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序章2・伯爵の受難
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皇女を、人質としてランジュ公国に送る。
よくぞ皇帝が、そのような進言を承知したものだ。と、アルバン伯爵は眉をひそめた。
皇帝の人となりは、よくは知らぬ。ただ、非常に物静かで病弱で、常に城の奥に籠もっているのだと、宰相から聞かされていた。それでも、皇太后が存命の頃は、よく表に姿を見せていたように思う。春立ちの祝典のときも、露台から、母后や皇妃とともに手を振っている姿を見た記憶がある。が、その顔立ちは果たしてどうだったか。
斜陽の帝国の復興のために、妃を離縁し、隣国の王女を……しかも、幼子を後添いに迎え、邪魔になった先妃の娘は厄介払い。全てが宰相の独断、というのだが。
妻を失い、子まで取り上げられることを、果たして簡単に受け入れることができるのか。
「私は、無理だな」
伯爵はひとりごちる。
向かいに座る女官が不審そうに目を細めたが、彼女は慎ましやかに何も言わなかった。
その腕に抱かれた赤子、これから属国であるランジュに送られる皇女を見て、伯爵は幾度目かのため息を付いた。
何が悲しくて、『子捨て』の片棒を担がなければならぬのか。上官命令に逆らうことは不可能とはいえ、いくらなんでも乳飲み子を異国に送るのは、心が痛む。
「なに、ランジュは異国ではない」
宰相はさらりと言ってのけた。
確かに、もとは帝国の一貴族に過ぎぬ、とある侯爵家が皇女の降嫁と共に公爵家となり、やがては大公を名乗って、帝国から事実上独立を果たした。地の利に恵まれ、海や大河を要するかの国は、交易によって栄え、今では帝国を脅かす存在になってしまっている。現在のところ帝国に楯突く様子もなく、それなりに帝国も恩恵を受けているのだが。
皇帝の新たな妃の存在に、警戒を抱いたらしい。サンドリアは、ランジュと折り合いが良くないのだ。
だからといって、皇女に対する扱いはひどい。
人質と言いつつ、厄介払いだ。
ランジュにおいて皇女がどのような扱いを受けようと……最悪命を奪われようと、リュクリスも皇帝も宰相も、痛くも痒くもないのだ。
ただ、母であるメリザンド元妃が、その一族が、嘆くだけだろう。
「侯爵家に、皇女を奪われぬよう。そこは重々注意を払うように」
と、言いつつも。
公国への旅路の供は非常に少ない。そこまで財政が逼迫しているわけではなかろうに、宰相が派遣した兵は一国の皇女の道行きには少なすぎる。今いる護衛の殆どは、伯爵の私兵だ。それに付きそう女官も一人のみ。彼女はランジュに皇女を送り届ければ、早々に伯爵とともに帰国予定である。せめて、馴染んだ乳母や侍女を、と思うが。乳母は宿下がりとなり、侍女は新たに迎えられる皇妃の専属へと配置換えをされていた。
(貧乏くじを引かされたものだ)
アルバン伯爵の嘆きは、誰の耳にも届くことはない。
数日の馬車の旅を終えて、ようやく公国との国境が見えてきた頃。
「……?」
不意に馬車が止まった。
休憩場所でもない。ランジュからの迎えが来たのか。アルバン伯爵が、窓越しに部下に声をかけようとしたときである。
再び、馬車が動き出した。
「鹿でも飛び出してきたか」
深く考えず、腕を組んで揺れに身を任せた伯爵は、目の前の赤子を見つめた。
この皇女は、両親のどちらに似ているのだろう。
黒檀の髪と若草の瞳を持つ、父帝か。胡桃色の髪と菫の瞳の元妃か。どちらに似ても、鏡を見るたびに悲しい思いをするであろうに。
そんな彼の思いが通じたのか。皇女が不意に泣き出した。声を上げて勢いよく。
「あらまあ」
女官が驚いて皇女を揺さぶる。今まで一度も泣かなかったものだから、この皇女は泣かないものだ、と女官も伯爵も思い込んでいたきらいがある。伯爵は慌てて、自ら馬車の窓を開け、脇を並走しているであろう騎士に声をかけた。
「同道してきた、赤子連れの婦人をこちらへ」
