アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第二章 輝ける乙女

岐路9

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 皇太后と二人きりで対峙する破目となったジェリオは、若干の居心地の悪さを覚えていた。こちらを見つめる顔は、アグネイヤ四世とよく似ている。彼女があと十五年――二十年もしたらこのような姿になるのだろうと思われる顔立ちは、造作が整っているだけあって、凝視されても悪い気はしない。
 が。
 まるで色気のない見つめあい、寧ろ睨み合いといった様相を呈している今は。この沈黙を、微妙な間を、持て余すだけだった。
「俺の顔に、何か付いているか?」
 根負けしたジェリオが口を切る。リディアは薄く笑い、「そうだな」と頷いた。
「眼と鼻と口と――普通の人間の顔をしている」
「当たり前だ。喧嘩売ってんのか」
「汝と言い争いをしても、一つの益もない。時間の無駄だ」
「ああ、そうかよ」
 ジェリオは殊更不機嫌な顔をして、彼女を睨みつける。こんな不毛な会話をするために、自分を留めおいたのか。それはそれで腹が立つ。先程の、サリカに対する態度も腹に据えかねたが、現在の自分に対する対応も失礼極まりない。ジェリオとリディアの立場を考えれば、当然の仕打ちであるが、それでも彼の心には、沸々と怒りがわきあがっていた。
「汝は、記憶を失っていると聞いている」
「ああ。そうみたいだな」
「残念なことだ。そうでなければ、色々と聞けたものを」
「色々? 『俺とあんたの娘とのこと』か?」
「それには興味がない」
 リディアの笑みが濃くなる。
「年頃ともなれば、異性に興味を持つのは当然のこと。ことに、鮮烈なる出会いをしたのであれば、衝撃を恋と見誤る場合もある。とはいえ、――皇帝が望むのであれば、汝が婿となることも厭わぬが」
「……」
「神聖皇帝は、男子。当然、汝の存在は隠される。肉体のみの交わり、ということになるな」
「――冷静に、凄いこと言うなよ」
 ジェリオは渋面を作った。顔はアグネイヤ四世と同じでも、中身は随分と異なる――別人格であるからそれは無論だが、こうして話していると、声も顔も同じだけに妙な気分になってくる。ここにいるのは、皇太后ではなく、実はアグネイヤ四世ではないか。彼女が、奇しき手妻を使って、ジェリオを謀ろうとしているのではないか。いや、そうではなく。双子の片割れである皇女、彼女が皇太后と偽って、この場に現れているのではないか。
 いま一人の皇女、クラウディア。
 彼女とも、ジェリオは面識があるはずだった。しかし、彼女のことは覚えてはいない。先程、皇太后に食って掛かったときには、確かにクラウディアの存在が脳裏を掠めたはずであったが――。
「ドゥランディアの術にかかっている、というのもまた興味深い」
 リディアの声にジェリオは我に返る。こちらはその術のせいでかなり迷惑をしているというのに、興味深いとはどういうことだろう。これだから貴族は――怒りに任せて彼が叫びそうになったとき、
「ミアルシァに生まれた我も、かの一族に関しては未知なる部分が多い。まさか、噂通りに人の心を操ることが出来るなど――信じられぬな」
「……」
「偽りを申しているのであれば、為にならぬ。早々に真実を告白すべきだ」
「俺が、嘘をついているとでも?」
「その可能性も、無きにしも非ずであろう」
 確かに。『記憶喪失』なるものを、しかも人為的になされた記憶の操作などを、無条件で信じよ、と言うほうが無理である。リディアが自分を呼び止めたのは、それが知りたいからなのか。それとも、別に意図があってのことなのだろうか。
 この女性の心は、はかりかねる。
 まるで、そうまるで――
(――の、ようだ)
 誰のようだと思ったのだろうか。瞬間的に脳裏に閃いた名を、面影を、掴むことは出来なかった。だが、鮮やかな軌跡を残して記憶の奥底に沈み込んでいった、古代紫の瞳、それだけは心に焼き付いている。
 あれはいったい、誰であったか。
 背に薄ら寒さを覚え、ジェリオはリディアに解らぬようそっと首をすくめた。
「――まあ、よい。汝をとめおいた理由は、それではない」
 少し無駄話をしすぎた、リディアは気だるげに扇を揺らし、斜めにジェリオを見上げる。
「ジェリオ、といったな。汝は、刺客であると――皇帝の命を幾度か狙ったことがある、というが」
「それが?」
 今更それを罪として、ジェリオを葬るつもりだろうか。幾分警戒を強めながらも、彼は強硬な態度を崩さなかった。そうしていなければ、この冷徹なる皇太后に屈服してしまいそうだった。
「腕のほうはどれほどか知らぬが、汝に頼みがある」
 刺客に対する依頼。それは、ひとつしかない。即ち、政敵の暗殺。この期に及んで、彼女から依頼を受けることになるとは。ジェリオはおかしくなった。声を立てて笑いたいくらいであった。何を思って、皇太后はジェリオの依頼主となるのだろう。現在の依頼主を捨てて、神聖帝国の手先となれ、と、そういうのか。
「誰を?」
 聞くまでもない。神聖帝国皇太后の依頼であれば、ミアルシァの要人、もしくは、カルノリアかフィラティノアか。帝国にとって不都合な国の元首、それに類する人物を標的とするのだろう。
 今までの話の流れから行けば、ミアルシァの国王か、もしくは、カルノリアの皇帝か――だが、リディアの口から零れた名は、思いもよらぬものであった。

