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12話 外港の喉をやさしく塞ぐ- 逆相潰し、非破壊で ー」
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外港は港本体より暗い。灯は節約、風は真横、波は硬い。杭の列が黒い歯みたいに並び、潮がその歯の隙間で鳴く。
「緊張してる?」
「してる。けど撫では軽い」
《撫でログ:十五》
小舟を杭の陰に滑り込ませ、俺は【遮音毛】を薄く重ねた。外→内へ三層の斜め。足音は波の拍と重ねて歩く。
「風下から入る」
「了解」
薄影は仮面の口元を押さえて笑い、リナは短剣の背で弦を弾くみたいに呼吸を整えた。クーは尾で舟べりを叩き、舟歌の代わりの合図を二回。
外港の堤は石と木が交互だ。木の部分は足音が若い、石は古い。若い音は跳ねる。古い音は沈む。俺は沈むところを選ぶ。
《足場選択:沈→沈→跳→沈》
目当ての小屋は防波の外れにあった。屋根に錆びた板、壁は半分が網と浮き。扉の脇に丸い金属の孔。
《裏返し口:発見》
「これが“逃げ道”?」
「うん。逆相潰しが止める前に、微を裏へ通す穴」
小屋の中は狭い。中央に円筒、その周りに薄い板が花びらみたいに並び、潮の上下で回る仕掛け。円筒の端に笛みたいな管が三本。
《逆相車:潮駆動/位相板:低・中・微/微は遅延》
「白衣の図面どおり」
「遅延の分だけ、貼り微が間に合う」
俺は【撥油毛】で管の内側に薄く滑りを作る。微は滑り台が好きだ。次に【弦毛】で低を短く、【鰭毛】で前に押して、遅れて来る微の座を一つずらす。
「半拍、後ろ」
《二重送波:先回り+後打ち》
逆相車の羽根が嫌がるみたいにきしみ、次の瞬間、音は小さく咳払いしたように途切れた。止まったわけじゃない。止め“すぎない”ことが大事。
外から靴音。黒布の刺繍――嘴。二人、そして荷役のふりをした一人。
《小隊:二+一(偽装)》
「どうする?」
「案内してもらおう」
薄影が小屋の影を出て、にこりと仮面を傾けた。「監査。手短に」
「聞いてないぞ」
「聞いてない、はよく聞く」
《港あるある》
俺は【吸着毛】で床の砂鳴りを拾い、壁の古い合図札に貼った。砂は札の線に沿って鳴く。足音の乱れは、こちらの合図に合わせて“おとなしく”なる。
「落ち着いたね」
「落ち着いた“ふり”」
《偽装:成功》
黒嘴の一人が工具箱を置き、逆相車の側板を開けた。中から出てきたのは、微を潰すための薄い骨車――骨のように細い輪が三段。
「触るなよ」
「触らない。見るだけ」
俺は【弦毛】で骨車の“鳴き”を舐め、【吸収】で薄い匂い線だけを抜き取る。オイルは安い、組みは粗い。つまり、強くはない。
「ところで」薄影が言う。「点検票」
「……」
リナが荷札をひょいと持ち上げた。「この切り込み、王都工房の様式と違うね」
《偽札:疑い》
俺は【撥油毛】で札の縁に極薄のオイルを塗り、光で“浮かせる”。本物なら沈む、偽なら浮く。
「浮いた」
「偽」
《決定》
黒嘴の肩がこわばった。手は懐へ――笛か。俺は一歩踏み出し、【遮音毛】を黒嘴の手元だけに濃くかけた。笛の鳴きは指の中に閉じ込められて外へ出ない。
「今は静かに」
リナの短剣の“背”が手首をはたき、クーが尻尾で足を払う。こてん、と転んだところで薄影が縄をかけた。
《非致傷:完了》
残った偽装の一人は小屋の裏手へ逃げる。そこには……犬。港で煎餅をねだった、あの犬だ。俺はポケットから塩煎餅を一枚出す。
