アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第二章 輝ける乙女

書簡8

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 帳を開けると、蜜色の夕陽が優しく部屋を包み込んだ。
 アシャンティにおける、自室。ここを離れたのはつい先日だというのに。もう、長いこと不在にしていたような気持ちになる。サリカがジェリオに『連れ去られた』あと、フィアかそれとも他の小間使いたちが清掃をしてくれたのだろう。部屋は綺麗に片付けられ、争いごとなど何もなかったかのように整然としていた。サリカに続いて彼女の私室に足を踏み入れたジェリオも、今度はゆっくりと室内を見回していた。先般は、皇帝の命を狙う刺客として、現在は、皇帝の護衛とは行かぬまでも、その『監視役』として。異なる立場でこの場所に入室する彼の心中は、いかなるものであろうか。
 窓枠に肘を着き、サリカは遠く広がる大地を見つめた。森に囲まれた、閑静な土地。アシャンティは旧アヤルカスにおける馬産地でもあった。視界の端に、牧草地帯とそこに遊ぶ馬たちの姿が見える。そろそろ彼らも放牧を追えて厩舎に戻る時刻であろう。
「……」
 穏やかだった。
 何にも勝る、穏やかな時間だった。
 先程まで交わされていた、殺伐とした会話が全て嘘であったかのように、心の中に夕陽の温かさ、柔らかさが染み渡ってくる。

 ――ルカンド伯爵の、暗殺?

 ジェリオはその件に関する記憶も失っていたのだ。サリカがセグにおいて、かの事件に遭遇したこと。目撃者であり唯一の証人でもあるサリカ自身が、暗殺犯として手配されてしまっていること。
 伯爵がカルノリアに疎まれた理由はわからない。けれども、何らかの諍いがあったことは確かだった。ルカンド伯爵の目的は、カルノリア帝室との縁を持つこと。そのために、イリアを皇后ハルゲイザに献上しようとした。
 もともと、独立国の君主であったルカンド、彼が玉座に返り咲こうと考えたとしたら、当然、邪魔なのはダルシアである。ダルシア王国自体を掌握するためには、相応の後ろ盾を得なければならない。彼が目をつけたのが、カルノリア――大陸の鴉。だが、実際ことはうまく運ばず、カルノリア側はルカンドを切り捨てた。暗殺、という形で。
 もしも、カルノリアがルカンド伯爵と手を結んでいたら。今頃、ダルシアに火の手が上がっていたのではないか。
 それを思うと、ルカンド伯爵には申し訳ないが、彼は暗殺されてしかるべきだったのだ、と納得してしまう自分が恐ろしい。
「……」
 サリカは、自身の肩を抱きしめる。
「風が、出てきたな」
 背後から手が伸び、窓が閉められた。背に、ジェリオの胸が当たる。どくん、と心臓が不穏な音を立てた。
「ジェリオ」
 掠れた声で彼の名を呼ぶ。だが、答えはなかった。
 彼は壁に手を付いたまま、無言でサリカを見下ろしているらしい。強い視線を感じる。
 ジェリオに自分の考えが見透かされているようで、怖かった。身体が震えるのは、寒さのせいではない。恐怖だった。
「俺には、政治のことは解らない」
 半ば独り言のような、ジェリオの呟きが降って来る。
「だから、どっちが正しいのか――正しいものがあるのか、それも解らない」
「……」
「でも。あんたみたいな皇帝がいれば、もっと」
 もっと、何だというのだろう。
 訊き返したかったが、出来なかった。ジェリオはそれきり口を噤み、サリカから離れる。遠ざかる体温に寂しさを覚え、サリカは拳を固めた。
 自分が帝王の器ではないことくらい、判っているつもりだ。自分は、大局を見ることが出来ない。木を見て森を見ることが出来ないのだ。
 それが出来るのは、片翼。マリサ――まことのアグネイヤ。
 彼女は、生まれながらの帝王だった。全ての臣民は彼女の前に無条件に跪く。それが、羨ましくもあり、多少妬ましくもあった。自分にも、皇帝となる権利はある。皇帝となって、国を治める権利がある。決めるのは自分自身。幾ら母后や重臣達が片翼を推そうとも、自分が皇帝として、大公として認められれば良かったのだ。そうすれば、帝冠を戴くことが出来る。
 もとより、同じ魂が分かたれたものだ。優劣をつけられる存在ではない。
 そして、サリカには理想があった。皇帝としての高潔なる理想が。
 けれども、人には向き不向きがある。不幸にしてサリカは、人を掻き分ける気質ではなかった。他者を踏み台として上り詰めることなど出来ぬ性分だったのである。だから、常に一歩引いていた。片翼に、真実の妹に遠慮して、自分は遅れをとっていた。それでも、実力は片翼と互角、それを誰かに認められると思っていた。
 ――思っていた自分が、甘かった。
 結局、何も出来なかった。帝冠を手に入れただけ、巫女姫の『夫』と認められただけで、実質統治権は与えられてはいない。名ばかりの皇帝、そのようなものに、自分はなりたかったのだろうか。
(違う)
 だが、母后はそうであれという。時が来るまで、傀儡でいろと。
(違う)
 望んだのは、こんな人生ではない。
 自分が、サリカが求めていたものは――
「ジェリオ」
 壁にもたれてこちらを見ていた刺客に、声をかける。彼は褐色の瞳を揺らし、小さくかぶりを振った。否定、ではない。それは、寧ろ。
「好きにしろ。零れた血を嘆きたくないのなら」
「ああ」
 サリカは、微笑んだ。理解者を得られた、その喜びが自然に彼女の凍り付いていた表情を和ませる。しかし、以前のジェリオであれば、ここでどう答えたろう。

