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第1章 地球って何?
第5話 噂は湯気より早い
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監査二日目の朝。
掲示板に、見慣れない紙が一枚、貼られていた。
“湯たんぽで祖父の手が真っ赤。危険。使用中止を――匿名”
空気が少し冷たくなる。
ミナが小さく肩をすくめた。
「匿名、です……」
《真偽不明の指摘。放置は“恐れ”だけを増やします》
「剥がす?」
《公開で検証を。嘘は、光で薄まります》
私は紙を手に、井戸前の台に立った。
「この声、無視しない。今から検証する。見たい人は集まって」
途端に人垣ができる。ハナも、司祭も、役所のカーティスも来た。少し遅れて、灰の外套――巡回官オルセンと補佐官グレンも。
私は湯たんぽを二つ用意した。布が一重のものと、母が昨夜縫ってくれた二重カバーのもの。温度計を差し、時間を読み上げる。
「開始。五分後、十分快、十五――」
子どもが息を飲み、大人たちは腕を組む。
私は自分の手首にカバー越しに当てる。
「一重、熱い。長時間は不可。二重は“温かい”。幼児は必ず大人が見る」
温度計の数字を板に書く。
“直当て 5分で42度→危険/二重カバー 15分で38度→快適”
ミナが太い字でなぞる。
《補足:皮膚が薄い高齢者・幼児は短時間。寝るときは外す》
「三行要約」
《熱い・触るな・見てて》
「……便利だけど語彙が乱暴」
ハナが腕を広げた。
「数字は綺麗だね。で、匿名の貼り紙は?」
「残す。下に“検証結果”を付けて」
役所のカーティスが頷いた。
「いい。消さずに重ねるやり方は、後で揉めない」
補佐官グレンが、淡々と板を写し取る。
「記録、完了。匿名投書の受付箱を増設したい」
「作る。ミナ、箱ひとつ追加しよ」
「はいっ」
オルセンは相変わらず笑わない。けれど、人垣がほっと息を吐いた気配を、ちゃんと見ていた。
* * *
昼前、銀の鷹のランスが樽を担いで来た。
「山の小屋の爺さんどもが、湯たんぽ、えらく気に入ってな。追加八個、借りたいと」
「在庫、足りる?」
《残り四。――母への増産依頼を推奨》
「また頼るの?」
《家内制手工業は強いです》
ランスは樽を下ろして、低く続ける。
「それと。“悪い商人”が、地球と偽った粗悪品を売り歩いてるって噂が回り始めた。湯袋に熱湯直入れ、蓋が甘いやつだ」
「……最悪」
《“偽装”は監査の火種。即対応を》
私は顔を上げる。
「印を作る。“本物”を一目で分かるように。――神殿の刻印、借りてもいい?」
若い司祭が立ち聞きしていて、頷いた。
「節度の範囲で。印は“誓い”でもある」
ハナが素早く計算したように目を細める。
「刻印は偽造される。動く印にしな。日付か、色布の組み合わせとかね」
「じゃあ――今日の色は青。湯たんぽカバーの紐に青布を結ぶ。日替わりで変える」
《承認。記録を公開》
《本日の識別:青紐(神殿前掲示済)。偽装を見かけたら相談箱へ》
「相談は責めない。怒る前に、直す」
* * *
昼過ぎ。
掲示板の“評判(レビュー)板”に、星がいくつも増えた。
“祖母の膝が楽。★3。青紐かわいい”
“返却の布がありがたい。★3。拭くと気持ちが上がる”
“浄水器の蛇口、子が閉め忘れる。★2。注意札ほしい”
私は一枚一枚に返事を貼った。短く、嘘なく。
「注意札作ります」「拭き布の位置を変えます」
そこへ、鍛冶屋のオルゴじいさんが渋い顔で現れた。
「偽の湯袋、見た。口金が甘い。倒せば零れる」
「回収、できる?」
「見回ってやる。星を落とす前に止めろって書いとけ」
「じいさん、文章、強いね」
「年季だ」
《掲示更新:“偽装に注意。青紐=本日正規品。疑わしきは相談箱へ。怒る前に、知らせて”》
「語尾がやわらかいの、好き」
《交渉は“やわらかい刃物”が有効》
* * *
夕方。
レート更新の時間になると、人が自然に集まる。私は板の前で深呼吸。
「本日の数字、読み上げるね」
《本日のステータス》
・残ポイント:9→7(補充・部材購入で-2)
・本日のレート:銅貨105=SP1(昨日より*-5*。少し楽)
・貸出:湯たんぽ 18/カイロ 配布50/浄水器 常設
・返却:湯たんぽ 16(2は夜回収)
・苦情:1(“子の手が赤い”→対応済)
・提案:5(“青紐いい”“注意札を絵に”“夜間見回り”ほか)
・返品:不可(衛生・安全)
ハナが軽口をたたく。
「レートが下がる日は、星が増える日」
「そういう日も、ある」
オルセンの補佐官グレンが、人混みの端で手を挙げた。
