継承のエルキュリエ

アワビ専門店

文字の大きさ
上 下
2 / 92
序章: 暴君姫の落日

背徳の近衛兵

しおりを挟む
「ちっ、もう追手が」
ラキエは舌打ちすると、身を隠すために藪のできるだけ深い場所を探した。無駄のない動きで周囲を見回すラキエの視界を、疾走する影が横切る。
「兵士様、兵士様! 野盗です! どうか、我が子をお守りください!」
「待て! お前!!」
 ラキエの制止を振り切り、女は甲高く叫びながら兵士達に駆け寄った。月光を受けた白銀の磨き上げられた甲冑に青の軍服が遠目でも確認できた。グラウツ王国正規軍の中でも花形であり、国王の側近でもある彼らならば教養も豊かであり、無条件に自分達を庇護してくれる。女は咄嗟にそう思ったに違いない。ところが彼女が知らない近衛兵の影の一面をラキエは知っていた。煌びやかに見える王族直属の部隊は王宮を華やかに彩る反面、王族の恣意のままにどんな裏仕事も顔色一つ変えずにこなす影の私兵団でもあった。
「待て!」
 走る女の背中に向かって、ラキエは手を伸ばした。その先で、女に対面する兵士の一人が剣を振り上げた。ラキエは最悪の瞬間を想像したその直後のこと。
「やめろおぉ!!」
 ラキエの叫びも空しく、剣は唸りを上げて振り下ろされる。月明かりを受けた一閃が、女の頭上から腰の辺りまで刹那の間に流れた。女は悲鳴もなく、自分の身に起きたことが理解できない表情をしたまま、徐々に崩れ落ちた。
「何だ、コイツは? 王女派の残党か?」
 動かなくなった女を見下ろしながら兵士は吐き捨てるように言った。その手に握る剣は鮮血を滴らせていた。
「いえ、ただの農民の娘のようです」
 部下と思われる別の兵士が女の傍にかがみ、生死を確かめてから立ち上がった。
「まあ、いい。我らの姿を見た者は消せという命令だからな。それよりも――」
 兵士達の視線は女からラキエの方に一斉に移る。
「見苦しい逃避行などお止めになってはどうですかな? ラキエ王女」
 嘲弄するような声を浴びせられたラキエに向かって、幾筋もの剣尖が差し向けられる。
「赦しだと? 何ゆえに私がそのようなことをしなければならない?」
 ラキエは八重歯をむき出しにして怒りを顕にした。
「心外ですな。独断で王国と民を蔑ろにした罪を、大逆と呼ばず何と形容できましょうか?」
 一人だけ兜に羽飾りをつけた兵士が仰々しい態度で答えた。この部隊の小隊長の徴だ。
「ふざけるな! この身は全て、グラウツ王国の独立と恒久平和のためだけに捧げてきたのだ! それを大逆呼ばわりするお前達こそ不敬ではないか!」
「この場で議論する事柄ではございませぬ。王宮にて開廷される正当な裁判で続きを拝聴するとしましょう」
「正当だと? 嗤わせるな。そもそも私が裁判に掛けられる理由はないというのに」
「御身の潔白を証明できないということですか? 困りましたな。この国の法典はご存知のことと存じますが、我らの要求に従えない場合――」
しおりを挟む

処理中です...