 ――どこまで厄介ごとに首を突っ込む気だ、あんたは。お人よしにも程がある。

 がなりたてる言葉を想像して、サリカは更に吹き出した。ジェリオは怪訝そうに首を傾げるが、理由を尋ねることはしなかった。
「まずは」
 カルノリアの現在の相関図を、改めて頭に叩き込まなければならない。ダルシアについても、である。離宮の地下の図書室にも、それなりの資料は揃えているはずであった。これで不足するようであれば、紫芳宮へと出向かなければならないが。
 ある程度の知識を取得するのには、どれほどの時間が必要か――ことによれば、ジェリオにカルノリアの言葉も習わなければならないだろう。それから、改めて。
 皇太后と、宰相と、話しあう必要がある。自身の決心について。
 尤も、そのように悠長なことを言っていられるような時期であれば良いのだが。事態は何処まで進行しているのだろう。それがわからない分、どうしようもなく歯痒かった。



 一体、どういうつもりなのか。
 サリカは特に、ジェリオの部屋を用意するように指示は出していなかった。皇帝の居室は、書斎と寝室、それに侍女用の控えの間がある。その控えの間にジェリオをとめおくつもりであれば、問題は何一つない。けれども、そうでない場合。
 ジェリオも皇帝の寝室に入ることになる。
 無論、だからといって、暗にサリカが誘いを掛けているというわけではないだろう。
 反面。侍女や小間使いたちも、変に気を利かせているのか、特に別室を設けてくれている様子もない。
(全く)
 すぐ手に届くところにあるのに、生殺しのまま過ごせというのか。あの妙なところで無頓着な皇帝は。しかも、

 ――湯浴みをしてくる。

 夕餉の後、彼女はそう言って退室した。その言葉に他意はないと思うものの。知らず反応してしまった自分が、情けない。今も無用な期待を胸に、彼女が戻るのを待っているのだ。あわよくば、彼女の唇と肌を堪能できるかもしれない、繋がることが叶わぬのであれば、せめて――
「……」
 彼は自身を見下ろした。せめて、処理は彼女にして欲しい。そんなことを考えていたときである。
「お待ちください、お待ちください、リナレス様」
 控えの間から、慌てふためく侍女の声が聞こえたのは。書斎に佇み、そこに置かれたままになっていたサリカの愛読書であろうミアルシァの伝奇を、何気なく手にしていたジェリオは、尋常ならざる気配にふと後ろを振り返る。乱暴に扉が開かれたのは、それとほぼ同時であった。
「あんた」
「貴様」
 息も荒く入室してきたのは、右腕を吊った細身の少年。優しげな顔立ちをしている割には、その眼差しには険がある。彼は皇帝に居室にジェリオの姿を認めると、驚きよりも先に怒りをあらわにして、悔しげに唇を震わせた。縋りつく侍女を自由の利く左手で払い、凄まじい剣幕でジェリオを睨みつける。
「ここで、何をしている」
 それは、こちらの台詞だった。なぜ、紫芳宮にいるはずのこの少年が、いま、この時点で離宮にいるのだろう。しかも、負傷までして。ジェリオは彼の燃え立つ視線とは逆に、酷く冷めた目でリナレスを見つめた。
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