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序章: 高級官僚箱入り娘は婦警を目指す

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「試験を開始して下さい」
 その一言を境に、講堂ほどの広さのある部屋の雰囲気は一気に変わった。
 張り詰めた緊張感が一気に爆ぜたかのように鳴り響く無数の筆音。
 その中でも特に一人、尋常ならぬ闘志を燃やす者があった。
「いよいよここまで来たんだ」
 桜井美里は鉛筆を握りしめ、『令和六年度警察官採用一次試験』と題された問題冊子の表紙をめくる。
 大学を卒業したら警察官を目指す。
 その夢を抱えながら過ごしてきた四年間。
 その懸け橋となるこの瞬間、彼女は全身全霊をもって試験に臨み――
 ――問題は、解けなかった。
(な、何よこれ~!?)
 1問目から解答欄が埋まらない。
 二次方程式の解を求めよ。
 たすき掛けで素因数分解を試みるが、組み合わせのパターンが多過ぎて回答に見当がつかない。
 やむなく解の公式により機械的に答えを導こうとするが――はて、分母は二次の係数と一次の係数のどちらだったか。
 うる覚えの記憶を頼りに計算を進めていたら、とんでもない数字が出てきた。
 平方根の中がマイナス。
 これって、どういうこと?
 やむなく一問目を飛ばして二問目に取り掛かる。
 幸いにして、二問目は文章題だった。
 次の五人の発言から、確実に真実を述べている者を記号で答えよ。
   A 「私は嘘をついていません」
   B 「Aは嘘をついています」
   C 「本当のことを言っているのはBとDです」
   D 「嘘をついている人間は二人います」
   E 「この中で本当のことを言っている人間はいません」
 いかにも警察官として現場で求められそうな判断推理だ。
 他人のウソを見抜くことには多少なりとも自信がある、と思う美里だったが――
(・・・・・・全然、わからない)
 彼女が他人のウソを見抜くというのは、しいて言えば人となりを頼りにするのだった。
 あの子は素直な子、アイツは平気でうそをつくいい加減な奴。
 そんなレッテルが美里のデータベースには記憶されていて、人間関係に関するすべての判断はそれに依拠したものだった。
 だがこうした問題はどうだろう。
 発言者は名前すらわからない記号名。
 誰が信頼できるかなど、わかるはずもない。
「そうよ、こいつよ!」
 美里が選んだ答えはA。なぜならこの中で最も信用できないのはBだから。
 仲間をウソつき呼ばわりする人間はすなわち自らも嘘を平気でつく。
 だからBが嘘と断じるAは正直者だという理屈だ。
 もちろん、本気で警察官になろうと思うなら、間違っても彼女と同じ答えは下してはならない。
 この問題に対する彼女の答えが、のちの美里の運命を決定づける伏線ということは、この際明らかにしておこう。
 
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