アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第三章 深淵の鴉

冬薔薇4

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 冬薔薇に滞在して、もう、半月になるか。倒れて以来、半病人のような生活を送っていたジェリオも、漸く昼間は完全に床とこを離れることができるようになった。何くれとなく彼の世話をしていたセシリアも、幾分ほっとしたらしい。常に表情の奥に潜んでいた翳りも、ジェリオの回復とともに薄れていった。
 その混乱にまぎれていたせいか。サリカの素性に関して、深く追求するものはいなかった。聞いたところによれば、セシリアが彼女を

 とある貴族より預かった、大事なご子息

 そう、皆に紹介したのだという。サリカに宛がわれた部屋は、ジェリオやセシリアをはじめとする屋敷の主だった人々が暮らす三階ではなく、二階の客間であった。そちらには、寝室と執務室に匹敵する次の間、それに浴室が設えられていた。要は、その部屋だけで全て事足りる――つまり、極力サリカの性別が明るみに出ないようにとの、セシリアの配慮だった。
 セシリアも、サリカの素性については薄々気づいているのだろう。貴族の子女、という部分だけではなく、もっと深い処まで。さすがに、神聖皇帝その人であるとは思わぬだろうが、おそらくは帝室縁者、日蔭の生まれの姫君と想像しているに違いない。そんな娘が、いかにして我が子と知り合ったのか。母としては知りたいところであろうが、セシリアは特に尋ねては来なかった。それがありがたい半面、心苦しくて。サリカは挨拶のとき以外は、まともにセシリアの顔を見ることができなかった。別段、疚しいことをしているわけではない。セシリアに隠れて、ジェリオと情を交わしているわけではない。けれども、どこかしら後ろめたさがある。それは、自身の素性を偽っているからか、それとも――?


「サリカ」
 呼ばれて、サリカは顔を上げた。彼女に、と宛がわれた部屋、そこで読書をしていたのだがいつの間にか転寝をしてしまったらしい。気がつけば、毛布がかけられている。掛けてくれたのは
「寝てたのか?」
 無粋に寝顔を覗きこむ、この館の若き後継ではないだろう。そのまえに、ここを訪れて彼女を起こさぬよう配慮をしながら優しい気遣いを施してくれた、セシリアに違いない。母とはまるで異なる容姿を持つこの褐色の瞳の青年は、性格も母とは違うらしい。無造作にサリカの毛布をめくりあげると、よっこらしょ、と声を漏らしながら隣に腰かけ毛布の中に身体を滑り込ませる。いつぞや、オリアに向かう途中に同じようなことをした、と。サリカは、昔を思い出した。ほんの一年足らず前のことなのに、遠い昔のことのように思える。確か、そのときだった。彼の口から、『イルザ』なる名を聞いたのは。
「今日はまた、えらく寒いな」
 雪が降っているからか、と、窓の外に目をやりながら、彼はぶつぶつと呟いた。サリカは読み止しの本を傍らの机に置くと、ジェリオを避けるように長椅子から離れる。それを不満に思ったのか、
「なんだよ、冷てぇなー」
 幼子の如く頬を膨らませる彼を横目で見やり、彼女は帳を下ろした。昼下がりだというのに、部屋は薄闇に包まれている。この心地よい暗さが、彼女を眠りに誘ったのだろう。日々、いつ故国からの追手が来るか、シェルキスよりの使いがやって来るか。怯えながら過ごしてきた、その疲れがでたのだろう。ここに来てからも、ジェリオの『発作』騒動のせいで落ち着くことはできなかった。気遣い無用といわれはしても、それとなくジェリオの身の回りの世話もして、なるべく彼の視界の中に留まる様にしていた。それは彼の不安を和らげるためでもあったが、異国での自分の居場所を確保したいがためでもあったのだ。ジェリオの傍を離れれば、自分には行くところがない。ユリシエルで初めて覚えた恐怖、それがサリカの心の底に強く根を下ろしてしまったのかもしれぬ。
 だが。ジェリオが体力を回復してしまえば、またしても居場所がなくなることに気付く。彼の看護をしているうちはいい。そのことだけに考えを集中することができる。しかし、ひとたびこうして彼と向き合うと、言わねばならぬこと、問いたいこと、様々な思いが溢れてきて。不器用な自分は、目を合わせることすら出来ない。
 ジェリオが大方の記憶を取り戻していることは判った。かれが、あのシェルキスが何者であるか、認識していることも分かった。そして、イルザに関しても。シェルキス二世がジェリオと縁を持っているのであれば、イルザというのはおそらく――。
「怒ってんのか?」
 不意の問いかけに、サリカは我に返る。「なにを?」と心ない返事をしながら、燭台に灯を点した。暗がりに、長い影が浮かび上がる。自身のそれを目で追いながら、彼女はジェリオに向き直った。
「僕は別に」
「怒ってるだろ? お袋に紹介しなかったこと」
 ああ、それか、と。サリカは思った。だから、サリカの態度が硬いのだと彼は勘ぐっているのだ。将来を誓った――口約束ですらない、暗黙の了解。それを正式に伝えようとした矢先に、水を差された。確かに、それもサリカの蟠りの一つである。しかし、それ以上に彼女の心に重く圧し掛かるもの。それに関しては、ジェリオは見ぬふりを決め込むつもりか。サリカが黙っていると、ジェリオは軽く息をついた。長い睫毛を揺らし、僅かにサリカから視線を逸らして
「――イルザのことか?」
 意外にも自らその名を口にする。彼女の軽く握った拳が震えた。