「交渉」
犬は吠えずに袋を見、逃げかけた男の道をふさぐ。そして俺の手から煎餅を上品に受け取った。
《撫でログ:十五→十六(+犬)》
「いい子」
「きゅ」
逆相車の調整に戻る。ここからが本番だ。潰しの骨車は三段――低と中は強いが、微は遅い。遅いなら、置き場所をずらす。
俺は【鰭毛】を二手に分け、先回りで“座”を作り、後打ちで“矢印”を置く。貼り微の角度は白衣の三角どおり。結果、微は潰されずに裏返し口へ逃げる。
《効果:逆相潰し→無力化(非破壊)》
「壊さないんだ」リナがささやく。
「港の耳は残す。止め方だけ変える」
「倫理」
《うむ》
偽札の束から送り先を読む。外港から待機舟、待機舟から沖の“集荷母船”。そこに“冷香壺”。海の線の本丸は、やっぱり沖だ。
《ルート:外港→待機舟→母船》
小屋の外で風がひゅうと鳴る。潮が高い。長くは居られない。
「監査印、貼る?」
「貼る。けど見せる相手は選ぶ」
俺は【弦毛】で短い低を二つ送り、逆相車を“監査モード”へ折り返した。一般の合図では動かない。衛士の刻印でだけ動く。
犬が鼻先で俺の手をつつく。まだ煎餅が欲しいらしい。俺は小さく割ってもう一欠片渡した。
「撫でに含まれる?」
《含む(犬)》
「いい定義」
黒嘴を縛った縄の結び目を確認し、薄影が小屋の扉に封緘札を貼った。紙の角はしっかり尖っている。尖っていても、柔らかい。
「外港の線、切断」
「次は待機舟」
《作戦:喉帯 海-三(舟)》
撤収の前に、もう一つだけ。俺は骨車の側面に小さな印を残した。丸に短い矢印――“戻す印”。誰かが無茶をした時に、音を止める目安になる。
《停止印:設置》
堤の外へ出ると、霧が低く降りてきた。風は少し曲がり、波の拍は遅くなる。夜の港は、静かに“始まっている”。
「行こう」
「うん」
俺たちは舟に戻り、杭の影を抜けて、沖の黒い起伏へ舳先を向けた。
待機舟は外港の北寄り、風下に隠れるのが常だ。薄影が地図に指を置く。
「巡回は二刻半。荷の上げ下ろしはその間の中頃」
「じゃあ、そこで割り込む」
《割込点:風下→船腹→甲板》
俺は【撥油毛】で手のひらに薄膜を作り、水をはじく。クーは膜の端を舐めて、浮力を確かめた。
白衣から借りた薄い三角定規みたいな“微板”を取り出す。角度は三つ――浅、並、深。深は危ない。今日は並。
「強すぎないほうが、伝わる」
「撫での基本」
《やさしさ=効率》
港衛士が外港の端で短い笛を二度。合図は静かで、でも遠くまで届く。
「行ってこい」
「行ってきます」
俺は胸の奥で低を一つ鳴らし、微を細く結んだ。音は見えない綱。綱は強く張らず、たわみを残す。
堤の上を黒嘴の見張りが通る。靴底は厚く、音は鈍い。鈍い音は遠くに届かない。だから、怖くない。
「撫でる?」
「撫でない」
《節約》
小屋の外の水面に、小さな浮き輪が二つ流れていく。誰かの夜釣り。糸が夜風に鳴って、二度だけ高い音を置いた。俺はその音を“道しるべ”にする。
逆相車の側板には小さな刻印がいくつも刻まれていた。職人が残した合図――矢印、点、短い線。俺はそれを順に指でなぞり、音の通り道を頭の中で組み替える。
「ここで低が前に、ここで微が遅れる」
「目で見えるの?」
「指が覚える。撫では、手のほうが賢い」
《指記憶》
骨車の軸は海水で膨らんだ木に刺さっていた。乾くと縮み、濡れると膨らむ。日によって鳴きが変わる。俺は【撥油毛】で軸の片側だけに膜を置き、片減りの音を均した。
「片方だけ?」
「両方に置くと、止め過ぎる」
《過度禁止》