「神聖皇帝アグネイヤ四世」

 かの人の命を奪え、と。無機質な声で告げたのである。
「――冗談にしても、タチが悪いな」
 ジェリオは、冷めた眼差しを皇太后に向けた。我が子の殺害を依頼する親が、何処の世にいようか。血で血を洗う権力抗争こそが日常の宮廷においてさえ、親子の絆は固いものであろうに。
「本気なら、更に始末が悪い」
 貴族という『イキモノ』は、どこまで穢れているのだろう、腐っているのだろう。このようなことを、よもや平然と口にしてしまうとは――これでは、人が人である意味がないではないか。
 殺人を生業としている自分に言われたくはないだろうが、それでもこれは、人として越えてはならぬ一線である。
「俺にそんなことを言われたくない、ってか?」
 挑発的な言葉に、しかし、皇太后リディアは答えない。口元を扇で隠したまま、冴え冴えとした暁の瞳でもって、ジェリオをただ見つめている。その双眸に曇りはなく、彼女の先の発言は、ジェリオも聞き違いではなかったのかと、思いたくなった。
「自分の思うように育たなかったから、斬り捨てる、か? 随分思い上がったもんだな。あんた、何様だ?」
われは、神聖帝国皇太后であるが?」
 それがなにか、と。問いたげな様子で、リディアは首を傾ける。
「殺し屋風情が、知った風な口を利くな」
「――あんた」
「我には我の、国には国の、正義であり道理であり、規律と言うものがある。それを乱すものを排除するのは、統治者たるものの役目だ。それを怠れば、国は麻の如く乱れ、他国に付け入る隙を与えてしまうだろう。そうなれば、この国は滅びる。滅びれば、どれだけの人間が悲嘆にくれることか。命を失うことか」
 多くの民の命に比べれば、皇帝の命など軽いもの――否、比べることすらおこがましい。
 言い放つリディアは、既に人の親ではなく、ひとりの為政者であった。大儀のためには肉親の情も捨てる、言外に含ませている彼女であるが、そこまでアグネイヤ四世を、腹を痛めて産んだ娘を毛嫌いする理由はなんなのだろう。嫌ってはいない、彼女を愛していると、先に地下牢でまみえた男は言っていたが。
 それは全くの詭弁だろう。
 偽りだろう。
 子を愛している親であれば、これほどまでに理性を優先した判断は出来ないはずである。
「皇女さんがいつ、国を乱すようなことをした? 取り返しの付かない間違いを犯した? 何もしていないんだろう? 何もさせようとしないだろう、あんたらは。それでいて、なんで」
「『なにか』、をしてしまってからでは、遅いのだ。アグネイヤ四世は、情に脆い。切り捨てるべきものを、それと解りながらも救ってしまう。一個人であればそれでよい。だが、一国の君主なれば、その甘さが命取りとなる。現に『彼』は、宮廷の中に毒蛇を取り込んでしまった」
「毒蛇?」
 ミアルシァの姫君か。ルクレツィア、という青紫の瞳の公女。彼女を隠れ蓑として、ミアルシァの間者が暗躍する――カイラや、自身のように。
「――今一度汝に問う」
 凛とした皇太后の声が室内に響く。
「我が依頼、受けるか否か」
「断るに決まってんだろ」
 話にならない――ジェリオは踵を返した。これほど胸が悪くなった依頼も初めてだ。彼にも、刺客としての矜持がある。それを地に落としてまで、受ける義理はない。
「汝は、我が娘を好いているものと思ったがな」
 扉に手をかけたジェリオは、皇太后の思わぬ一言に動きを止めた。
「アグネイヤ四世も、汝を憎からず思っている様子。汝を見込んでの依頼ではあったが、見込み違いのようであったか」
「……?」
 瞬間、ジェリオの脳裏にあることが閃いた。彼は弾かれたように、リディアを振り返る。燭台の灯越しに交錯する視線――
「あ……」
 刹那、ジェリオは皇太后の言わんとしていることを全て理解した。
「そういう――そういう、ことか?」
 問いかけに、皇太后は無言で頷いた。彼女もまた、自身の真意おもいが、ジェリオに通じたことを悟ったのだろう。アグネイヤよりもやや赤味の弱い暁の瞳に、満足げな光が宿る。
 ジェリオは思わず笑い出した。
 皇太后も人が悪い。
 そして、――娘に劣らず、甘い。
「それは、あんたの独断か? コウタイゴウヘイカ?」
 今一度、問えば。リディアは、「さあ」という風に視線を揺らす。どこまでも食えないひとだった。だからこそ、アヤルカスを、神聖帝国を、ここまで支えてこられたのだろう。この細い腕で。ある意味、アグネイヤ四世よりもリディア皇太后こそが、皇帝に相応しい存在なのかもしれない。
「自身の大切なものを守るためには、力が必要だ。なによりも強い力が。それを皇帝が実感し、自らそれを得たときこそ、真実の皇帝となる」