 イルザ。

 サリカの記憶に間違いがなければ、彼女の正式な名は、ルフィーナ・イルザ・ソフィア・イリーナ。カルノリア第三皇女である。
 幼い『イルザ』とジェリオは、面識があった。ジェリオは一つ年上の彼女に対して、幼い恋心を抱いていたのだろう。肖像画でしか見たことはないが、ユリシエル一の美女、否、東方一の美女の名を恣にする美姫は、憧憬に値する存在だった。
「皇女さん……ソフィア皇女のことだったのだろう? 僕のことではなく」
 ジェリオはイルザをそう呼んでいた。多分、その意味も知らぬままに。ジェリオの記憶に刻み込まれた言葉は、初恋の美少女を示していたのだ。
 沈黙は、肯定。ジェリオからの返事はない。ただ、衣擦れの音がして、彼の気配が近づいてきた。ごまかすために、抱き締めるのか。唇を重ねるのか。彼に対する嫌悪を覚えたサリカだったが、
「……っ!?」
 乱暴に腕を掴まれ、床に荷物の如く放り出されて、悲鳴すら上げることもできず彼を見上げた。打ちつけた背がずきりと痛み、彼女は顔を顰める。つい先頃までの彼は、彼女の反応にすぐに手を緩めてくれたのだが、今は違った。真上から彼女を覗きこみ、ぞっとするほど冷ややかな目でこちらを見下ろしている。
「だったら、なんなんだ?」
 ヴェルナの夜に見た、酷薄な瞳。暗殺者のそれが、サリカの双眸をとらえる。いや、と、喉の奥から声が漏れたが、ジェリオは意に介さない。
「下衆が、貴族の娘に惚れたらいけないのか? ああ、笑い草だろうよ。あんたらからすればな」
 胸元にかけられた手が、強引に衣装を引きちぎる。恐怖にサリカの顔が引きつった。剥き出しになった乳房を強く掴まれ、彼女は低く呻き声を上げる。これは、発作ではない。ドゥランディアの呪縛による発作ではない。彼自身が望む破壊――崩壊。記憶を取り戻したであろうその後の彼は、日がな寝台の上でぼんやりとしていることが多かった。サリカが食事を運んでも、生返事をするだけでまともに会話すらしなかった。そのときに、何を考えていたのか。押し寄せた記憶の中より、負の部分だけを抽出して。怒りのままにサリカを責めようと言うのか。それとも、遂げられなかった想いの代わりに――ソフィアの代わりにサリカを犯すつもりなのか。心の中でイルザの名を呼んで、イルザの面影をサリカに重ねて、彼女を蹂躙するつもりなのだとしたら。
 許せない。
「……」
 サリカは自由が利くほうの手で素早く短剣を抜き放つと、切っ先をジェリオに向けた。躊躇わず力任せに、彼の肩口に切りつける。鋭い痛みに、彼が顔を歪めた。同時に手の力が弱まり、彼女は、するりと抜け出す。肌蹴られた胸元をかばい、壁を背に彼を睨みつければ、ジェリオは相変わらず暗い目でこちらを見ていた。アシャンティ以降では、見たことのない瞳。出会ってから時々自分に向けられた瞳。あれは幼い日に誇りを傷つけられた、手負いの狼の目だったのだ。
「僕は、代用品じゃない」
 口にしてから、それがほぼ自身の人生を表すものだと気付き、サリカは眩暈を覚えた。初めて彼女をマリサから離れた『個』として認めてくれた人物であるはずのジェリオが、実は自分を別の女性の代表品と見ていた。イルザと、ソフィアと同じく皇女と呼ばれる立場にあったからこそ惹かれたのだと、実感した今は。彼の全てが空々しく思える。サリカからしてみれば、ジェリオこそ彼女の淡い想いを踏みにじった許し難い男だった。
 ジェリオは暫くサリカを見つめていたが、
「……」
 くしゃりと自身の髪をかきあげると、何も言わずに退室した。扉のしまる音を聞き、サリカはその場にくず折れる。ジェリオの血を吸った短剣をぼんやりと見つめ、静かにそれを破れた服で拭った。