乳母がいないので仕方なく、街で募った子連れの婦人を何名か、国境までの約束で同行させている。彼女らであれば、子供をあやすことなど容易いだろう。そう思ってのことだった。
だが。
「貴様は?」
そこに、見慣れた騎士の姿はなかった。代わりに黒衣を纏った……森の闇に溶け込むような、青毛の馬を駆る青年が、額を擦り付けるようにしてこちらを覗き込んでいたのだ。伯爵は反射的に剣に手をかける。腕に覚えはあった。御前試合では必ず、決勝まで勝ち残る程の腕である。不埒者の一人くらい、そう思って扉に触れるが。
「無駄な抵抗はやめよ。御身のためだ」
玲瓏たる美声と同時に、馬車が止められる。件の青年が視線を動かすと、馬車の扉が大きく開かれた。女官の悲鳴が、皇女の泣き声にかき消される。
扉を開いた、これまた黒衣の少年が馬車の前で優雅に頭を下げ、
「遠いところを、ようこそ。お迎えに上がりました」
皇女を抱く女官に向かって口上を述べる。いつの間にか、皇女は泣き止んでいた。伯爵はゴクリとつばを飲み、黒衣の騎士と少年、次に皇女に目を向ける。皇女は涙に濡れた目をぱっちりと見開き、視線を感じたのか伯爵を凝視した。
「これは……」
皇女と目があった刹那、伯爵は声を失う。皇女の顔を覗き込んだ女官も、悲鳴を押し殺した。
黒衣の二人は、動きをとめた彼らを尻目に、皇女をあっさりと奪い取る。
「お見送り、ご苦労さまです。あなた方は、ここまで」
艶やかに笑う少年、その彼の服に縫いとられた紋章は、ランジュの大公家のものではなかった。無論、リュクリス帝室のものでも、メリザンドの実家であるエルマン侯爵家のものですらない。
剣に絡まる薔薇、その紋章を持つものは。
「……」
言葉を発することは、できなかった。アルバン伯爵の意識はそこで途切れ、二度と戻ることはなかったのだから。
後に帝国の行方不明事件として長く語られる、アルバン伯爵と下級女官ジル子爵夫人の道行き。皇女を捨てての逃避行の結末は、崖下に一行の馬車が転落しているのを狩猟の貴族が発見するまで、実に十数年間誰にも知られることはなかったのである。
よくぞ皇帝が、そのような進言を承知したものだ。と、アルバン伯爵は眉をひそめた。
皇帝の人となりは、よくは知らぬ。ただ、非常に物静かで病弱で、常に城の奥に籠もっているのだと、宰相から聞かされていた。それでも、皇太后が存命の頃は、よく表に姿を見せていたように思う。春立ちの祝典のときも、露台から、母后や皇妃とともに手を振っている姿を見た記憶がある。が、その顔立ちは果たしてどうだったか。
斜陽の帝国の復興のために、妃を離縁し、隣国の王女を……しかも、幼子を後添いに迎え、邪魔になった先妃の娘は厄介払い。全てが宰相の独断、というのだが。
妻を失い、子まで取り上げられることを、果たして簡単に受け入れることができるのか。
「私は、無理だな」
伯爵はひとりごちる。
向かいに座る女官が不審そうに目を細めたが、彼女は慎ましやかに何も言わなかった。
その腕に抱かれた赤子、これから属国であるランジュに送られる皇女を見て、伯爵は幾度目かのため息を付いた。
何が悲しくて、『子捨て』の片棒を担がなければならぬのか。上官命令に逆らうことは不可能とはいえ、いくらなんでも乳飲み子を異国に送るのは、心が痛む。
「なに、ランジュは異国ではない」
宰相はさらりと言ってのけた。
確かに、もとは帝国の一貴族に過ぎぬ、とある侯爵家が皇女の降嫁と共に公爵家となり、やがては大公を名乗って、帝国から事実上独立を果たした。地の利に恵まれ、海や大河を要するかの国は、交易によって栄え、今では帝国を脅かす存在になってしまっている。現在のところ帝国に楯突く様子もなく、それなりに帝国も恩恵を受けているのだが。
皇帝の新たな妃の存在に、警戒を抱いたらしい。サンドリアは、ランジュと折り合いが良くないのだ。
だからといって、皇女に対する扱いはひどい。
人質と言いつつ、厄介払いだ。
ランジュにおいて皇女がどのような扱いを受けようと……最悪命を奪われようと、リュクリスも皇帝も宰相も、痛くも痒くもないのだ。