 リディアの言葉に、ジェリオは眼を細める。
 彼女は、待つというのだ。サリカが皇帝たるに相応しい力を持つまで。その『猶予』を与えると、そう言っているのだ。
 しかし、火種を抱えている中央諸国、そこにおいて皇帝不在がどれほどの致命傷を国に与えることか――その危険を承知で皇太后は時間を与えるというのであるから、彼女にもそれなりの覚悟はあるはずだった。かつて、十六年間の皇帝不在期間を経てきたアヤルカス、それを支えたのがリディアならば。彼女なら、暫しの間であれば、再び帝国を支えることが可能かもしれない。
「汝に与える期間は、二年。それ以上は、待たぬ」
 よいな、と。リディアは念を押す。
「潰れるもよし、這い上がるもよし。這い上がることを期待しているぞ、我は。――かのアグネイヤ一世陛下も、底辺より這い上がってきた御方である。真実、力があるのであれば、それが可能だと我は信じている」
「ああ、そうだな」
 アグネイヤ四世は、成長する主君なのだ。最初から完成しているのではなく、未完成の大器。鍛え方次第で、どのように化けるか。楽しみな存在でもあるのだ。
「忘れるな。アグネイヤ四世の命を奪うのは、汝ぞ」
 皇太后リディアの命令を、今度こそジェリオは受けた。謹んで、と、彼は答え。皇太后の前に進み出る。彼女の前に膝を屈し、こうべを垂れた。おそらく、いまだかつてこのような契約方法は取ったことはないのではないか。
 ジェリオの肩に、リディアの手が触れる。白く細い指先が、何かの紋様を描くように彼の肩から腕にかけて流れるように動いた。これが、神聖帝国の『誓い』なのか。
 やがて、リディアはその場を離れると何処かへ去り、またすぐに戻ってきた。何事かと顔を上げれば、皇太后自ら包みを抱えてこちらに戻ってきた。中身を見ずとも、その形状、持ち運び方で判断できてしまう。
 それは、一振りの剣であった。
 果たして、解かれた包みの中から現れたのは長剣だった。皇太后の居室にあるのだから、さぞや煌びやかな飾りを施された実戦に向かぬ儀礼用の剣かと思いきや、それはジェリオの想像を裏切って、ごく普通の、剣であった。
「これは、我が夫が最後まで身に帯びていたものだ」
 剣に向けられたリディアの眼が、いつになく優しさを宿している。亡き皇帝――双子の父に当たる、ガルダイア三世の愛剣だと、彼女は言った。すらりと抜き放たれた刀身は、蝋燭の炎を受けて妖しく光を放つ。刃の部分に穿たれたのは、呪符だろうか。奇怪な文字のような絵のような、奇妙な図がかかれている。リディア曰く、それは神聖帝国の文字、ルディンにて書かれた護符だそうだ。
「これを、汝に与えよう」
 再び刀身を鞘に収めると、リディアはそれをジェリオに下賜した。本来であれば、許されぬことであろう。一国の皇帝が使用していた剣を、下賎の殺し屋に下賜するなど。
「神の加護が、汝にあるように」
 甘い薫りが、鼻をくすぐる。サリカのそれとは若干異なる、香水の薫りだった。リディアは軽く屈み込み、ジェリオの額に口付ける。
「……」
 それは瞬間的なものであった。リディアは風の如くジェリオから離れ、彼の手には剣が残された。いまだ手枷は外されず、抱えるようにして剣を持つ彼の前で、リディアは手元の鈴を振る。心得たもので、次の間から侍女が姿を現した。
「だれぞ、溶接の心得のあるものを呼べ。この者の、枷を外す」
 リディアの命令に、侍女は恭しく礼をした。

 ――皇帝を殺害するのは、汝ぞ。

 アグネイヤ四世の命を奪うのは、ジェリオのみ。それ以外のものが皇帝を殺めることは許さない。つまりそれは。
(あんたも、素直じゃない)
 ジェリオは、内心皇太后に悪態をつく。
 なぜ、素直に『娘を守ってくれ』と言えぬのだろうか。言葉を操ることで、他人を惑わせ、不安にさせるようなことをするのだろう。逆に、それは自身が試されているからかもしれないが。
(いや)
 試されたのではなく。あれは、ジェリオの性格を看破したからこその、依頼なのだ。そこに思い至ると、悔しさが込み上げてくる。はじめから、リディアはジェリオが依頼を受けることを想定した上で、話を持ちかけたのだ。ジェリオが彼女の真意を汲んで、その想いに応えることを予測して。
 どこまでも、強かな女性だった。
 彼女に比べれば、サリカは、まだまだひよこ同然、といったところか。
 この、ひよこが成鳥となるまで。どれほどの時間を必要とするのだろう。二年、とリディアは言っていたが、果たして――。
(それは、全部あんた次第だな。皇帝陛下)
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