「どちらに行くつもりかしら」
 短剣と、それから小さな荷物を持って裏口へと向かっサリカは、自身を呼びとめる声に息を呑んだ。深夜どころか、明け方に近いこの時刻。娼婦館はまどろみの中にあるだろうと思っていたのだが、それは間違いだった。夜着の上に肩掛を羽織ったセシリアが、燭台を手にそこに佇んでいる。サリカは咄嗟に答えが浮かばず、ただ目を伏せた。
「何があったのかは判らないけれど。『外』は危険でしょう? あなたにとって」
 何処までも鋭い人だ、と、サリカは思う。この女性の子だからこそ、ジェリオも勘がよいのだと思う。何があったかは判らない――口ではそう言っているが、彼女は薄々感づいているに違いない。サリカが、ジェリオに凌辱されそうになったことに。更には、サリカの身に危険が迫っていることも。その危険から逃れるために、この地へとやって来たことも。彼女は知っている。気づいている。
 あるいは、シェルキスからサリカの素性を聞かされたのかもしれない。セシリアとシェルキスの関係は推測するしかないが、あの愛妻家である皇帝が、他に女性を囲うようなことはしないだろう。
 セシリアはサリカを促すと、彼女の部屋まで同行した。暗く冷えた部屋に燭台を置き、我が子の如く彼女を抱きしめたセシリアは
「ごめんなさいね」
 囁くように詫びる。
「あの子は、まだ、子供なのよ。どうしようもない、馬鹿息子。それを、言い訳にすることはできないけれどもね」
 ふんわりと笑みを刻む唇から零れる言葉が、どこかしら痛々しく思えるのはなぜなのか。
「初めて好きになった相手が、貴族のお姫さまで。とてもとても結ばれることなどできない相手だったのに、――子供の幼い恋だと笑っていたのがいけなかったのね」
 初恋の人・イルザに親の決めた婚約者がいると知ったとき。イルザがそれを甘んじて受けるつもりであると知ったとき。ジェリオはこともあろうに、外出した彼女を攫ったのだ。ともに逃げる、そのつもりで。
「十三歳のときだったわ」
 結局二人は連れ戻され、ジェリオは皇女をかどわかした罪に問われた。しかし、シェルキスの計らいと、当の皇女イルザの口添えで処刑までは至らなかったのだが。余程嫌な思いをしたのだろう。以来、徹底して貴族を憎むようになっていた。思春期の傷が、いまだ彼の心に影を残している――そう告げたセシリアは、再びサリカに詫びた。
「ごめんなさい」
 そこには、また別の意味が含まれている。それは、サリカも分かった。
「――シェルキス二世陛下……あの方は、私を捕らえよ、と。そう仰いませんでしたか?」
 セシリアはかぶりを振る。この様子では、やはりセシリアもサリカの正体に気づいていたに違いない。
「二度もジェリオから大切なひとを取り上げるような、無粋な真似が出来る人ではないわ」
 くすくすと、明るい笑い声が聞こえた。
 セシリアは言う。シェルキス自身は、ジェリオが望み、イルザもまた望むのであれば、二人を添わせてもよかったのではないか、と。但し、皇帝という立場、皇女という地位がそれを阻んだのだ。降嫁にしても、娼館の主人の息子に嫁がせるなど、あまりにも世間体が悪すぎる。皇帝が認めても、皇女が承知しても、皇后が、帝室に連なる者たちが、重臣が、国民が。許すはずがない。皇女は国のため、少しでも益のある相手に嫁ぐことがその使命なのだから。愛や恋で相手を決めることは、認められない。
「あの子は、あなたを好きだと言ったのでしょう? サリカ」
 名を呼ばれ、サリカは顔を上げる。間近に、春の女神を思わせる、慈悲深い美貌があった。
「あなたも、あの子を憎からず思ってくれている……それが許されるのであれば、いまは、このままでよいのではないかしらね?」
 額に口付を落とされる。
 だから、暫くここに居ろと。そういうのか、セシリアは。
「あなたは……あなたは、一体?」
 どういうひとなのか。シェルキス二世とはどういった関係なのか。問いかけは、鈴を転がす笑い声にかき消された。
「冬薔薇の女主人、セシリア。ジェリオの母。それで良いでしょう? サリカ」
 名を繰り返すのは、自身のことを追及されたくなければ、セシリアのことも尋ねるな、と。そういう意味合いを含んでいるのだろう。