「質問。素材変換のログ、公開できるか」
「できる」
《素材変換ログ:下級魔石×1→+5(昨日)/本日なし》
「魔石が足りないの。狩りは危ないし、買うと高い」
ランスが顎をさする。
「明日、山の見回りのついでに少し拾ってくる。対価は星三つでいい」
「星は通貨じゃないよ」
「じゃあ、温かいパンだ」
「交渉成立」
人々に笑いが走る。
母が持たせてくれた籠から、焼きたての小さなパンを出す。湯気が白くほどけ、空気が少し甘くなる。
「試食――じゃなくて、温まりです。手を汚したら、ここに布」
神殿の長が近づき、そっとパンを一つ取った。
「塩が良い。……心がほどける味だ」
* * *
夜。
“相談箱”を開けると、折り畳みの紙が一枚だけ、やけに軽かった。
“ごめんなさい。匿名の貼り紙、私です。祖父の手が赤くなって怖くて。今日の検証で分かった。二重カバーに変えます。怒らないで。星は三つ”
胸の奥が、じんわり温かくなる。
ミナが「よかった……」と小さく呟く。
私は返事を書いて、箱に戻した。
“怒らないよ。次は名前で。一緒に検証しよ”
その時、石畳に外套の影。
オルセンが立っていた。相変わらず笑わない。でも、声は少し柔らかい。
「二日目、合格。噂への対応、“検証”で返したのは正しい」
「ありがとうございます」
「ただし、偽装品。監査の視点から見ると、一番危険だ。事故が起きたら、“地球”全体の印象が落ちる」
「だから印を作った。明日は“動く印”を増やす。青の次は――」
「縞にしなさい。遠目でも見える」
思わず笑ってしまう。
「縞、ね。オルセンさん、意外と現場」
「私は現場の人間だ」
彼は視線だけで夜空を指した。
雲が速い。明日は雪かもしれない。
「雪なら、湯たんぽに星が増える」
「雪なら、事故も増える」
「……分かってる」
オルセンは踵を返し、短く告げた。
「三日目も見る。笑わないが、見ている」
灰の外套が、神殿の影に溶けた。
ジオが肩で小さく鳴る。
《明日の“識別”は青白縞で。母上に連絡します》
「お願い。――ねえジオ」
《はい》
「今日、私、ちゃんと大人だった?」
《大人は定義が多すぎます。ただ、逃げませんでした》
「それで十分、かな」
私は掲示板の下に、短い一行を追加した。
“怒る前に、見よう。疑う前に、測ろう。”
湯気はとっくに消えている。
でも、板の前には、まだ少し温かい空気が残っていた。
---
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掲示板に、見慣れない紙が一枚、貼られていた。
“湯たんぽで祖父の手が真っ赤。危険。使用中止を――匿名”
空気が少し冷たくなる。
ミナが小さく肩をすくめた。
「匿名、です……」
《真偽不明の指摘。放置は“恐れ”だけを増やします》
「剥がす?」
《公開で検証を。嘘は、光で薄まります》
私は紙を手に、井戸前の台に立った。
「この声、無視しない。今から検証する。見たい人は集まって」
途端に人垣ができる。ハナも、司祭も、役所のカーティスも来た。少し遅れて、灰の外套――巡回官オルセンと補佐官グレンも。
私は湯たんぽを二つ用意した。布が一重のものと、母が昨夜縫ってくれた二重カバーのもの。温度計を差し、時間を読み上げる。
「開始。五分後、十分快、十五――」
子どもが息を飲み、大人たちは腕を組む。
私は自分の手首にカバー越しに当てる。
「一重、熱い。長時間は不可。二重は“温かい”。幼児は必ず大人が見る」
温度計の数字を板に書く。
“直当て 5分で42度→危険/二重カバー 15分で38度→快適”
ミナが太い字でなぞる。
《補足:皮膚が薄い高齢者・幼児は短時間。寝るときは外す》
「三行要約」
《熱い・触るな・見てて》
「……便利だけど語彙が乱暴」
ハナが腕を広げた。
「数字は綺麗だね。で、匿名の貼り紙は?」
「残す。下に“検証結果”を付けて」
役所のカーティスが頷いた。
「いい。消さずに重ねるやり方は、後で揉めない」
補佐官グレンが、淡々と板を写し取る。
「記録、完了。匿名投書の受付箱を増設したい」
「作る。ミナ、箱ひとつ追加しよ」
「はいっ」
オルセンは相変わらず笑わない。けれど、人垣がほっと息を吐いた気配を、ちゃんと見ていた。
* * *
昼前、銀の鷹のランスが樽を担いで来た。
「山の小屋の爺さんどもが、湯たんぽ、えらく気に入ってな。追加八個、借りたいと」
「在庫、足りる?」
《残り四。――母への増産依頼を推奨》
「また頼るの?」
《家内制手工業は強いです》
ランスは樽を下ろして、低く続ける。
「それと。“悪い商人”が、地球と偽った粗悪品を売り歩いてるって噂が回り始めた。湯袋に熱湯直入れ、蓋が甘いやつだ」