「取引しよう」偽装荷役が懐から小袋を出した。中で金属が触れ合う音。軽い。
「それ、薄いね」
「見逃してくれれば」
「パンのほうが重い」
俺がそう言うと、薄影が肩を震わせ、リナが真顔で頷いた。クーは袋の匂いを嗅いで、一歩だけ後ずさる。
《価値基準:塩・パン・倫理》
小屋の梁に古い札が貼られていた。“鳴り続けるものは、いつか壊れる”。鐘守の字だろう。俺はその札に掌を当て、短く深呼吸をした。胸の中の低は、落ち着ける薬みたいだ。
《呼吸=低》
外で鎖がこすれる音。錨鎖が潮で伸び、金属の歯が互いを噛む。俺は【吸着毛】を細く伸ばして鎖の接触点に触れ、鳴きの角を丸くした。音は怒らず、ただ息をする。
「便利」
「撫では音を怒らせない」
「撫での三原則、教えて」リナが言う。
「一、正面から押さない。二、戻し方を先に決める。三、強いより、届くほうがいい」
「覚えた」
《三原則》
堤の肩で、猫が一匹こちらを見ていた。目は灯の色を反射し、尻尾は杭の影に消える。クーがそっと尾を振ると、猫は欠伸をして、見張りの足音に合わせて体を伸ばした。
「敵?」
「味方でもない」
《中立》
封緘札は薄影の手元から出てきた。角がきっちり四十五度、紙は少し厚い。薄影は糊ではなく、【撥油毛】で紙の繊維を整えてから貼る。剥がすときだけ、静かに剥がれる。
「乱暴に剥がすと音が立つ」
「乱暴は、嫌い」
白衣の学者が書いた注釈を思い出す。“微は時間の器。遅らせれば、やさしくなる。急がせれば、鋭くなる”。俺は器を広げるほうを選ぶ。
《設計思想:やさしさ優先》
遠くで霧鐘が一度だけ鳴った。低い一。すぐに返事の微が薄く続く。港は起きていて、でも眠ってもいる。そのあわいで仕事をするのが俺たちのやり方だ。
「眠い?」
「すこし」
「パン」
《復活》
撤収の手順は短い。工具は触らない、印は残す、戻しの合図を必ず打つ。俺は骨車の影に小さな三角を描き、音路の矢印をほんの少しだけ浅く直した。誰かが無茶をしても、戻りやすいように。
《フェイルセーフ》
杭の影から舟に戻る途中、波が板を叩いて、小さな飛沫が頬にかかった。塩は軽く、眠気はそこだけ剥がれる。俺は【弦毛】でその拍子に短い低を重ね、今夜のテンポを胸に記録した。
《テンポ:波 四→四→三》
沖の黒い起伏の向こうに、ぼんやりした影が見えた。待機舟だろう。風下に頭を向け、帆はたたまれ、甲板には低い荷の影。
「次、どう入る?」
「正面から行かない。低い線で包んで、撫でで角を丸めて、やさしく取る」
「やさしく」
《合言葉》
裏返し口の内側は、意外と滑らかだった。職人が指で磨いた跡があり、角は丸い。俺は【撥油毛】でその丸みをなぞり、薄い膜をかぶせる。膜は音の雨具。強い雨は弾き、細い霧は通す。
「ここ、誰の手?」
「港の誰か。信じたい手」
《見えない職人》
巡回の足音が近づく。俺は【遮音毛】で小屋の内側に半球を作った。音が外へ出ない、でも息は苦しくならない薄い層。薄影が指で三拍子、リナが二拍子。俺は一拍おくれ。
「ずらす理由?」
「全部が同じだと、揃って見える」
《ズラし=安全》
波の陰から、小さな櫂の音。巡回の小舟だ。灯は落とし、耳だけで進む。俺も耳で数える。櫂の入る角度、返す角度、沈む音の深さ。数は少なく、リズムはまじめ。真面目な舟は、無茶をしない。
「通り過ぎる?」
「通り過ぎる」
小舟は影のまま、霧の向こうへ消えた。
「指温、押した?」薄影。
「押した」
監査の合図帳は外港の端にある小さな箱だ。扉は薄い金属、触るとひやり。指で押すと、温度の変化がゆっくり印になる。俺は灯台で覚えた通りに短い低を胸で打ち、箱を閉じた。