 ――下衆の小倅が。

 あの言葉は、生涯忘れることができない。娼婦の息子、と蔑まれたことも。

 ――お前に相応しい下衆の巣窟で、分相応の相手を見つけることだな。

 役人の嘲笑。それが、時折耳の奥に蘇る。加えて、もう一つの記憶。

 ――冬薔薇の奥様は昔、貴族の愛人だったみたい。
 ――飽きられて、捨てられたんだって。

 市井の娼婦から吹き込まれた、セシリアの過去。貴族とは、どこまでも身勝手で薄汚れた生き物だと、ずっと嫌悪してきた。軽蔑してきた。それなのに何故。サリカに惹かれたのだろう。一瞬でも、愛しいと思ってしまったのだろう。何よりも憎い貴族の頂点に君臨する彼女を。
 ジェリオの与える快楽に悦びながらも、決して身体を許さぬのは、彼を見下しているからだと思った。下賤の民と身体を繋げるなど、ありえないことだ、と。だが、サリカと接しているうちに、それは違うと分かった。サリカは、純粋に恐れていたのだ。自分が女となることを。闇を恐れる幼子と同じく、ジェリオという異性を恐れていた。
 それが、わかった。
「……」
 強引に犯そうとして抵抗されたときは、怒りがこみ上げた。力ずくで襲った自分に非があるとは思わず、お高くとまる彼女が憎かった。だが。思い直し、どうしているのか気になって足音を忍ばせて廊下に出た際、彼は話し声を聞いてしまう。母と、サリカの声だった。
(ちっ)
 彼の幼い頃の無残な初恋を、よりによってサリカに語るとは。母もいい加減人が悪い。ジェリオは扉に背を預け、舌を打つ。サリカはあの話を聞いて、どう思ったろうか。しみったれた男だと、自分を軽蔑するのか。

