が始末していった。ところが、即位した途端に俺が邪魔になって、皇帝は俺を殺そうとして……」
 自分は、記憶を失った。それが、愛するものに裏切られた衝撃からだとカイラは言うが。果たして、その通りなのだろうか。今回も、皇帝はジェリオを受け入れるような素振りを見せたにも拘らず、裏で手を回して彼を捕らえさせた。あの清純な顔で、無垢な身体で、どれだけジェリオを弄べば気が済むのだろうか。逆にそれだけジェリオに執着しているということなのか。皇帝の傍仕えらしきこの少年の様子から、皇帝がまだジェリオに未練を残していることは容易に想像がつく。
 そして、自身の心にも。
 皇帝に対する暗い想いが、いまだに燻っているのだ。
「――なにを、言っている?」
 少年は、訳がわからないといった風に肩をすくめた。
「戯言か? それとも、打たれすぎて頭がおかしくなったのか? 貴様のような下衆な輩を、陛下がお傍に置かれるはずがないだろう」
 あっさりとジェリオの言葉を却下して、彼は更に言い募る。
「それに、陛下は暗殺など潔しとされぬお方だ。ご自身が刺客に狙われて、恐ろしい思いをしているだけにな。その陛下が、貴様など雇うはずがない」
 強い口調だった。断言している、というよりも、自身に言い聞かせているような言い方であった。少年は強く唇を引き結び、踵を返す。興が冷めたのか、何か陰惨な拷問方法を思いついたのか。足早に牢から出て行く彼の後姿を見送り、ジェリオは薄く笑う。
 これ以上ジェリオを責めたとて、彼らにとって有益な情報など得られるわけがない。だが、それが解ったときが、ジェリオの最期に繋がるのだ。益のない人物をいつまでも生かしておくほど、気長ではなかろう。
(……)
 だが。
 そう判断されて、殺される前に。
 拷問で命が尽きる、その前に。
 もう一度、あの暁の瞳に会いたかった。淡く煙る、朝焼けの色。どことなく切なげで儚げな、支配者に相応しからぬあの瞳に。
(馬鹿か)
 どこまでも、滑稽な道化だと、自嘲する。裏切られても、裏切られても、自分は彼女を忘れられないのかもしれない。忘れられないからこそ、彼女に利用されるのかもしれない。
(違う)
 皇帝は――アグネイヤ四世は、人の心を平気で弄べるような女ではない。じかに接した今は、それが解る。皇帝は、ジェリオを救うために自分の命を断とうとした。あれは、狂言ではない。芝居ではない。彼女は間違いなく本気だった。本気だったからこそ。その生を願った。
「……」
 ジェリオは唇を噛んだ。
 彼女のことを想うと、あやしく胸がざわめく。全身に甘い漣が立つ。彼女を愛していた――その事実さえ、カイラの与えた偽りの記憶だったとしたら。
 自分は、何をよりどころとすれば良いのだろうか。
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