《責任の印》
昔のことを思い出す。前世、深夜のビルで清掃用のワックス機が鳴らす低い音に、なぜか安心した。一定で、やさしくて、誰の言葉でもないのに、人を休ませる音だった。
「似てる?」
「似てる。港の低も、人を休ませる」
「だから使い方」
《倫理:反復》
薄影が歩き方の練習を始める。三歩まじめ、四歩ふざけ、二歩まじめ。ふざけると言っても肩を一ミリ落とすだけ。リナは笑いを肩の奥で我慢し、クーは堂々と尻尾で拍を取る。
「真面目すぎると、目立つ」
「ふざけすぎると、もっと目立つ」
《中庸》
外港の端にある古い飲み水の樋から、細い水が落ちていた。石の受け皿は浅く、底には小さな貝。水が貝を叩くと、かすかな微が立つ。俺は指を濡らし、その微を借りた。
「借用?」
「返す」
《借りて返す》
黒嘴の縄を持つ手が重くなってきた。薄影は結び目を確認し、結い目に短い低を一つ打った。ほどけにくくなる迷信みたいな手順。でも、効く。
「昔の猟師のやり方」
「合理」
撤収の直前、俺はもう一度だけ骨車の鳴きを確かめた。遅れてくる微は裏返し口へ吸い込まれ、表の笛は静かに息を止める。止め続けるのではない。必要なときだけ止められる。
「よし」
《監査モード:継続》
堤を離れる。海は黒と銀のまだら、灯は点の行列。俺たちは行列から少しだけ外れて、しかし同じ方向へ進んだ。
低い一を胸に、微を指先に。戻しの印は、いつでも取り出せる場所に。
俺たちは舳先を沖の影へ向け、低を一つ、微を細く、そして戻しの印を胸に置いた。やさしく、でも確かに。
《海図更新:外港=静、次:待機舟=動》
「緊張してる?」
「してる。けど撫では軽い」
《撫でログ:十五》
小舟を杭の陰に滑り込ませ、俺は【遮音毛】を薄く重ねた。外→内へ三層の斜め。足音は波の拍と重ねて歩く。
「風下から入る」
「了解」
薄影は仮面の口元を押さえて笑い、リナは短剣の背で弦を弾くみたいに呼吸を整えた。クーは尾で舟べりを叩き、舟歌の代わりの合図を二回。
外港の堤は石と木が交互だ。木の部分は足音が若い、石は古い。若い音は跳ねる。古い音は沈む。俺は沈むところを選ぶ。
《足場選択:沈→沈→跳→沈》
目当ての小屋は防波の外れにあった。屋根に錆びた板、壁は半分が網と浮き。扉の脇に丸い金属の孔。
《裏返し口:発見》
「これが“逃げ道”?」
「うん。逆相潰しが止める前に、微を裏へ通す穴」
小屋の中は狭い。中央に円筒、その周りに薄い板が花びらみたいに並び、潮の上下で回る仕掛け。円筒の端に笛みたいな管が三本。
《逆相車:潮駆動/位相板:低・中・微/微は遅延》
「白衣の図面どおり」
「遅延の分だけ、貼り微が間に合う」
俺は【撥油毛】で管の内側に薄く滑りを作る。微は滑り台が好きだ。次に【弦毛】で低を短く、【鰭毛】で前に押して、遅れて来る微の座を一つずらす。
「半拍、後ろ」
《二重送波:先回り+後打ち》
逆相車の羽根が嫌がるみたいにきしみ、次の瞬間、音は小さく咳払いしたように途切れた。止まったわけじゃない。止め“すぎない”ことが大事。
外から靴音。黒布の刺繍――嘴。二人、そして荷役のふりをした一人。
《小隊:二+一(偽装)》
「どうする?」
「案内してもらおう」
薄影が小屋の影を出て、にこりと仮面を傾けた。「監査。手短に」
「聞いてないぞ」
「聞いてない、はよく聞く」
《港あるある》
俺は【吸着毛】で床の砂鳴りを拾い、壁の古い合図札に貼った。砂は札の線に沿って鳴く。足音の乱れは、こちらの合図に合わせて“おとなしく”なる。