 ――忘れるな。アグネイヤ四世の命を奪うのは、汝ぞ。

 神聖帝国皇太后の言葉を思い出し、彼は眼を細める。そうだ、皇太后は、ジェリオの生まれがどうであれ、彼を一個の人間として認めてくれた。あの女性の娘ならば。
「悪りぃ」
 届かぬと知りつつ、サリカに詫びの言葉を投げる。傷つけてしまった心を彼が癒すことを、許してくれるだろうか、彼女は。



 その、翌日からだった。セシリアが頻繁に、サリカの部屋を訪れるようになったのは。
 自分が若い頃に着ていた服だ、といっては、大量の衣装を持ちこみ。
「貴女には、紫が似合うわね」
 嬉々として彼女を飾り立て、化粧を施すのだ。そうして、いっそう美しくなったサリカをうっとりと見つめ、
「馬鹿息子には、勿体ないわねえ」
 やれやれといった風に息をつく。更には、並んで長椅子に腰かけ、繕い物の指導もしてくれた。サリカも、嗜みとして刺繍を習ったことはあるが、本格的な繕いものをしたことはなかった。貴族の夫人と比べても全く遜色ない――否、貴婦人のそれとしか思えぬセシリアの白い指先が、器用に針を操るさまを見て、彼女は不器用な自分を呪った。一つ布目を掬うたび、ぶつりと指先に針先が刺さる。痛いと思う暇もなく、鮮血が布を汚した。このままでは、繕いものを終えるころには、布がまだらに染まってしまう。情けなさに肩を落とすサリカに
「慣れよ。慣れれば、簡単に出来るようになるから」
 気にしないで練習練習、と。セシリアは明るく笑いかける。
 彼女は、サリカを息子の妻と思って教育しているつもりなのだろうか。貴族である自分を、ジェリオから遠ざけるのではなく? セシリアの不可解な行動に、初めは戸惑いを覚えたサリカであったが。日々を過ごすうちに、徐々に打ち解けて行った。

 セシリアは、気さくな人だった。もっと厳しい女性を想像していたのだが、大らかで屈託がなく、少女のような人だった。年齢的には四十を超えているそうだが、とてもそんな風に見えない。ともすれば、二十代後半にも、十代の小娘にも思えてしまう。それは、彼女の明るさからくるのか。常に笑顔を絶やさぬセシリア、彼女は苦労知らずのお嬢様育ちなのではないか、実は貴族の庶子なのでは、と。サリカは想像した。もしくは、先帝の遺児の一人――ならば、シェルキスが時折訪れるのも頷ける。
 あれからも、シェルキス二世は冬薔薇を訪れていた。サリカは彼に会うことはなかったが、彼も彼女の存在を気にかけているのだろう。

 ――客人の様子は如何。

 セシリアに尋ねていた模様である。シェルキスも、サリカの身元はセシリアに告げていないようだった。それはそれでありがたくもあるが、同時に不気味でもあった。父帝の親友であったシェルキス、彼がサリカに対して害意を持つとは思えぬが、それはあくまでも個人的な感情であり。国の事情が絡めば、また彼の態度も変わって来るだろう。
 そして。セシリアが、『サリカ』が神聖皇帝アグネイヤ四世であると知ったとき。どうするのだろうか。
 穏やかな中にも、一抹の不安を抱えた時間は、容赦なく過ぎていく。


