アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第二章 輝ける乙女

書簡2

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 ふと、視線を上げる。
 目の前には、よく見知った顔があった。
 がたがたと揺れる馬車、斜向かいに座ったその男は、まだ手に馴染んではいないであろう剣を弄んでいる。いままで彼自身が使用していた剣は、というと。
「大事に使えよ」
 サリカの手にあった。
 彼――ジェリオの母の知人から貰った、というその剣は、以前から思っていたのだが、一介の刺客が持つにしては随分と立派であった。装飾が、というわけではない。その作りが全て絶妙な調和をもっているのだ。まるで、ジェリオのために作られたとしか思えぬ剣である。彼が左利きであることを考慮に入れて作ったものらしく、柄の握り具合や刃の微妙な向き、細部に至るまで調整がつけられていた。
 幾度か自身にも向けられたことのある剣を、こうしてまじまじと見つめる日が来ようとは。サリカは、予想すらしていなかった。
 そのうえ。

 ――暫く、あんたの傍にいろってさ。あんたのお袋から、メイレイされた。

 コウタイゴウヘイカからの玉命で、彼はサリカの元に改めて送られたのだという。皇太后リディアは約束通り彼の枷を外し、自由の身にした。そうした上で、馬車を仕立てさせ、皇帝と元刺客であった青年をアシャンティの離宮へと向かわせたのである。
 曰く、アグネイヤ四世は、お払い箱だと。皇帝としての資質に問題がある。ゆえに、その器量を見定めるまで、紫芳宮に戻ることあたわず。
 権力は、皇太后であるリディアに集中し、彼女を支えるのは他ならぬ宰相エルハルトであった。
 あのふたりに疎んじられた、見放されたと、ジェリオの言葉を聞いたときは絶望に気を失いそうになったサリカだったが。

 ――いつか、おふくろ達を見返してやれよ。

 彼の何気ない一言に、心の均衡を保った。
(ジェリオ)
 正確には、その言葉にではなく。直後に、おどけたように、だが何気なく付け加えられた

 ――俺が付いててやるから。

 その台詞に心を動かされたのだ。
 傍にいる。傍にいてくれる。背中を預けられる存在が、傍にある。
 思うと、温かいものが身体の芯から溢れてきた。嬉しい、これはそう言った感情なのだろうか。サリカの気持ちに、ジェリオは愛撫ではなく抱擁で応えてくれるのだろうか。
「なーに見てるんだよ」
 自身に注がれる暁の視線を気まずく思ったか。ジェリオは照れたように、唇を尖らせる。以前の彼ならば、このような時は必ず、下世話なからかいの言葉を発していた。今は違う。今は、今の彼は、ごく普通の青年だった。気負いも憎悪も影も。なにもない、普通の――。
「そっちに、行っていいか?」
 サリカは、答えを待たずに彼の隣に腰を下ろした。ジェリオの体温が、僅かだが感じられる距離である。ジェリオは何も言わず、剣を足元に――すぐに取れる場所に置いた。それを見計らって、サリカは、彼の腕に頭を預ける。
 探していたのだ、ずっと。
 こうして、甘えられる相手を。
「ガキだな」
 ジェリオは苦笑したが、皮肉も嫌味も言わない。自身の右腕に絡みつく少女を見下ろし、その髪に唇を押し付ける。
 抱かれるのは、嫌だった。けれども、抱きしめられるのは、好きだった。
 ともすれば、幼子のように「抱っこ」と彼に縋りつきたい衝動に駆られ、サリカは、ねだるように身を捩る。
「しょーがねーなー」
 ほい、と。声をかけ、ジェリオは彼女を抱き上げた。そのまま自身の脚を開き、その中にサリカを座らせる。背後から彼女を抱きしめて
「これで、満足したか?」
 耳元に囁く。囁きながら、軽く耳朶を噛むが、これはサリカに拒絶された。
「全く。煽るだけ煽って、肝心なとこはやらせてくれないんだからな」
 ぼやきながらも、ジェリオは悪い気はしてないらしい。片手で彼女の髪を梳きながら、鼻歌を歌い始める。子守唄だろうか、ひどく優しい調べであった。
「アシャンティまでは、まだ、だいぶかかるだろ? 寝てろ」
 何もしないから。
 猫のように丸くなり始めたサリカを見て、睡魔の訪れを悟ったのだろう。彼は今一度彼女の髪に口付けると、また、例の『子守唄』を唄い始める。初めて聞く彼の歌声は、穏やかで優しくて。艶を含んだ声質とあいまって、すんなりと、サリカの耳に入ってきた。

 眠れぬ夜は、花を数えよう、掌に掬えば消えていく、儚い花弁の数を。

 そんな歌である。『花』とはおそらく、『雪』のことだろう。雪は舞い散る花にも例えられる。
(ああ)
 ジェリオは、北国の民なのだ。サリカは、ぼんやりと考えた。彼の容姿に雪は似合わない。けれども、彼の声には、雪が似合う。音もなく、だが確かに降り積もっていく、雪が。
「……」
 彼の故郷は、カルノリアなのだろうか。白い都ユリシエル。父の親友、シェルキス二世が治める土地。マリサの友人、アレクシア皇女が住まう場所。

 いつか、時が来たら。行ってみたい。神秘の都、ユリシエルに。

 サリカの元に、眠りの精霊が舞い降りそうになったとき。がたん、と馬車が大きく揺れた。
「……っ?」
 サリカは飛び起き、ジェリオは彼女を右手に抱えたまま、剣を引き寄せる。
 何事だ、と彼女が御者に尋ねると。
「――行き倒れです」
 困惑した、御者の声が返ってきたのである。
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