「落ち着いたね」
「落ち着いた“ふり”」
《偽装:成功》
黒嘴の一人が工具箱を置き、逆相車の側板を開けた。中から出てきたのは、微を潰すための薄い骨車――骨のように細い輪が三段。
「触るなよ」
「触らない。見るだけ」
俺は【弦毛】で骨車の“鳴き”を舐め、【吸収】で薄い匂い線だけを抜き取る。オイルは安い、組みは粗い。つまり、強くはない。
「ところで」薄影が言う。「点検票」
「……」
リナが荷札をひょいと持ち上げた。「この切り込み、王都工房の様式と違うね」
《偽札:疑い》
俺は【撥油毛】で札の縁に極薄のオイルを塗り、光で“浮かせる”。本物なら沈む、偽なら浮く。
「浮いた」
「偽」
《決定》
黒嘴の肩がこわばった。手は懐へ――笛か。俺は一歩踏み出し、【遮音毛】を黒嘴の手元だけに濃くかけた。笛の鳴きは指の中に閉じ込められて外へ出ない。
「今は静かに」
リナの短剣の“背”が手首をはたき、クーが尻尾で足を払う。こてん、と転んだところで薄影が縄をかけた。
《非致傷:完了》
残った偽装の一人は小屋の裏手へ逃げる。そこには……犬。港で煎餅をねだった、あの犬だ。俺はポケットから塩煎餅を一枚出す。
「交渉」
犬は吠えずに袋を見、逃げかけた男の道をふさぐ。そして俺の手から煎餅を上品に受け取った。
《撫でログ:十五→十六(+犬)》
「いい子」
「きゅ」
逆相車の調整に戻る。ここからが本番だ。潰しの骨車は三段――低と中は強いが、微は遅い。遅いなら、置き場所をずらす。
俺は【鰭毛】を二手に分け、先回りで“座”を作り、後打ちで“矢印”を置く。貼り微の角度は白衣の三角どおり。結果、微は潰されずに裏返し口へ逃げる。
《効果:逆相潰し→無力化(非破壊)》
「壊さないんだ」リナがささやく。
「港の耳は残す。止め方だけ変える」
「倫理」
《うむ》
偽札の束から送り先を読む。外港から待機舟、待機舟から沖の“集荷母船”。そこに“冷香壺”。海の線の本丸は、やっぱり沖だ。
《ルート:外港→待機舟→母船》
小屋の外で風がひゅうと鳴る。潮が高い。長くは居られない。
「監査印、貼る?」
「貼る。けど見せる相手は選ぶ」
俺は【弦毛】で短い低を二つ送り、逆相車を“監査モード”へ折り返した。一般の合図では動かない。衛士の刻印でだけ動く。
犬が鼻先で俺の手をつつく。まだ煎餅が欲しいらしい。俺は小さく割ってもう一欠片渡した。
「撫でに含まれる?」
《含む(犬)》
「いい定義」
黒嘴を縛った縄の結び目を確認し、薄影が小屋の扉に封緘札を貼った。紙の角はしっかり尖っている。尖っていても、柔らかい。
「外港の線、切断」
「次は待機舟」
《作戦:喉帯 海-三(舟)》
撤収の前に、もう一つだけ。俺は骨車の側面に小さな印を残した。丸に短い矢印――“戻す印”。誰かが無茶をした時に、音を止める目安になる。
《停止印:設置》
堤の外へ出ると、霧が低く降りてきた。風は少し曲がり、波の拍は遅くなる。夜の港は、静かに“始まっている”。
「行こう」
「うん」
俺たちは舟に戻り、杭の影を抜けて、沖の黒い起伏へ舳先を向けた。
待機舟は外港の北寄り、風下に隠れるのが常だ。薄影が地図に指を置く。
「巡回は二刻半。荷の上げ下ろしはその間の中頃」
「じゃあ、そこで割り込む」
《割込点:風下→船腹→甲板》
俺は【撥油毛】で手のひらに薄膜を作り、水をはじく。クーは膜の端を舐めて、浮力を確かめた。
白衣から借りた薄い三角定規みたいな“微板”を取り出す。角度は三つ――浅、並、深。深は危ない。今日は並。