「あら? 出来上がったのね」
 見せて、と。セシリアに言われて、サリカは顔を赤らめた。練習用にと渡された幾つかの衣服を繕ったものの、それは到底成功したとはいえぬ代物になっていた。縫い目は不揃い、挙句に引き攣れている。不細工としか言いようのない仕上がりは、セシリアを落胆させるに充分な要素を備えていた。半月ほどかけて、このざまである。余程自分は縫物に向いていないのだろうと、サリカは息をついた。
「初めてでこれだけ縫えれば、大したものだわ。後は本当に、慣れよ」
 それでもにこやかに慰めてくれるセシリアの言葉を、真に受けて良いものか。
「今度は、お料理もやってみましょうね。料理、したことある?」
 尋ねられて、かぶりを振った。したことはない。というよりも、厨房すら覗いたことはない。あれが料理と呼べるのであれば、マリサとともに狩りに出向いたときに、獲物を捌いて炙ったことはあるのだが。
「そう……」
 頷きながら、セシリアは何事か考えている風であった。
 今までは、室内ではサリカとして町娘のなりで過ごしていたが、一歩でも部屋を出る際には貴族の子弟エリアスとして男装をしていた。しかし、料理を習うとなれば、男装のままでは不都合がある。そこがセシリアの悩みどころだったのだろう。
 考えておくわ、と言い置いて、セシリアは部屋を出て行った。