「……最悪」
《“偽装”は監査の火種。即対応を》
私は顔を上げる。
「印を作る。“本物”を一目で分かるように。――神殿の刻印、借りてもいい?」
若い司祭が立ち聞きしていて、頷いた。
「節度の範囲で。印は“誓い”でもある」
ハナが素早く計算したように目を細める。
「刻印は偽造される。動く印にしな。日付か、色布の組み合わせとかね」
「じゃあ――今日の色は青。湯たんぽカバーの紐に青布を結ぶ。日替わりで変える」
《承認。記録を公開》
《本日の識別:青紐(神殿前掲示済)。偽装を見かけたら相談箱へ》
「相談は責めない。怒る前に、直す」
* * *
昼過ぎ。
掲示板の“評判(レビュー)板”に、星がいくつも増えた。
“祖母の膝が楽。★3。青紐かわいい”
“返却の布がありがたい。★3。拭くと気持ちが上がる”
“浄水器の蛇口、子が閉め忘れる。★2。注意札ほしい”
私は一枚一枚に返事を貼った。短く、嘘なく。
「注意札作ります」「拭き布の位置を変えます」
そこへ、鍛冶屋のオルゴじいさんが渋い顔で現れた。
「偽の湯袋、見た。口金が甘い。倒せば零れる」
「回収、できる?」
「見回ってやる。星を落とす前に止めろって書いとけ」
「じいさん、文章、強いね」
「年季だ」
《掲示更新:“偽装に注意。青紐=本日正規品。疑わしきは相談箱へ。怒る前に、知らせて”》
「語尾がやわらかいの、好き」
《交渉は“やわらかい刃物”が有効》
* * *
夕方。
レート更新の時間になると、人が自然に集まる。私は板の前で深呼吸。
「本日の数字、読み上げるね」
《本日のステータス》
・残ポイント:9→7(補充・部材購入で-2)
・本日のレート:銅貨105=SP1(昨日より*-5*。少し楽)
・貸出:湯たんぽ 18/カイロ 配布50/浄水器 常設
・返却:湯たんぽ 16(2は夜回収)
・苦情:1(“子の手が赤い”→対応済)
・提案:5(“青紐いい”“注意札を絵に”“夜間見回り”ほか)
・返品:不可(衛生・安全)
ハナが軽口をたたく。
「レートが下がる日は、星が増える日」
「そういう日も、ある」
オルセンの補佐官グレンが、人混みの端で手を挙げた。
「質問。素材変換のログ、公開できるか」
「できる」
《素材変換ログ:下級魔石×1→+5(昨日)/本日なし》
「魔石が足りないの。狩りは危ないし、買うと高い」
ランスが顎をさする。
「明日、山の見回りのついでに少し拾ってくる。対価は星三つでいい」
「星は通貨じゃないよ」
「じゃあ、温かいパンだ」
「交渉成立」
人々に笑いが走る。
母が持たせてくれた籠から、焼きたての小さなパンを出す。湯気が白くほどけ、空気が少し甘くなる。
「試食――じゃなくて、温まりです。手を汚したら、ここに布」
神殿の長が近づき、そっとパンを一つ取った。
「塩が良い。……心がほどける味だ」
* * *
夜。
“相談箱”を開けると、折り畳みの紙が一枚だけ、やけに軽かった。
“ごめんなさい。匿名の貼り紙、私です。祖父の手が赤くなって怖くて。今日の検証で分かった。二重カバーに変えます。怒らないで。星は三つ”
胸の奥が、じんわり温かくなる。
ミナが「よかった……」と小さく呟く。
私は返事を書いて、箱に戻した。
“怒らないよ。次は名前で。一緒に検証しよ”
その時、石畳に外套の影。
オルセンが立っていた。相変わらず笑わない。でも、声は少し柔らかい。
「二日目、合格。噂への対応、“検証”で返したのは正しい」
「ありがとうございます」
「ただし、偽装品。監査の視点から見ると、一番危険だ。事故が起きたら、“地球”全体の印象が落ちる」
「だから印を作った。明日は“動く印”を増やす。青の次は――」
「縞にしなさい。遠目でも見える」
思わず笑ってしまう。
「縞、ね。オルセンさん、意外と現場」
「私は現場の人間だ」
彼は視線だけで夜空を指した。
雲が速い。明日は雪かもしれない。
「雪なら、湯たんぽに星が増える」
「雪なら、事故も増える」
「……分かってる」
オルセンは踵を返し、短く告げた。
「三日目も見る。笑わないが、見ている」
灰の外套が、神殿の影に溶けた。
ジオが肩で小さく鳴る。
《明日の“識別”は青白縞で。母上に連絡します》
「お願い。――ねえジオ」
《はい》
「今日、私、ちゃんと大人だった?」
《大人は定義が多すぎます。ただ、逃げませんでした》
「それで十分、かな」
私は掲示板の下に、短い一行を追加した。
“怒る前に、見よう。疑う前に、測ろう。”
湯気はとっくに消えている。
でも、板の前には、まだ少し温かい空気が残っていた。
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