「強すぎないほうが、伝わる」
「撫での基本」
《やさしさ=効率》
港衛士が外港の端で短い笛を二度。合図は静かで、でも遠くまで届く。
「行ってこい」
「行ってきます」
俺は胸の奥で低を一つ鳴らし、微を細く結んだ。音は見えない綱。綱は強く張らず、たわみを残す。
堤の上を黒嘴の見張りが通る。靴底は厚く、音は鈍い。鈍い音は遠くに届かない。だから、怖くない。
「撫でる?」
「撫でない」
《節約》
小屋の外の水面に、小さな浮き輪が二つ流れていく。誰かの夜釣り。糸が夜風に鳴って、二度だけ高い音を置いた。俺はその音を“道しるべ”にする。
逆相車の側板には小さな刻印がいくつも刻まれていた。職人が残した合図――矢印、点、短い線。俺はそれを順に指でなぞり、音の通り道を頭の中で組み替える。
「ここで低が前に、ここで微が遅れる」
「目で見えるの?」
「指が覚える。撫では、手のほうが賢い」
《指記憶》
骨車の軸は海水で膨らんだ木に刺さっていた。乾くと縮み、濡れると膨らむ。日によって鳴きが変わる。俺は【撥油毛】で軸の片側だけに膜を置き、片減りの音を均した。
「片方だけ?」
「両方に置くと、止め過ぎる」
《過度禁止》
「取引しよう」偽装荷役が懐から小袋を出した。中で金属が触れ合う音。軽い。
「それ、薄いね」
「見逃してくれれば」
「パンのほうが重い」
俺がそう言うと、薄影が肩を震わせ、リナが真顔で頷いた。クーは袋の匂いを嗅いで、一歩だけ後ずさる。
《価値基準:塩・パン・倫理》
小屋の梁に古い札が貼られていた。“鳴り続けるものは、いつか壊れる”。鐘守の字だろう。俺はその札に掌を当て、短く深呼吸をした。胸の中の低は、落ち着ける薬みたいだ。
《呼吸=低》
外で鎖がこすれる音。錨鎖が潮で伸び、金属の歯が互いを噛む。俺は【吸着毛】を細く伸ばして鎖の接触点に触れ、鳴きの角を丸くした。音は怒らず、ただ息をする。
「便利」
「撫では音を怒らせない」
「撫での三原則、教えて」リナが言う。
「一、正面から押さない。二、戻し方を先に決める。三、強いより、届くほうがいい」
「覚えた」
《三原則》
堤の肩で、猫が一匹こちらを見ていた。目は灯の色を反射し、尻尾は杭の影に消える。クーがそっと尾を振ると、猫は欠伸をして、見張りの足音に合わせて体を伸ばした。
「敵?」
「味方でもない」
《中立》
封緘札は薄影の手元から出てきた。角がきっちり四十五度、紙は少し厚い。薄影は糊ではなく、【撥油毛】で紙の繊維を整えてから貼る。剥がすときだけ、静かに剥がれる。
「乱暴に剥がすと音が立つ」
「乱暴は、嫌い」
白衣の学者が書いた注釈を思い出す。“微は時間の器。遅らせれば、やさしくなる。急がせれば、鋭くなる”。俺は器を広げるほうを選ぶ。
《設計思想:やさしさ優先》
遠くで霧鐘が一度だけ鳴った。低い一。すぐに返事の微が薄く続く。港は起きていて、でも眠ってもいる。そのあわいで仕事をするのが俺たちのやり方だ。
「眠い?」
「すこし」
「パン」
《復活》
撤収の手順は短い。工具は触らない、印は残す、戻しの合図を必ず打つ。俺は骨車の影に小さな三角を描き、音路の矢印をほんの少しだけ浅く直した。誰かが無茶をしても、戻りやすいように。
《フェイルセーフ》
杭の影から舟に戻る途中、波が板を叩いて、小さな飛沫が頬にかかった。塩は軽く、眠気はそこだけ剥がれる。俺は【弦毛】でその拍子に短い低を重ね、今夜のテンポを胸に記録した。
《テンポ:波 四→四→三》