「最近、楽しそうだな」
 冬薔薇を訪れたシェルキスは、開口一番そう言った。セシリアは、「あら」と頬を染め、
「そう、見えますか?」
 少女の如く首をかしげる。
「普通は、息子の嫁には辛く当たるものだが……御身は違うようだ。セシリア殿」
「まあ」
 セシリアは、ぷぅと頬を膨らませる。その仕草がまた、彼女を幼く見せて、シェルキスは笑った。貴女は変わらない――そう言いながら、ふと表情を曇らせる。セシリアは、アグネイヤ四世を娘のように思っているのではないか。時折「息子よりも娘のほうが……」と溢す姿を見ているだけに、余計に感じてしまう。確かにジェリオは並の男子よりも手がかかる子供だ。愛情に飢えている部分があるのか、殊更問題を起こすきらいがある。そこがまた可愛いと思うのは、シェルキスもセシリアと同じであった。
 ただ。今回ばかりは黙って見過ごすわけにはいかない。
(アグネイヤ四世)
 彼女が冬薔薇に居るとは。なんという皮肉。シェルキスは幾度も口にしようとしてはとどめてきた言葉を、セシリアに向けて発した。
「その、例の客人だが」
「ええ」
 葡萄酒を用意していたセシリアは、屈託なく応える。まさか彼女は、ジェリオが同行した彼の『想いびと』である娘が、神聖皇帝とは気づいていないだろう。知っていたとしたら、このように明るく振舞うことはできない。否、セシリアだからこそ、知っていたとしてもわざとそれを表に出さずにいられるのか。
「彼女が、どうかしました?」
 シェルキスの杯に葡萄酒を注ぎ、
「まさか、気に入ったから愛妾として召し出したい――そう仰られるのではないでしょうね?」
 牽制のつもりか、青い瞳に力を込めてきた。無論、セシリアが本気でそう思っているわけではない。ただ、またジェリオの想いを寄せる相手を取り上げるつもりかと、母親らしい不満をぶつけてきただけだろう。シェルキスは苦笑し、注がれた酒を飲んだ。どういう事情があるにしろ、神聖皇帝を市井に置くわけにはいかない。少なくとも自身の目に届くところに置いておきたい、そう話を切り出すつもりであったが。
「彼女が、身分ある家の令嬢であることは判ります。愚息と釣り合いが取れないことも。なにか事情があって身を隠している、そういったこともわかっているつもりですわ。ですから」
 そっとしておいて欲しい、セシリアは言うのだ。
 けれども。セシリアは、あの娘がアグネイヤ四世であると知っても、そう言えるだろうか。神聖皇帝にして、フィラティノア王太子妃の双子の姉妹。ここでその素性を明かすべきだ、とは思うが。
「いつか、時が来たら、彼女も家に帰るのでしょう。それまでは、わたしが責任を持ってお世話をいたします。それでは、駄目なのかしら? 駄目と仰るのかしら? シェルキス二世陛下は」
「セシリア殿」
 有無を言わせぬ口調であった。これは、セシリアからアグネイヤ四世を取り上げるのは至難の業であろう。既に彼女は、皇帝に情を移してしまっている。息子の恋人、ではなく、娘に等しい情愛を抱いてしまっている。果たして、僅かひと月足らずのうちに他人にそれほどの愛情を抱くことができるものなのか。考えて、シェルキスはある事実に思い当った。
「セシリア殿。貴女は、もしやご存知なのか?」
 実は、気づいている。アグネイヤ四世の素性に。気づいているからこそ、執着する?
「なんのことでしょう」
 シェルキスの問いを、セシリアは受け流した。それで直感する。知っているのだ。セシリアは。懐に入り込んだ娘が、神聖皇帝アグネイヤ四世であることを。彼女を通して、セシリアは遠く過去を見つめている。
「……」
 無言で視線を落とすシェルキスに、セシリアが微笑みかける。ご心配なく、そう静かに言葉を紡いで。
「娼館に深窓の姫君がいらっしゃるとは、何方も思われないでしょう?」
 小さく頷いた。シェルキスは目を細め、小さく息をつく。
「貴女ならば、貴女の許であれば、――信頼できる」
「ありがとうございます、陛下」
 貴婦人の如く優雅に、セシリアは一礼する。その細く白い手を取り、シェルキスは甲に口付けた。
「私は、愚かだ。許してくれ、セシリア殿」
「陛下?」
「子を奪われる悲しみを、再び御身に与えようとしていた」
 一瞬、息を呑んだセシリアは、
「シェルキス殿!」
 強い口調で彼を呼び。普段の穏やかな表情とはまるで別の顔を見せた。キリ、と吊りあがった眼は最果ての海を思わせる程暗く凍てつき。柔和な顔立ちすらも一変する。その変化に、シェルキスは別の意味で驚いた。平素のセシリアと今のセシリア、そのどちらが彼女の本来の顔なのだろう。今、目の当たりにしている烈女の容貌こそが、彼がよく知るかつてのセシリア――『氷の歌姫』の姿であった。
「あ」
 シェルキスの視線の揺れに、己の失態を悟ったのだろう。セシリアはうろたえた様子で
「ご無礼いたしました、陛下」
 後方へと飛び退る様にして、頭を下げる。
 詫びねばならぬのは、自分のほうだとシェルキスは唇を噛んだ。彼は、触れてはならぬセシリアの心の傷に触れてしまった。未だに彼女の奥底に残る傷は深く、血を流し続けているのだろう。
「無礼を働いたのは、わたしです。面を上げられよ、――」
 彼女の名を呼び掛けんとして、シェルキスは口を噤む。このひとは、目の前に居る婦人は、『別人』なのだと。強く自身に言い聞かせる。
 暫し気まずい沈黙が漂ったのち、セシリアは気恥ずかしげに頬を染めながら、シェルキスの空になった杯に酒を足した。
「大人げない処を、見せてしまいました。わたし、まだまだ子供ですわね。年齢だけ重ねても、中身は……」
 苦笑するセシリアに、シェルキスはかぶりを振る。
「でも、息子ばかりでしたでしょう? たまには女の子も良いものですわ。ひとりくらい、女の子がいても……ああ」
 今度はセシリアが視線を揺らす番であった。皇帝シェルキス、男子に恵まれない皇帝。漸く授かった後継も、病弱で明日をも知れぬ命である。それが原因で皇妃ハルゲイザが心を痛めていることは、周知の事実だった。
「互いに、子には恵まれていない……かもしれぬな」
 シェルキスの呟きは、葡萄酒の中に溶けて消える。彼の横顔を見つめるセシリアもまた。衣裳を掴む手を震わせていた。
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