ただ、母であるメリザンド元妃が、その一族が、嘆くだけだろう。
「侯爵家に、皇女を奪われぬよう。そこは重々注意を払うように」
と、言いつつも。
公国への旅路の供は非常に少ない。そこまで財政が逼迫しているわけではなかろうに、宰相が派遣した兵は一国の皇女の道行きには少なすぎる。今いる護衛の殆どは、伯爵の私兵だ。それに付きそう女官も一人のみ。彼女はランジュに皇女を送り届ければ、早々に伯爵とともに帰国予定である。せめて、馴染んだ乳母や侍女を、と思うが。乳母は宿下がりとなり、侍女は新たに迎えられる皇妃の専属へと配置換えをされていた。
(貧乏くじを引かされたものだ)
アルバン伯爵の嘆きは、誰の耳にも届くことはない。
数日の馬車の旅を終えて、ようやく公国との国境が見えてきた頃。
「……?」
不意に馬車が止まった。
休憩場所でもない。ランジュからの迎えが来たのか。アルバン伯爵が、窓越しに部下に声をかけようとしたときである。
再び、馬車が動き出した。
「鹿でも飛び出してきたか」
深く考えず、腕を組んで揺れに身を任せた伯爵は、目の前の赤子を見つめた。
この皇女は、両親のどちらに似ているのだろう。
黒檀の髪と若草の瞳を持つ、父帝か。胡桃色の髪と菫の瞳の元妃か。どちらに似ても、鏡を見るたびに悲しい思いをするであろうに。
そんな彼の思いが通じたのか。皇女が不意に泣き出した。声を上げて勢いよく。
「あらまあ」
女官が驚いて皇女を揺さぶる。今まで一度も泣かなかったものだから、この皇女は泣かないものだ、と女官も伯爵も思い込んでいたきらいがある。伯爵は慌てて、自ら馬車の窓を開け、脇を並走しているであろう騎士に声をかけた。
「同道してきた、赤子連れの婦人をこちらへ」
乳母がいないので仕方なく、街で募った子連れの婦人を何名か、国境までの約束で同行させている。彼女らであれば、子供をあやすことなど容易いだろう。そう思ってのことだった。
だが。
「貴様は?」
そこに、見慣れた騎士の姿はなかった。代わりに黒衣を纏った……森の闇に溶け込むような、青毛の馬を駆る青年が、額を擦り付けるようにしてこちらを覗き込んでいたのだ。伯爵は反射的に剣に手をかける。腕に覚えはあった。御前試合では必ず、決勝まで勝ち残る程の腕である。不埒者の一人くらい、そう思って扉に触れるが。
「無駄な抵抗はやめよ。御身のためだ」
玲瓏たる美声と同時に、馬車が止められる。件の青年が視線を動かすと、馬車の扉が大きく開かれた。女官の悲鳴が、皇女の泣き声にかき消される。
扉を開いた、これまた黒衣の少年が馬車の前で優雅に頭を下げ、
「遠いところを、ようこそ。お迎えに上がりました」
皇女を抱く女官に向かって口上を述べる。いつの間にか、皇女は泣き止んでいた。伯爵はゴクリとつばを飲み、黒衣の騎士と少年、次に皇女に目を向ける。皇女は涙に濡れた目をぱっちりと見開き、視線を感じたのか伯爵を凝視した。
「これは……」
皇女と目があった刹那、伯爵は声を失う。皇女の顔を覗き込んだ女官も、悲鳴を押し殺した。
黒衣の二人は、動きをとめた彼らを尻目に、皇女をあっさりと奪い取る。
「お見送り、ご苦労さまです。あなた方は、ここまで」
艶やかに笑う少年、その彼の服に縫いとられた紋章は、ランジュの大公家のものではなかった。無論、リュクリス帝室のものでも、メリザンドの実家であるエルマン侯爵家のものですらない。
剣に絡まる薔薇、その紋章を持つものは。
「……」
言葉を発することは、できなかった。アルバン伯爵の意識はそこで途切れ、二度と戻ることはなかったのだから。
後に帝国の行方不明事件として長く語られる、アルバン伯爵と下級女官ジル子爵夫人の道行き。皇女を捨てての逃避行の結末は、崖下に一行の馬車が転落しているのを狩猟の貴族が発見するまで、実に十数年間誰にも知られることはなかったのである。
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