沖の黒い起伏の向こうに、ぼんやりした影が見えた。待機舟だろう。風下に頭を向け、帆はたたまれ、甲板には低い荷の影。
「次、どう入る?」
「正面から行かない。低い線で包んで、撫でで角を丸めて、やさしく取る」
「やさしく」
《合言葉》
裏返し口の内側は、意外と滑らかだった。職人が指で磨いた跡があり、角は丸い。俺は【撥油毛】でその丸みをなぞり、薄い膜をかぶせる。膜は音の雨具。強い雨は弾き、細い霧は通す。
「ここ、誰の手?」
「港の誰か。信じたい手」
《見えない職人》
巡回の足音が近づく。俺は【遮音毛】で小屋の内側に半球を作った。音が外へ出ない、でも息は苦しくならない薄い層。薄影が指で三拍子、リナが二拍子。俺は一拍おくれ。
「ずらす理由?」
「全部が同じだと、揃って見える」
《ズラし=安全》
波の陰から、小さな櫂の音。巡回の小舟だ。灯は落とし、耳だけで進む。俺も耳で数える。櫂の入る角度、返す角度、沈む音の深さ。数は少なく、リズムはまじめ。真面目な舟は、無茶をしない。
「通り過ぎる?」
「通り過ぎる」
小舟は影のまま、霧の向こうへ消えた。
「指温、押した?」薄影。
「押した」
監査の合図帳は外港の端にある小さな箱だ。扉は薄い金属、触るとひやり。指で押すと、温度の変化がゆっくり印になる。俺は灯台で覚えた通りに短い低を胸で打ち、箱を閉じた。
《責任の印》
昔のことを思い出す。前世、深夜のビルで清掃用のワックス機が鳴らす低い音に、なぜか安心した。一定で、やさしくて、誰の言葉でもないのに、人を休ませる音だった。
「似てる?」
「似てる。港の低も、人を休ませる」
「だから使い方」
《倫理:反復》
薄影が歩き方の練習を始める。三歩まじめ、四歩ふざけ、二歩まじめ。ふざけると言っても肩を一ミリ落とすだけ。リナは笑いを肩の奥で我慢し、クーは堂々と尻尾で拍を取る。
「真面目すぎると、目立つ」
「ふざけすぎると、もっと目立つ」
《中庸》
外港の端にある古い飲み水の樋から、細い水が落ちていた。石の受け皿は浅く、底には小さな貝。水が貝を叩くと、かすかな微が立つ。俺は指を濡らし、その微を借りた。
「借用?」
「返す」
《借りて返す》
黒嘴の縄を持つ手が重くなってきた。薄影は結び目を確認し、結い目に短い低を一つ打った。ほどけにくくなる迷信みたいな手順。でも、効く。
「昔の猟師のやり方」
「合理」
撤収の直前、俺はもう一度だけ骨車の鳴きを確かめた。遅れてくる微は裏返し口へ吸い込まれ、表の笛は静かに息を止める。止め続けるのではない。必要なときだけ止められる。
「よし」
《監査モード:継続》
堤を離れる。海は黒と銀のまだら、灯は点の行列。俺たちは行列から少しだけ外れて、しかし同じ方向へ進んだ。
低い一を胸に、微を指先に。戻しの印は、いつでも取り出せる場所に。
俺たちは舳先を沖の影へ向け、低を一つ、微を細く、そして戻しの印を胸に置いた。やさしく、でも確かに。
《海図更新:外港=静、次:待機舟=動》
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原則として、毎週月曜日20時に投稿予定です。
男女比1対5000世界で俺はどうすれバインダー…
アルファカッター
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ひょんな事から男女比1対5000の世界に移動した学生の忠野タケル。
そこで生活していく内に色々なトラブルや問題に巻き込まれながら生活していくものがたりである!
セーブポイント転生 ~寿命が無い石なので千年修行したらレベル上限突破してしまった~
空色蜻蛉
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枢は目覚めるとクリスタルの中で魂だけの状態になっていた。どうやらダンジョンのセーブポイントに転生してしまったらしい。身動きできない状態に悲嘆に暮れた枢だが、やがて開き直ってレベルアップ作業に明け暮れることにした。百年経ち、二百年経ち……やがて国の礎である「聖なるクリスタル」として崇められるまでになる。
もう元の世界に戻れないと腹をくくって自分の国を見守る枢だが、千年経った時、衝撃のどんでん返しが待ち受けていて……。
【お知らせ】6/22 完結しました!
巻き込まれ召喚・途中下車~幼女神の加護でチート?
サクラ近衛将監
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商社勤務の社会人一年生リューマが、偶然、勇者候補のヤンキーな連中の近くに居たことから、一緒に巻き込まれて異世界へ強制的に召喚された。万が一そのまま召喚されれば勇者候補ではないために何の力も与えられず悲惨な結末を迎える恐れが多分にあったのだが、その召喚に気づいた被召喚側世界(地球)の神様と召喚側世界(異世界)の神様である幼女神のお陰で助けられて、一旦狭間の世界に留め置かれ、改めて幼女神の加護等を貰ってから、異世界ではあるものの召喚場所とは異なる場所に無事に転移を果たすことができた。リューマは、幼女神の加護と付与された能力のおかげでチートな成長が促され、紆余曲折はありながらも異世界生活を満喫するために生きて行くことになる。
*この作品は「カクヨム」様にも投稿しています。
**週1(土曜日午後9時)の投稿を予定しています。**
農民レベル99 天候と大地を操り世界最強
九頭七尾
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【農民】という天職を授かり、憧れていた戦士の夢を断念した少年ルイス。
仕方なく故郷の村で農業に従事し、十二年が経ったある日のこと、新しく就任したばかりの代官が訊ねてきて――
「何だあの巨大な大根は? 一体どうやって収穫するのだ?」
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「一帯の小麦が一瞬で刈り取られた!? 何をしたのだ!?」
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その代官の勧めで、ルイスは冒険者になることに。
日々の農作業(?)を通し、最強の戦士に成長していた彼は、最年長ルーキーとして次々と規格外の戦果を挙げていくのだった。
「これは投擲用大根だ」
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スキルはコピーして上書き最強でいいですか~改造初級魔法で便利に異世界ライフ~
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【文庫版2が4月8日に発売されます! ありがとうございます!】
異世界に飛ばされたものの、何の能力も得られなかった青年サナト。街で清掃係として働くかたわら、雑魚モンスターを狩る日々が続いていた。しかしある日、突然仕事を首になり、生きる糧を失ってしまう――。 そこで、サナトの人生を変える大事件が発生する!途方に暮れて挑んだダンジョンにて、ダンジョンを支配するドラゴンと遭遇し、自らを破壊するよう頼まれたのだ。その願いを聞きつつも、ダンジョンの後継者にはならず、能力だけを受け継いだサナト。新たな力――ダンジョンコアとともに、スキルを駆使して異世界で成り上がる!
【完結】スーパーの店長・結城偉介 〜異世界でスーパーの売れ残りを在庫処分〜
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スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。
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